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こころを共にする
 何が患者さんに必要なのかといえば、それはケアということです。ケアの基本的理念は何かというと、その患者と共にいてあげるということです。「患者と共にいる」というこのことこそが必要であって、それは物理的にいるということもありますが、こころが患者と共にいるということでもあるのです。癒しということは、まず患者さんの表情を深く読みとり、それから手を握って脈をみて、点滴の具合をみるというに習慣づけられるようになっていなければなりません。そしていよいよターミナルになってバイタルサインの落ちたときには、患者の苦しみの感じ方も低下してきますから、そういうときにモルヒネや鎮静剤を投与しますと意識がますますぼんやりした状態になってしまいます。ところが、ろうそくの灯が消える前にはポッと炎が明るくなるように、いのちも消える直前には清明になりますから、そのときには薬の量を控えて、家族や愛する人とお別れができるようなタイミングをつくってあげることです。そういう別れがすんでいますと、いざ臨終のときにも家族に激しい慟哭や悲嘆の状況は起こらないのです。私はこのように言います。「いまはまだ意識がおありだから、側で手を握ってあげて、お別れを言ってください」と。「これまでいろいろとありがとう」と親しい人たちがお別れの言葉を言えるように配慮することまでもが、プロによるケアの中には入ってくるのです。
 これからのターミナル・ケアのサイエンティフックな研究は、予後はどのくらいかということを推測した上で、その人の意識が戻ってくる時間を再現し、それを上手に使う方向にも発達していかなければならないと思います。
 私たちのからだは土でできた器にたとえられます。齢をとったり、病気をしたりするにつれ、器にひびがはいったり、ふちが欠けたり、水が漏れたりしてきます。土の器はすべての生き物と同じように有限なものです。しかし、あらゆる有限なものの中で、その器の中にあるこころというものは不滅です。病む人のこころを考慮した医療をホーリスティック医療、日本語では全人医療といいます。それはすなわち、からだとこころを対象とします。そしてもっといえば宇宙の広大な運行に思いを馳せたりしますと、人間の知恵は本当にわずかであって、絶大な宇宙の力が現存する。それは何か無限の存在を考えないと納得できないような奇跡です。知識としては理解できても、あの宇宙飛行士が感じた感動というものは、知識ではなしに、現実の中に否応なしに迫ってくる霊感です。それを英語では“inspiration”といいます。“inspire”というのは「空気を入れる」という意味です。旧約聖書の創世記によりますと、神様が塵を練って、そこに息を吹き込んだら、そこにアダムが生まれたと書いてありますが、神様から気をもらって人間ができた。私たちは宇宙の荘厳な理(ことわり)の前でひれ伏す、その感じがinspirationです。そして、spiritというのは先にもお話ししたとおり、“息”とか“空気”のことなのです。この空気が与えられて私たちが充実してくる。そういう状態が、人間としてのいちばん実存的なあり方なのです。
 
見えないものに価値がある
 からだはいつの日か、老い、そして病んでいきます。そして人間はすべて死の種をその身の内にもっているのです。科学的にいえば私たちはすべて終わりの遺伝子をもって生まれてくる。そうした中でいちばん大切なものは私たちのこころです。そのひとつは知・情・意という大脳の働きによる知的な判断力によるものです。もうひとつは私たちの感性です。その中にはspiritsという重大な役割を担うものがあります。からだという器は中に入れる水のためにあるのです。ですから、器はたとえ欠けたり、ひび割れたりしたところがあっても、水が清ければそれでよいのです。人間には何が大切かというと、目に見えないものがいちばん大切なのです。それは、器に入れた水にたとえることができます。その水はあふれたり、漏れたりしてまた大地に還り、それはまた樹の栄養となって葉を繁らせ、雨となって地を潤すのです。このようにいのちは循環しているのです。私たちの死もこの循環の中の一つとして存在しています。
 すべていのちあるものの中にあって、考えること、感じること、そして感謝することは最後まで人間に与えられた特権です。みなさんはそういう方々のこころを支えることができなければ、どんなテクニカルなケアをしても、それは十分なケアとはいえないのです。
 人間は病気によって変化を遂げます。しかし、病いの中で人はリバイバルするのです。夏目漱石は、修善寺の大患といわれる大吐血をしたときの経験から「私は病のうちに生き返った。私は善人になろうと思った」と書いています。病いを得たそのチャンスをいかによい条件として生かして、生きるということについて考え、感じられるように、病人をもっていくようなケアこそが必要なのです。
 フランスの哲学者べーヌ・ド・ビラン(1766〜1824)は「悩まない時には、人は自分自身をほとんど考えない。病気あるいは反省の習慣が我々のなかに下りてゆくことを我々に強いることが必要だ。自分が存在していることを感ずるのはほとんど健康でない人だけだ。健康な人は、哲学者でさえも、生命とは何かを探求するよりも、生を享楽することに没頭する。それらの人達は自分が存在していることに驚くことはほとんどない。健康は我々を我々の外の事物に連れゆき、病気は我々を我々のなかに連れ出す」(『日記−1792−1817年』)といっています。
 私たちは、生きていることが当たり前だと思い、または生かされていることに気がつかないでいるのです。
 プラトンは、「人間はある年齢になったら内なるものに返りなさい」といっています。病気になって、初めて人間はものごとをきちんと考えるようになるのですが、しかし、痛いとか苦しいときにはなかなかじっくり考えられません。そういうときに対症療法を行って苦しみを和めるのが、ホスピス・緩和ケアの大事な医療行為なのです。それと同時に、その人の壊れていく器の中の水を手で掬いあげるような支えをしなければならないのです。そしてその人のもっている免疫力が最高度に発揮されるように手を当てなければなりません。患者さんの側にいて、こころを添えて、共にあるということこそが、ケアの本質であり、医療の本質でもあるのです。不幸にしてその患者さんは亡くなられても、その方は癒されたと私たちは考えることが許されるのです。キュアは死から救うことです。しかし、ケアは死んでもそこに生き延びている魂なのです。ケアは敗北には終わりません。その人が本当に生きるために必要な行為であるケアは、もっと医療人が大切に取り組まなければならないものだと思います。







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