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慰めることはいつでもできる
 私は経験を積むにつれ、だんだんと医師のしていることは、結局は敗北だと考えるようになりました。医師はいつも負ける。みなさんは医者にかかり、医療を受けるのですが、誰も彼も死んでしまう。医療は、最後には敗北してしまいます。もちろん、心筋梗塞になっても大多数の人のいのちは助かるようになりました。しかし、傷害は完全に癒されるということはありません。私の患者さんで、45歳で心筋梗塞になった方がいましたが、7回再発して助かったのですが、8回目には亡くなってしまいました。結局、私は主治医としてこの方を完全に治すことはできなかったのです。
 このように治すことのできない病気はたくさんあります。先天性の疾患、の多くは治すことはできません。21世紀になれば遺伝子の組み替えによって先天性疾患のいくつかはどうにかできるようになるかもしれません。そのような希望はありますが、いま生活習慣病といわれている慢性病は治ることはないのです。一度かかったらそれきりです。動脈硬化症も高血圧症も治ることはありません。悪くなるのをできるだけ抑えるのみで、あとは手をこまねいているだけです。
 アンブロワーズ・パレ(1510頃〜90)というフランスの有名な外科医の言葉にこういうのがあります。
 (医者は)時には癒すが、
 和めることはしばしばできる。
 だが、病む人に慰めを与えることはいつでもできる。
 
 この言葉は、「医師よ、驕る(おごる)なかれ」と言っているのです。医師は、本当にわずかしか治すことができないではないか。しかし、慰めはいつでも与えることができるのに、医師はそれをしているだろうか。
 私はパレのこの言葉を思うにつけ、治癒を目的とした近代医学は医療の中ではほんの一部分であって、大部分は治療できない疾患に移行してそれで死んでしまうのだと考えています。しかし、死に至る病いをもつ人とかかわれるのが医師なのです。そのように考えれば、私たち医師は近代的な診断学や治療医学だけではなしに、患者さんの痛みをもっと取り除いて、苦しまないようにするという対症療法を目指さなければならないのではないかと思うのです。このためには、現在ホスピスで行われているように、モルヒネを上手に使うことによって痛みを取り除くといったような、苦しみをできるだけ少なくするという医学がさらに開発されていく必要があるということです。
 そして、どうしても死ななくてはならないということになれば、死んでいくその日まで、何とかその人の悲しい思いやつらいこころを支えることを医師もまた仕事としなければならないのです。
 
ケアの概念は広く、大きく、深いもの
 ここには看護婦さんが大勢おられます。看護婦はケアをその仕事としています。では、このようにカタカナで表記されている“ケア”とはどういう実態を表す言葉なのでしょうか。
 福沢諭吉先生には、「病人を世話するとはどういうことか」と論じた文章が『学問のすすめ』の中にあります。病人を本当に居心地のいいような状態にするということと、一方では苦い薬でも教育して飲ませることでその病気と闘うことができるように導く、この2つの意味があると書いています。また、俳人の正岡子規は、自分が結核で長いこと寝たままで家族の介護を受けてきた経験から、患者の側からみた看護人のやるべきことを“介抱”という言葉に触れながら見事に論じています。
 ケアというのは、これまでの日本では、“世話”とか“介抱”と呼ばれていたものといえましょう。ケアというのは、看護だけではなく、医師によるケアもあるし、もちろん看護職によるケアもあるし、また介護職によるケアも、家族によるケアもあります。病む人をお世話するということの中には、物で世話をすることもあるし、薬で世話をすること、そしてそれ以外にその人のこころを十分に支えてあげるということもケアの中には含まれていくのです。
 私は中学に入って英語を習い始めたときに、まず“Please take good care of yourself”というフレーズを教わりました。「どうぞお大事に」という意味ですが、直訳すれば「あなたがあなた自身のケアをしなさい」ということになります。自分を自分でケアをすること、これもケアです。ですから、ケアというのは、大きな傘の中で、医師がやること、ナースがやること、そして介護者や家族がやること、そして自分でできることは自分でやるということも含めて、それらが一つのシステムとして全部入るのです。
 そして一方では看護婦がこれまでやってきたケア以外に、これからは医師の仕事とされてきたようなことまでしなければならない時代がきているのです。どういう意味かといいますと、これからは看護婦であっても診断ができなくては困る、治療ができなくては困るという状況になっているからです。病院で医師と看護婦が一緒に働いている場合はいいのだけれども、在宅ケアの必要性が増してきたいま、訪問看護をする場合には看護婦がその病人の状態を見きわめることができなければ、やっているケアは不十分で、ある意味では危険な場合もあります。心筋梗塞の3分の1は痛みがありませんし、肺炎の半分は熱が37℃以上にはなりません。ですから、なぜ具合が悪いのかを家族は心配するのですが、「熱はないからいいでしょう」とか、あるいは「胸が痛くないから心配ないでしょう」といってそのままにしておくと、手遅れになってしまう。熱がないというのは、37℃以上ではないということであって、一般に老人の平熱は低いのです。私は自分の熱を毎朝計りますが、論文の執筆で2時間くらいしか寝なかったときなどは5度2分くらいです。ですから、それが6度2分になっていればはっきりと発熱していることになります。熱があるというのはその人の平生の体温よりも高いというのをいうのであって、平均は適用できないのです。そういうことを考えて訪問しないといけないのです。ですから、家族の人には、「お元気な時の体温は何度なのか計っておいて、私に知らせてください」と情報を提供してもらうように家族を教育しなければならないのです。最新の医学知識は参考書を読めばわかります。患者の健康情報をどう伝えるか、こういうことが本当の健康教育なのです。
 いままでの看護は、医師と同じ場所で働いていたところで提供されてきたのですが、家庭看護が主になってきますと、どうしてもその場で必要とされることは全部しなければならなくなります。これからは看護にも診断や治療の役目が入ってくるということ、誰ともチームプレイをやるようにすることが大切になるでしょう。アメリカはすでに30年前からこれが行われています。しかし、一方ではアメリカの医療はいま激変していますから、看護もまた大きく変わるかもしれません。それと同じように日本の看護も変わります。







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