1987/05/07 朝日新聞朝刊
歴史の痛み 公式参拝に強い反発(不惑の憲法:5)
「中曽根首相の靖国神社への公式参拝は、憲法の政教分離原則を踏みにじる行為でした。憲法は、あの戦争の尊い犠牲者の血で、あがなわれたものじゃないですか。にもかかわらず裁判所までが時の権力におもねる判決を出そうとは・・・」
北海道旭川市に住む古美術商・山下秀雄さん(68)は、盛岡地裁が3月、岩手県が靖国神社への玉ぐし料を公費から支出したことなどを合憲とした判決を無念がる。
山下さんは、弟をフィリピンの戦場で失った軍人遺族である。自らも、旭川市にあった陸軍28連隊の下士官だった。この連隊は、ガダルカナル島で2000余人もの将兵を「玉砕」させている。
○5度出された法案
ガ島行きを偶然、免れた山下さんは戦後、弟や戦友たちの霊を弔うのにどうすればよいかを悩み続けてきた。軍国主義日本のたどった道が誤りであった、と気付いてから「軍国日本」の精神的な支えとなってきた靖国神社へ、犠牲者がまつられることが納得できなくなったからだ。
昭和57年7月、北海道連合遺族会から山下さんのもとへ1通の書類が届いた。「靖国法の成立、公式参拝、英霊の日制定の実現を期す」ため遺族年金受給家庭は1万円を拠出するように、との要請書だった。その直後、開かれた同市連合遺族会地区代表者会議に神居地区代表として出席した山下さんは、意を決して「私は出せません」といった。みんなとつき合えないのなら遺族会から出ていったらどうだ、という反発に「そんなら出ましょう」。
地区の遺族70人も全員、山下さんに同調して遺族会から脱退した。その後、山下さんらは、日本遺族会とは歩みを異にする「旭川平和遺族会」を結成し毎年8月、独自の戦没者追悼会を催す。仏式に神式、キリスト教式と、めいめいが信仰する宗派の様式による追悼会だ。
信教の自由の保障とともに「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という憲法20条の政教分離をめぐる問題は、44年から政治的争点として浮上した。自民党が、靖国神社を法人として政府の管轄下に置き、財政援助をすることなどを骨子とした靖国神社法案を国会へ提出してからだ。国家神道による「祭政一致」へ日本を引き戻しかねないこの動きは、過酷な弾圧を受けて信仰の自由を奪われた経験を持つキリスト教徒ら宗教者をはじめ、各界に大きな衝撃を与えた。
ことは宗教問題にとどまらない。基本的人権、思想・信条の自由などとも密接にかかわる問題でもある。戦前、神道は政治と深く結びつき、その頂点に立つ天皇の名のもとに、政府と軍部の方針に反する言動はすべて弾圧された。靖国神社は、そのシンボル的な存在であった。
靖国法案は国会に5たび提出され、立法化がはかられた。しかし49年、衆院法制局が、靖国神社が宗教法人として行っている祭祀(さいし)を取りやめて、全く宗教性のない新法人になるならともかく、そうでない限り法制化は憲法に抵触するという趣旨の見解を自民党に示したことなどから、同党も法案の成立をあきらめ、方向転換せざるをえなくなった。
○他国への配慮欠く
憲法が「靖国護持」立法の壁になっているのなら、既成事実を積み上げ実質的に護持への道を開くべきだ――そんな自民党側の突き上げにこたえた政府側の対応が、「終戦の日」8月15日の靖国神社参拝であった。50年、三木首相が「私人として」参拝、53年に参拝した福田首相は「内閣総理大臣」と記帳。仕上げが「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根首相による一昨年夏の公式参拝であった。だが、それは1年限りで中止されている。
靖国法案の国会提出以来、野党はむろん、旭川の政教分離を守る運動のように各地で市民レベルの反対活動も活発になっていたが、国会での多数の力を背景にした首相・閣僚の公式参拝を阻むことはできなかった。歯止めをかけたのは戦時中、日本軍によって大きな被害を受け、公式参拝は、その苦痛への配慮を欠くものと受けとめた中国をはじめとするアジア諸国であった。
「岩手靖国訴訟」の原告団長である牧師の井上二郎さん(47)は、外国から非難される前に日本人の手で公式参拝をやめさせたかった、とこう強調する。
「判決文は一顧だにしなかったが、憲法に政教分離規定が設けられた歴史的背景が重要なのです。侵略戦争への反省も、その1つ。日本人は、とかく自分の立場でしか物事を考えられないが、視野を広げ、アジアの人たちとともに考え、連帯していく必要をいっそう実感します」(古川万太郎記者)
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