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あいさつ
 21世紀幕開けの年、私達「With Kids」はサドベリーバレースクール(以下SVS)より代表のミムジー・サドフスキーさんをお招きすることが出来ました。
 これはWith Kidsでの集まりを中心にしたミムジーさんと各地の人々との交流記念誌です。
 「With Kids」は“子どもの成長を真剣に考えサポートし、大人自身も子どもと共に成長していこう”という心を持った人々の集まりです。その願いの中で「まっくろくろすけ」というデモクラティックスクールが誕生し、今年はその5周年を迎えます。そこで、With kidsの活動や「まっくろくろすけ」がより充実した場となるようにSVSの創始者の一人ミムジーさんに日本に来ていただき、SVSでの34年にわたる実践を私達に分け合ってもらいたいとお手紙を出しました。「子どもの生まれ持った自ら成長していく力や自律・子ども達自身による自治などについてもっと深く学びたいので、是非私達のところを訪問してください」と。
 ミムジーさんが私達の突然の申し出を快く引き受けてくださったのが、今回各地での学びと出会いの始まりでした。その後、この貴重な機会を“子どもの成長・学び”を真剣に考える多くの人と共にしたいと呼びかけたところ、5つのグループが協力してくださることとなったのです。
 高砂で開かれた「全国オルタナティヴスクール&スペーススタッフ交流会」では全国のオルタナティヴな教育に携わる人々と交流が、神戸と名古屋では親・教師・学生等の一般市民全ての方に参加を呼びかけた大規模な講演会が、大阪では「子どもが元気をなくさない学校(フリースクール)と家庭を!」と呼びかけ交流会が、藤沢では「日本にもチャータースクールを作ろう」という方々が中心となり講演会が持たれました。そして私たち「With Kids」では「まっくろくろすけ」の保護者・スタッフ・支援者等と1泊2日にわたって密度濃い懇談の時を過ごしました。
 それぞれに非常に活気のある学びの多い有意義な集まりとなり、その様子を参加されなかった方々にも是非お伝えしたいとこの交流記念誌を作りました。
 新しい世紀に入っても世界は更に対立を深め、また子ども達を取り巻く環境も様々な問題を抱えたままです。子ども達とともに少しでもよりよい世界を作っていきたいと願う全ての人々に、ミムジーさんと各地の人々との対話が何らかのヒントになれば嬉しく思います。
 
 最後になりましたが、N.Yのテロ事件から1ケ月も経たない折に予定通り日本へ足を運んでくださったミムジーさんと、彼女の来日の趣旨・意義をご理解いただき、ご協力くださった皆様に厚く感謝申し上げます。
 
2002年3月 「With Kids」今井 忍
 
ミムジー・サドフスキー氏講演
情報化社会に生きる子ども達
 お招きいただいてありがとうございます。
 私達は今、広く開かれた世界に住んでいます。情報は、インターネット、テレビ、いつでもどこでも利用できる読み物、映画、レコードなどを通じてとても自由に流れているので、私達がみんな同じ言葉を話していないのが不思議に思えるくらいです。実際、大陸や国ごとの、ときには地方ごとの文化の違いは、同じようなものにも様々なバラエティがあるということを知るうえで妨げになってはいないようです。
 2〜300年前の世界は今では想像もできません。その頃外国からの旅行者はいたもののごく少数で、彼らが出会う人々の数も限られていました。大多数の人は自分たちのまわりの狭い地域の物事しか知りませんでした。つまり彼らの知識はその地域からしか得られなかったのです。日常生活以外の知識は、口頭での言葉を通してあるいは芸術を通して得られていましたが、文字を通してということはあまりありませんでした。その頃は字を読める人が限られていましたし、書かれたものを手に入れることも難しかったからです。
 今日、ソニーや三菱、GEやマイクロソフトによる重要な発明は、ボストンや東京、大阪、サンフランシスコでも同じように速やかに知ることができます。これが情報化時代です。日本やアメリカでも人々は常に情報の嵐にさらされています。このことの重要性はいくら強調してもしすぎることはありません。
 幼い子ども達のことを考えてみてください。彼らはあなた達の子ども時代よりはるかに多く知識を持っています。私くらいの年齢の人なら、このことを2世代ぐらいに渡って見てきているはずです。年代別に見てみると、私の子どもは私より多く、孫はさらに多くの知識を持っています。多くの人はこれをあまりいいこととは思っていませんが、私はこのことをあれこれ評価しようとは思いません。私に言えるのはただこれは動かし難い事実であるということだけであり、他の人もそれを事実だと認めるべきでしょう。
 今日利用できる情報は幅広くしかも深いので、多くのことを学んでいかなければ生きていくことはできません。このことは私がこれから論じようとしている教育という概念に対して重要な意味を持ちます。この処理できないほどの情報洪水にさらされるという事実を認めたなら、子ども達が新しい情報を確実に手に入れられるかどうか心配する必要はないということがわかるはずです。だれも彼らが毎日学ぶのを止めることはできません。実は私達のだれもが学び続けているのですが、子ども達の方が学ぶのが速いので私達のほうが若干のろく感じてしまうのです。それはたぶん私達は子ども達のように多くの情報にさらされず、刺激を受けなかったからでしょう。今日の子どもは有利な条件でスタートしています。現代の生活はとても密度が濃いので、彼らは早くから洗練された世界に住んでいるのです。
 子育てに関する私達の役割は数世代前とは違います。私達は子ども達が何を学ぶか心配する代わりに、彼らが助けを必要とした時に助ければいいのです。たとえばもっと多くのことを知りたがっている時とか、理性的な社会で他の人と共に生きていく方法を模索している時などです。
 今の世界では、日本でもアメリカでも、ほとんどすべての子ども達が飛行機がビルに突っ込んだことを知っています。このことをじっくり考えてみてください。あのような出来事は一世代前には考えられなかったでしょうが、今やそれ以上のことを考えなければなりません。一世代前なら子ども達にああいう出来事を知らせない方法はあったでしょう。特にそれが他の大陸で起こった場合には。今日子ども達が無知なままでいてほしいと思っても、それはほとんど不可能です。情報化時代は私達を永久に変えてしまいました。
 アメリカには文明と接触しないような地方に移り住んだ人々もいます。日本にもいるかもしれません。彼らは理想主義的ですが、私にはその理想がどんなものであるのかよくわかりません。私にとって世界は一つであり、一つのものとして円滑に動くようすべての時間と努力を捧げるべきだと思います。それが今までと違った教育の解決を探っている人達がやろうとしていることであり、その点で私達は草の根レベルで互いにつながっていて、意識的で人間的な社会を作るために活動しています。
 
生存のメカニズム
 同様に重要なのは、人類とは何であるか、人間に何を期待できるのかはっきりした定義を持つことです。頭脳の進化についての理論の大筋は知られています。その中に“種の中の適者生存”という考えがあり、最も基本的なレベルで私達は生存のために努力できるよう生まれついているというのです。21世紀の人類にとって生存とは、まず何より大人になるために取り込んだ情報を自分のものにすることです。
 私は子どもは普通、適正な生存のメカニズムを持って生まれてくると信じています。つまり子どもは少なくとも生れた時から(おそらくそれ以前から)、自分の置かれた環境からできる限り学ぶために懸命に努力しているのです。人は世界がどのように動いているのかを最高速度で学び続けます。0〜1才の乳児のことを考えていただければおわかりだと思います。子どもは見知らぬ環境の中に生まれてきて、恐らく母親の声と心臓の鼓動音以外に知っているものはないのに、その中で生きていけるようにならなければならないのです。何の文化的背景もなく、ただちにその中で快適に生きていくために文化に適応し始める―なんて大変な仕事でしょう!これでは不幸な赤ん坊がいても何の不思議もありません。生まれてほんの一年ぐらいの間でさえ、環境を学ぶために大変な成長をしなければなりません。乳児がたった一日の間に成し遂げなければならないことを考えると、私は日本語をほとんど学んでいないことを恥ずかしく思います。赤ん坊に比べれば私はとても愚かだと感じます。
 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「人は好奇心を持って生まれてくる」と言いました彼らは座り方、はしやスプーンの持ち方、這い方、歩き方、しゃべり方などを学びたがっています。その好奇心の結果、赤ん坊はしばしば物を壊したりもします。子どもは自発的にコミュニケーションの方法を学び、一人で移動しようとします。それと同じ内的動機によって、人は社会の一員となるために必要な情報を求めるようになるのです。例えばお金の扱い方や字の読み方を学ぶことは大事だとすべての子どもが理解するのは明らかです。なぜならそれは自立した大人がやっていることだからです。すべての子どもは社会に貢献できる一員となる要因を持っています。それが今日の言葉で言う“生存”ということなのです。そして好奇心は生存を保障するための道具なのです。
 子どもは単に偶然出会ったことを学ぶだけでなく、自分に何が必要かということも学びます。私はすべての人は必要なことを学ぶのだと思っています。自分の能力に疑問を持たず自信を持っている人は、常に何が必要なのかを考えるでしょう。少しこのことについて話しましょう。
 人はだれ一人として他人と同じ存在はなく、まったく同じ人生を歩むこともありません。同じ仕事をしていても同じような興味を持っているとは限りません。
 子どもはごく早い時期から大人がしていることと、大人が知るべきこととの間に大きな違いがあるということを見ていることは明らかです。だからといって子どもがあることを確かに学ぶかどうか心配する必要はまったくありません。だれもが知るべきことがあるとすればそれは自然に明らかになり、すべての子が自分なりの方法で学ぶでしょう。特殊なことに関しては、興味のある子だけが学ぶでしょう。そこから導かれる結果は、すべての人が一生を通じて学ぶということです。
 しかしそれは通常私達が子どもの教育において見ていることとはかけ離れています。子ども達は、学校に行くまでは自分なりのやり方で物事を探求していますが、学校に入ると特定のカリキュラムの中に組み込まれてしまいます。他人が選んだやり方で、他人が選んだものを他人が選んだ時期に学ぶということがある程度の期間続くと、多くの生徒は自分自身の好奇心を失います。ほとんどの子どもは幼児期ほど効率的に学ばなくなります。
 学びは人間にとって自然であり、好奇心は生来のもので、21世紀の“生存”とは21世紀にふさわしい人間になることだと理解してきました。私達は19世紀ではなく21世紀の人間です。これからこの世の中ではどういう能力が求められるのかというモデルが存在することがわかってきました。
 ですから学校はこうあるべきだという時、常に自問せねばなりません。学校が何を生み出すことを望むのか?私達は子どものために何を望んでいるのか?私は子どもが社会に快適に適応し、日々出会うストレスを処理していくことを望みます。そして自分の人生をさらには世界の歴史を作っていけると感じること、自分が満足でき「こう生きたい」と思うような人生を見つけ、もしそうでなければ変えていくことです。私は親として、教育者として、子どもが倫理感を持って育つことが重要だと思います。倫理感は講義によってではなく日々の生活や会話の中身としてあり、何か決定するにあたって倫理がカギになっているようなそういう社会に生きることによって身につくのです。







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