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サドベリーバレースクール
スクールミーティングについて
 私達はサドベリーバレースクール(以下SVS)をニューイングランドに設立しました。そこは大都市ではなく町で、その運営が主としていまだ古風なスタイルでなされている地域です。町の条例、予算、その他諸々のことがタウンミーティングで討論され、決定されます。
 SVSも、週1回のスクールミーティングによって運営されています。そこでは子どももスタッフも対等の票を持っています。だれもが対等に扱われ、だれの考えも真剣に受け止められ、大人や年長の生徒がそういう場での振る舞い方を学んでいる年下の生徒を見下したりはしません。そういう雰囲気の中で生徒は討論の仕方を学びます。ミーティングではルールが決められ、特定の活動の運営を選ばれた役員や委員会に委ねます。
 
司法委員会について
 どんなグループでも問題解決の必要があります。規律も学校の枠組みに合うためには民主的でなければなりません。SVSにはルールに関する問題を解決する司法委員会があります。委員会はあらゆる年齢層の8名程度からなり、定期的に交代します。それはとても小さな、とても公正な法廷として機能しています。アメリカには“適正手続き”という言葉があります。日本にもあるかどうかわかりませんが、同じような概念はあるでしょう。それは“人は公正に扱われ、すべて事実が明らかになって有罪の判決が出るまでは無罪として扱われる”ということで、わが校のシステムもそれに則っています。委員会は毎日集まって持ち込まれた苦情を審査します。苦情は学校内の一員が、「誰かがルールを破った」と思ったときに出されます。審査の段階でその苦情に関わるすべてのメンバーが“何があったと考えているか”を自由に述べ、その審査に基づいて委員会が報告書を作り、1人あるいは複数の人間がルールを破ったと決定します。該当人物が罪を認めて罰を受けることもまた無罪を主張して裁判になることもあります。それは驚くべきシステムです。それほど込み入ってはおらずとても有効です。個人的にはこのシステムの中でその子の行動を変えさせる力があるのは審査だと思います。仲間の中で何が起こったのか話すのです。他の人がどう思っているかを聞くことが行動を変えます。私はそれについて確信があります。
 
基礎学力について
 だれもが子どもに基礎学力がつくかどうかを心配します。日本でもそうなのかどうか知りませんが、たぶんそうだろうと思います。人々は子どもを自由に遊ばせておいたら学ぶべきことを学ばないと心配しますが、私はその心配は馬鹿げていると思います。なぜならすでにおわかりのように私達の社会では、子どもたちは情報の嵐の中にいてその情報自体が何が“基礎”なのかを教えるからです。恐らく社会全体にとって重要なことなら、今の子どもによって無視されることはほとんどないでしょう。
 
話す力と読む力
 子どもは遅かれ早かれ、だれにとっても必要なのは読むことだと気づきます。ところが読むことはとても難しいことです。しかし話し方をマスターした人にとってはそうでもありません。“話す”ことこそ本当にとても難しいのです。なぜならゼロから出発しなければならないからです。話すためには、頭の中で概念を言葉にして表現することを発達させねばなりません。表現する前に概念を発達させねばならず、次に概念と言葉を結びつけなければなりません。お子さんをお持ちの方なら子どもが最初に発した言葉を覚えているでしょう。それまで多くのサインによる意思の伝達はあったにせよ、言葉は発達の大きな目安になりますので、コミュニケーションの制限がないというのはどういうことかおわかりになると思います。多くの親御さんは子どもが最初に抽象概念を表現した時のことを覚えておられるでしょう。子どもがそれだけのコミュニケーション力、すなわち社会とつながる力を身につけるのを見るのは実にエキサイティングです。そうなれば子どもとの関わり方も飛躍的に豊かになります。すべての子どもが話す能力を身につけるようになるという事実がわかり、読む能力についての心配もしないようになります。話すのに比べれば読むのは簡単なことですから!
 
大人の役割
 人々はよくSVSのような学校では大人は何をするだろうと疑問に思います。大人はスタッフと呼ばれ、1年に1回選ばれます。何年間スタッフをやっていても、いつ交代させられるかわかりません。これは理論的には不安定なことですが、強調したいのは学校にいるのは選ばれた大人であって一方的に子どもにあてがわれた人ではないということです。では大人は何をするのかというと、特に学校の運営を助けます。たとえばある人は校舎とグラウンドの管理責任者です。彼は選ばれてその役割につき他の多くの人を協力させています。彼が毎年その役に選ばれるのは、彼がモデルとして役割を果たすそのやり方が気に入られているということもあります。ですから役割モデルになるのは重要なことです。生徒は大人が仕事をするやり方を見ることができますし、自分たちより豊富な経験があって、違う見通しを示せる人として大人を利用できます。それは木登りにたとえられます。大人はより高いところまで登っているのでより遠くまで見通せるというわけです。また大人は子どもが抱えているのと似たような問題を過去に解決したか聞いたことがあり、そうした大人と話すのは役に立つことです。またある時は大人は生徒が学びたいことについて実際に知っています。それは大きな役割ではありませんが、役割の1つです。
 
親と子どもの関係
 親は子どもの人生にとって最も重要で、すべての事柄に関して他のだれよりも大きな影響を与えます。それは親がそうしようと思ったからではなく、子ども時代は親に依存さぜるを得ず、その家庭の雰囲気の中で学ぶしかないからです。学齢期になると子どもは多少親から離れた生活を始め、そうなれば独立を促すのが親の仕事になります。それは難しいことです。というのは親は子どもを愛し、成熟した大人に成長してほしいと望むと同時に、部分的には親のコントロール下に置きたいと思っているからです。このことで親子関係は微妙でときに困難なものになります。それは学校の状況と不調和を起こすことにもなります。
 SVSのような学校へ行かせるには、親は子どもを信頼し、いつもそのように振る舞わなければなりません。そして成熟した大人にするという大きな目的を常に頭に置いておく必要があります。私が今主張している自由を子どもに認めるのは、アメリカでも日本でも幾分カウンターカルチャー(文化の主流に対し、対抗的な価値観を示す)的です。子どもが伝統的な学校へ行くと、親と似たような経験をするので親は安心します。しかし子どものためにもっと大きなものを望むなら、もっと不思議ともいえる方法で成長するのを認めなければなりません。それは困難ですがいい結果を生みます。実際自由を与えられた子どもは家族からの非難に対して抵抗する必要がないので、一生を通じて家族と接触を続けます。逆説的な感じがしますが、子どもを自由にして親しい関係を保つか、自由を禁じて反抗させるかです。
 
子どもの力
 多くの人々が“自由”な学校へ入った子どもがどうなるか関心を持ちます。そのような子どもは規律のない散漫な人間になるか、何か特定のことはできるにせよ社会に適応できないのではないかと恐れるのです。ある意味ではそれは本当です。そういう学校に行く子どもは社会が今よりよくなることを望みます。それは良いことだと思います。もしこうした教育の結果、よりよい社会を望む大人の割合が増えればさらに良いでしょう。私は物事は根本からしか変えられないと思います。子どもがどのように育てられるかが、どんな大人になるかを決めます。そしてもしSVSですばらしい大人を育てることができれば、私はとても幸福です。
 SVSの生徒に規律がないというのはとんでもないことです。強制も説得もないという学校に行けば、すべての子どもは人間関係によって自然な内的動機づけを得ます。それは避けられません。内的動機づけは、働くにせよ、学問の道に進むにせよ、強力な財産です。SVSを出て大学に進んだ子は何の問題にもぶつかっていません。彼らはだれかにそうすべきだと言われたからではなく、そうするのが論理的だからそれをするのです。彼らには成功するための能力、つまり集中力や焦点を絞る能力、内的動機に基づいて興味のあることをとことん追求する力があります。それは自分の頭で考えしかも熱心な学生や労働者になるために必要なことです。
 こうした結果を得たいならこの種の学校には価値があります。集中力があって、熱心で、よりよい世界に関心がある、そういう子どもに対してそれ以上に何を望むのですか?
 







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