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(4)ピノッキオは、古典であっても名作ではない。
 以上の諸点からしてピノッキオの冒険は、確かに十九世紀末の社会を反映した古典であっても、現代を反映し、未来をさし示すべき名作とは決していえない。にもかかわらず根強く残っており、広く読まれているのは何故だろうか。
 第一に、受け手の我々の側が、子どもの世界(童話)はいつの時代にも変わらないという童話神話にとりつかれ、そのうえ、一部の人ではあるが独立運動の闘士=コロッディの作だからまちがいがないという幻想にとりつかれ、子どもの本を問い直し、差別・分断からの解放という視点をもって積極的に対処し得なかったことである。コロッディは、確かに独立運動の闘士であった。しかし、その独立運動はオーストリアの支配を打ち破り、サルジニア王国を中心とする統一イタリア王国(一八六一〜一九四六)を建設することであった。
 「コロッディは、当時のイタリアの独立と統一のために闘った革命家であり、この作品も大衆の目で書かれており・・・名作」とする図問研アピール文中の「大衆」のみならず「革命家」もまた、そうした時代の持つ歴史的・社会的な制約をまぬがれることができなかったことを想起すべきであろう。
 我々が、童話「ピノキオ」に障害者差別を見つけることができたのは、障害者解放の運動があらゆる困難を打ち破り、差別・分断の支配に抗するすべての人々と連帯しながら大きく前進しつつあるという「現在」に、われわれが生きているからであり、闘う側にわれわれ自身を置こうとしているからにほかならない。
 第二に、新しいものをどんどん吸収していく子どもを相手にするピノキオ作家(翻訳者・作家・監修者・さし絵画家)が、障害者運動の発展を省みることなくまさに百年一日のごとく、出版社とともに書きつづけてきたことをわれわれは問題にする。
 「イタリアのピノキオ公園に遊び、これぞ童話の国の理想と大感激したが、そこにも問題のネコとキツネの彫像があった。まあ文句を言う人は一度、あの公園を訪れてみるといい」と言う飯沢匡氏(週刊朝日一月二一日号)は、果たして障害者の実態をどれほどまでに把握しているのだろうか。
 第三に、古典・名作童話として広く知られていること、著作権が消滅しており、読者層にあわせて自由に改作することができることなどにより、出版社としては安直に大量生産をすることができるし安定した商品であり、巨大な宣伝費をかけることによって確実に利益を上げるものとなっているからである。
 因みに、小学館の国際版では、びっこのきつねとめくらのねこがセールスポイントになり新聞広告は勿論書店の前には等身大のきつねとねこが立てられた。こうした広告の仕方・売り方をとらえても、「差別をふやすこととお金をもうけることとはまったく次元の異なった問題」(図問研アピール)と言い切ることができるだろうか。断じて否である。
 この種の古典「名作」童話を大量に売りさばいてきたのは、すべて巨大な販売ルートと宣伝費を有する大出版社であったことを想起するだけで、これらの古典「名作」が誰によって維持されてきたか明らかではないか。そして、まさに「かりに差別をなくすべき闘いの本を出版したとしても、それは資本主義のルールをまぬがれるわけには行かない」(同アピール)が故に良心的な小出版社が苦闘している現実があるのではないか。
 あたかも出版資本だけは差別の助長・拡大に手を貸していないとするこの図問研の考え方は、障害者差別の実態を肯定的に描き続けてきた古典「名作」童話の保護者であり、大出版社の利益擁護者でしかない。
(5)いわゆるびっこ・めくらなどの問題について。
 われわれがアピールを出した段階で問題にしたのは、先述してきた如く障害者がどう描かれているかということであり言葉ではなかった。
 しかし、真っ先に反応を示したマスコミは、そのいずれもがびっこ・めくらという言葉に目をつけて報道した。小学館は「原則的に字句というよりも姿勢の問題」といいながら、びっこ・めくらの表現のあるものの回収を申し出るのみで、めくら→めのわるい、びっこ→足のわるい、と字句修正した国際版については、ついに居直り続けて今日に至っている。
 さらに週刊文春に至っては、「○○○のネコと×××のキツネ」というタイトルをかかげ問題を言葉狩りにすりかえている。
 差別の実態について注意を払わず字句修正だけでとりつくろおうとするこうしたマスコミや小学館の“自主規制”にこそ、障害者差別に対する彼らの認識を見てとることができるのである。
○ このように問題の本質は言葉ではないが、しかし言葉の問題がすべてどうでもいいということではない。
 「ピノッキオ」においては、びっこ・めくら・きちがい・いざり・かたわ・つんぼ・ばかおとしなどさまざまな言葉が使われている。
 これらの言葉は、障害者が社会の余計ものとして排除・抑圧されるに従って単なる状態表現から侮蔑語・差別語としての意味を持つようになったのである。同じ状態表現でも、ノッポとかデブとかハゲといった言葉が、一方で侮蔑語として機能している反面、人間集団の中に当然あるべきものとして受け入れられているのに対し、めくらとかきちがいといった言葉は、集団への参加を否定するものとして使われることが多い。
 実際、障害者が地域に足をふみ入れたとき、こうした言葉を投げつけられることによって足がすくんでまた家に閉じこもってしまうケースがあることを、障害者自身が提起している。
○ 以上の認識に立って、いわゆるめくら・びっこなどの言葉について我々は次のように考える。
・びっこ・めくらなどは状態をあらわす言葉であると同時に差別語としての働きをもっている。
・従って、言葉自体を現代に生かして使おうとするならば、必然的に差別を拡大することに寄与することになる。
・だから、もし、使おうとするならば、その前後に場面、全体のストーリーにおいて、その言葉の差別性を否定するものが必要になってくる。使う人の日常的な姿勢が問題になってくる。文学の名にかくれ、実態を反映させるだけで差別を温存するものは許せない。
・言いかえ(めくら→盲人、きちがい→精神障害者など)によって問題が解決しないことは確かだ。しかし障害者差別の実態について注意を喚起し、障害者解放への自覚と行動を促す(キッカケを作る)という意味で、これもまた過渡的に意味をもつ。
 
二、原作と改作(再話)について
(一)われわれの調査した範囲では、比較的原作に近いと思われるものは、二〜三点、その他の二〇数点はすべて改作(再話)ものであり、そのほとんどが幼児―小学低学年向きのものであった。
(二)改作は、決して読者に対する親切でやっているのではない。名の通った童話であり、すでに著作権を失ったものであり、幼児からはじめて小学低学年、高学年と進めて何種類もの本を買わせることができるという商業主義にその動機があることは明らかである。従って、改作ものは総じて文・絵とも興味本位に典型化されている。そのため、原作以上に障害者が強調される結果になっているものも多い。
 一方、例えば講談社のデイズニー版の如くびっこでもめくらでもないきつねとねこが登場し、金貨の代わりにりんごをもったピノキオが登場するというようなものもある。この二つの幼児向け童話の場合、われわれは後者を選ぶ。
 だが、こうした部分的な改作が成功することはまずない。ピノッキオを装った「ピノッキオ」を作る時間があれば、むしろ障害者差別を否定的に描く作品を作る努力をすべきではなかろうか。
 われわれは、ピノッキオの名を利用して安直にもうけようとする大出版社の共犯者になってはならない。
(三)古典は、あくまで原作に忠実に(たとえば貨幣の単位についても五〇〇〇万円とか二〇円とかいった日本の単位に直すことも不要)訳すべきだ。
 めくら・びっこという表現もそのままにすべきだ。でなければ、書かれた時代を反映した古典としての意味はない。そのうえで、誰にでもわかるような解説をつけるべきだ。
 
三、回収要求と言論・出版の自由について
 小学館労組・図問研常任委員会・国民融合をめざす部落問題全国会議・赤旗などは、いずれも回収要求を言論に対する封殺行為・ファッショ的挑戦であり、出版の自由に介入する反民主的な処置として非難し、小学館もその謹告の中で「表現の自由の見地からも慎重なる検討を・・・」とのべている。
(一)われわれは、われわれ市民のグループが回収を要求することは決して間違っていないと確信する。事は障害者差別に関する事柄であり、基本的人権に関する事柄である。われわれがそれが非常な重要性をおび、一日書店においておけばそれだけ差別が拡大すると判断したとき、とりあえずその本の回収を迫り、検討を迫っていくのは当然だと考える。
 そして、こうした提起を受けた出版社なり図書館が自主的に販売・閲覧を一時ストップさせる行為は決して間違ったものではない。
 むしろ出版の自由を握っている出版社や、本の購入・貸出しの自由を握っている図書館の真しな姿にほかならない。
 そのうえで、より広く討論を起こし、問題の本質をとらえることが必要なのだ。回収が、時にこっそりとまるでくさいものにふたをするように行われることには、われわれは断固反対する。(現在の小学館および市立小学校の現状がそれだ!)
(二)われわれの回収要求が言論・出版の自由に対する介入、ファッショへの道だという意見については次のように答えよう。
 何億円もの広告費を使い、何十万部ものピノキオを売りさばくことのできる小学館の自由に対して痛苦に満ちた障害者の叫びにどれだけの自由が保障されているというのか。差別とたたかおうとするひとにぎりの市民グループにどれだけの自由が保障されているというのか。大出版社にはどんな本でも(国家権力の規制範囲で)出版する自由があるが、読者である民衆には与えられた本を選択する自由(それも巧みな情報宣伝によってコントロールされている)しかない。差別を助長する本を放っておいて自然に淘汰されるものではない。反差別意識の高まりの中、個々の異議申し立てを通して、民衆の側の選択を社会全体の選択に変えていくことができるのだ。
 表現・出版の自由が云々される以前に障害者の自由はまったく無視されてきた。国家権力の手による抑圧はいうまでもなく、市民運動などという民衆の側の手によってもそうである(国家権力に意図的に操作される場合でなくても)。一般市民などというものも今まで充分に障害者の自由を奪ってきた。今も養護学校建設や障害者の入校を、障害者が来てもらっては困るという理由で反対署名を集める地域住民や在校生父兄の運動はその典型である。
 回収要求が言論・出版の自由をおかすこともあることは例えばそれが権力的規制や思想的統制になる場合にそうである。回収要求が問題であるかどうかは回収主体と回収対象の内容・質を一つ一つ具体的に見て判断するしかない。つまり、権力による規制や差別的エゴイズムの発揮か、それとも自由や権利を奪われてきた者のそれを取り戻していくたたかいか、である。ピノキオ告発は、名もない単なる読者にしかすぎぬ者たちの差別とたたかう文化創造の闘いであり、差別分断をなくし障害者解放を求めるたたかいである。
 
四、障害者解放の視点に立った物語をつくろう
 われわれは、大人の文学でも童話でも障害者が積極的に登場すべきだと考える。一方で障害者差別を克服していく人もおれば、一方で挫折し、家庭や施設に閉じこもっていく人もいる、という実態をそのまま描くことによって、差別の実態を考えさせること、分断・かくりを拒否し、健常者と障害者がともに生活できる条件を作ることこそが、すべての人にとって大切な課題であることを考えさせる作品こそ積極的に作り出していかなければならない。
 そして、今までの作品がもっぱら健常者の手によって作られてきたが故に、障害者差別を温存・助長することにもなっていることを考えれば、障害者自らが作品を生み出すことのできる状況を障害者を中心として作り出すことが大切なのだ。
 
資料III アンケート
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