1987/08/08 朝日新聞朝刊
岸元首相と戦後民主主義(社説)
岸信介元首相が死去した。90歳だった。岸氏はその戦前、戦後の長い政治経歴を通じて、昭和史にとって決定的な場面で、3回主要な役割を果たしている。まず、東条内閣の閣僚として、米英に対する宣戦布告の詔書に副署。次に民主党幹事長として、保守合同を推進。そして、首相として、日米安保条約改定を実現した。
この歴史的事実をどう受け止めるか。岸氏の政治家としての評価は大きく分かれる。岸氏の死に際して、改めて日本の政治と、その風土を考えざるを得ない。
戦後の歴代首相のなかで、岸氏ほど敗戦による戦後改革について否定的な評価を下した人はいない。4年ほど前に出版した回顧録で彼は次のように言っている。
「東京裁判は絶対権力を用いた“ショー”だった」
「占領初期の基本方針は日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい・・・その集大成が今の日本国憲法である」
日米開戦の時の政治指導者の1人として、素直に戦争責任を認める気持ちにはならなかったのであろう。
同じ敗戦国であっても、西独の場合とは違い、日本の保守勢力には、このような主張を許容する体質がある。A級戦犯に指名された岸氏が、首相に復活したことは、日本人は自分自身の手では戦争責任を明確にできないとの見方を生んだ。
冷戦激化による米国の極東戦略の大転換も岸氏復活のテコになった。米国は「反共」という一点によって、彼を認知してしまった。岸政権の誕生は日本の戦後民主主義の転換点の1つといえよう。
岸氏は一貫して憲法改正運動の中心的な指導者であり、その考え方は保守陣営に隠然たる影響力を持った。例えば、罷免された藤尾文相の発言内容は憲法改正の願望や東京裁判の否定など、岸氏の論理そのままである。
安保条約の改定に取り組んだのも「日本の安全は平和憲法があるから保障されているというような、なまぬるい、なまやさしい国際情勢ではない」(社会党の片山哲氏に対する国会答弁)からであった。
安保改定の強行は国論を2分、国会はデモ隊で取りまかれるような事態になり、新条約は衆院に警官隊を導入して強行可決された。この時、岸氏は有名な「声なき声にも耳を傾ける」という言葉を述べている。
さらに東大女子学生死亡、アイゼンハワー米大統領の訪日延期の際には「デモの参加者も限られたものだ。都内の野球場や映画館などは満員でデモの数より多い」とも語った。
これらの言葉は岸氏の民主主義観、国会観をよく示したものとして、記憶されている。
首相退陣後も実弟の佐藤栄作氏や岸派の後継者になった福田赳夫氏らを通じて政治的影響力を行使、現に次の総裁候補に名乗りを上げている安倍晋太郎氏は娘婿である。
その意味でも、最後まで現役の政治家であった。昨年の同日選挙で自民党が大勝した時は、わざわざ中曽根首相に「保守合同は間違いではなかった」と伝えた。
したたかな政治手法。情勢に適応する変わり身の早さ。政治家の資質には恵まれていた。安保改定など、自分の信じる政治路線を強力に推進した点では、ずば抜けていた。
保守合同、日米安保体制――いずれも、現在の日本政治の骨組みをなしている。岸氏を歴史的に評価する時は、これらの選択がもたらしたプラスとマイナスを冷静に判断しなければならないだろう。
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