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江戸時代の主要航路と港
●江戸時代の航路(西廻り(にしまわり)と東廻り(ひがしまわり))
 江戸時代に入ると経済が活発になり、物資の流通が増大していく。江戸時代初期まで行われていた近距離の海運では間に合わなくなり、全国海運の長距離航路が開発された。その発端となったのが、山形・酒田の米をどこを通って江戸に運ぶかという問題であった。その結果、瀬戸内海と大阪を経由し、江戸にいたる西廻り航路と、津軽海峡を東に廻り太平洋を南下して江戸にいたる東廻り航路が開発された。
 西廻り航路はコースが長く、沿岸には瀬戸内海を中心にさまざまな産地産物が多い。後に北海道まで延長され北前航路(きたまえこうろ)と呼ばれ、大阪に物資が集中する航路となる。さらに大阪・江戸間の流通が巨大化したために、東廻りを大きく上まわる輸送量をもつ大動脈となった。
 西廻り航路の大阪・江戸間は、巨大な資本をもつ専門問屋が取り仕切っていたため、一般の船主では商売に参加しにくかった。しかし北前航路では流通の増大にともなって中小の経営者の参入が多くなり、船主(ふなぬし)が荷主(にぬし)を兼ねる「買い積み」船が発達し、速度より積載量を重視した北前船の独得の商売の形が生まれたと考えられている。江戸時代後期の海商(かいしょう)・高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)も北前稼ぎ(きたまえかせぎ)から身を興していく。
 
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●ぐるっと海道30000km
北海道から九州まで、日本の全長は2000kmをゆうに越える。この中に大小さまざまな島、山があり、海道がこれを結んだ。日本の人口は、近世初期に約1500万人を前後していたが、幕末には3500万人余の国になる。海道の文化が、日本を支え続けたのである。
 
一般的な弁才船と北前船の船形比較(最大積載量は同じ)
●上方型弁才船と北前型弁才船の船形
図は、実際の積載量が等しい上方型と北前型を比べたものである。平面図を見ると、上方型は笹の葉の形、北前型はナスビの形。断面図を見ると北前型の方が丸みがあり、前後のそりが強くなっている。
 
●北前型はなぜナスビ?
船は積載量に応じて港で税金を取られるが、図の定められた部分の長さを測り計算すると、税金の対象となる積載量は、北前型が上方型の2分の1になってしまう。北前型は計測の対象とならない船首近くの幅が広いからである。船主や船大工が工夫した江戸時代の税金対策である。
上図は松前港の測量箇所、ふつう新造船の積載量を計算する場合、長さは船底(敷という)の長さで測る。
 
Sea Route of The Edo Era
As the distribution of goods increased, two long-distance sea routes for Edo via Japan Sea were developed in the mid Edo Era. One was the westward route via Osaka and the other, the eastward route that passed through the Pacific Ocean. More goods were transported on the westward route because abundant products were available on that route. The westward route bifurcated off at Osaka for Japan Sea and the Pacific Ocean and the ship that sailed Japan Sea was called Kitamae-bune.







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