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2. 当院外来患者の死生観の聞き取り調査(継続中)について
1)この調査について
 はじめに、この聞き取り調査は外来の時間を縫っての作業であり、聞き取りを完了しないまま終わってしまうことや、現在継続中であることなどの事情から、以下の文章の構造として、〈結果〉としてはいくつか事例をあげたうえで簡単に全体の傾向を振り返り、〈考察〉としてはその全体的な傾向や暫定的な印象にもとづいた結論を出すにとどまる段階であることを、あらかじめお断りしておきたい。
 
表(5)「お迎え」という言葉から連想することは何ですか?
(1) 先祖や知人が迎えに来る 22名 26%
(2) あの世・彼岸から迎えに来る 12名 14%
(3) 天国・極楽から迎えに来る 9名 10%
(4) 仏様が迎えに来る 7名 8%
(5) 神様が迎えに来る 3名 3%
(6) 次の生・来世への旅立ち 3名 3%
(7) 黄泉の国・地獄に行った 3名 3%
(8) 22名 26%
(9) 死期の切迫 6名 7%
(10) 安らかな死・死の受容 6名 7%
(11) 別れ・悲しさ・さびしさ 5名 6%
(12) 寿命が来た 3名 3%
(13) 仏教の教義 3名 3%
※「死後の世界に移動する」タイプの(1)〜(7)が69%を占める。
 
2)目的
 地域に受け継がれてきた死生観の生の声を事例収集することによって、個人の「お迎え」の背景をなすと予想される、集団的レベルの死生観を素描することを目的とする。
 
3)方法
 当院外来で通院治療を受けている患者を対象に、「死後に何が起こるか」「あの世の存在の是否」「あの世の具体像」「身近な『お迎え』体験の有無」「『お迎え』の示唆することは何か」「先祖を敬う理由」「家の『葬式宗教』とは独立に自らの信仰や信心をもつか否か」などについて、聞き取り調査をおこなった。
 
4)結果
 2001年9月20日現在、16名の当院外来患者に対し、聞き取りをおこない、継続中である。まずサンプルを3例呈示する。以下の質問1〜7に対する回答を答1〜7とする。つぎに、暫定的に全体の傾向をまとめる。
 
質問1: 「家の宗教は何か?」
質問2: 「家の宗教とは別に個人的な信仰や信心があるか?」
質問3: 「死後はどうなる?あの世はあるか?」
質問4: 「あの世の具体像は?」
質問5: 「身近に『お迎え』を見聞きしたか?」
質問6: 「『お迎え』は何を示唆するか?」
質問7: 「先祖を敬う理由は何か?」
 
(患者1)O氏、75歳、女性
回答1: 浄土真宗。
回答2: なし。
回答3: わからない。たぶん無だろう。
回答4: 会えるものなら先祖に会いたい。
回答5: 舅が体験。亡くなる約3年前から先祖の姿を見ていたようだ。
回答6: 「お迎え」はあると思うが、あの世の証明とは思わない。しかし、先祖の霊に守られたと感じる経験はあったので、何とも言えない。
回答7: 釈迦も観音も、会ったことないので信じていないが、先祖は供養するものだから。
 
(患者2)W氏、69歳、女性
回答1: 真言宗。
回答2: なし。
回答3: 死後魂が天国か極楽に行く。
回答4: 天国、極楽。
回答5: 舅が体験。亡くなる約3年前から先祖の姿を見ていたようだ。
回答6: 「お迎え」は魂の存在の証明だと思う。
回答7: この世とあの世の無事を、先祖にお願いするため。
 
(患者3)S氏、75歳、男性
回答1: 浄土真宗。
回答2: なし。
回答3: あの世はある。死んだら山に行く。
回答4: 人がたくさんいる、この世の延長のようなところに移り、そこで実際に生活するようになる。
回答5: あるらしいが、身近にはない。
回答6: 「お迎え」はあの世の存在の証明だと思う。人によりけりで、どの神様をどのようにおがんでもいい、と思う。
回答7: 先祖に感謝するため。
 
 以上およびほかの事例を、ここで簡単に振り返っておくと、以下のようになる。
 
1. 「信仰・信心の有無」
 全例、「家の宗教」としては、何らかの宗旨をもっていた。しかし、「家の宗旨」を、そのまま自分の信仰・信心の帰依の対象としている人は今のところ16人中2名。1名は、「家の宗教」とは別のいわゆる「新興宗教」を信じていた。3名は未回答。ほかの方は、個人的な信仰や信心はもっていないと回答した。
2. 「死後どうなるか/あの世はあると思うか」
 複数の回答が微妙に錯綜し、重なり合っている印象をもった。「何らかの『あの世』に行く」と断言した方は3名。「死後は無である」と断言した方は2名。死後は無であると思うと答えながらも、「お迎え」は否定しない方が数名。残りの方々は、死後のことは考えたことがなかった、あるいはわからない、と回答した。
3. 「あの世は、どんなところか?」
 「天国」「地獄」を連想した方が1名。だれだかわからないけれどとにかく人がたくさんいて、何処かこの世の延長のようなところに再び「住む」ようになる、と答えた方が、1名。残りの方々は、未回答、または「わからない」。
4. 「身近な『お迎え』の有無」
 少なくとも8名が、自ら近親者の「お迎え」を体験したか、話に聞いた、と回答した。
5. 「『お迎え』の示唆することは何か?」
 少なくとも14名の回答に共通する答えとして、以下のような考えがあった。すなわち、「『あの世』の有無にかかわらず、『お迎え』はあっても不思議ではない。いずれにせよ、先祖を敬い、盆や正月には先祖にさまざまなことをお祈りするのが大事だと考えている」。「お迎え」はあの世の実在を直接に証拠立てるものかどうかについては、意見が分かれた。なかには、「お迎え」は死後の魂の存在を意味する、と答えた方も1名いた。
 
 以上をまとめると、傾向として、暫定的には以下のようになる、と考える。
(1)個人的な信仰・信心をもつのは約2割。
(2)約2割が、「あの世」は存在すると考えている。残りは、否定または不明。
(3)「お迎え」を見聞きしたのは最低5割。
(4)ほぼ全員が、盆や正月などの、先祖への宗教的儀礼を大切なものと考えていた。
 
5)考察
 以上の暫定的な傾向から、とりあえずの可能性としては、つぎのような死生観が平均的に存在していると推測される。すなわち、「死後の世界の実在は必ずしも自明ではないが、先祖を日ごろから崇拝することや、先祖を敬うために盆や正月に祈ったり墓参りをするなどの宗教的儀礼は大切である。『お迎え』は、自分が体験するかどうか予想できないが、あってもおかしくはない。」
 この死生観は、あくまでも「素描」ではあるが、われわれは、上のような死生観が、高頻度に証言される「お迎え」の背景をなしているのではないか、と考える。また、この聞き取り調査で、すでに少なくとも5割が「お迎え」を見聞きしていたという結果が示されたことも、以前のアンケート調査で得られた、7割が「お迎え」を見聞きした、という結果を支持するものであると考えられる。
 
3. 死生観文化の実態と在宅ホスピスの可能性、日本型ホスピスの可能性
 以上の調査結果から、臨終の場としての在宅について、死生観文化とのかかわりの観点から、暫定的な考察をしてみたい。
 在宅ホスピスで過ごす患者は、とくに臨死期において、日ごろの潜在的な死生観を浮き彫りにする言動がみられる傾向にある。また、その言動は家族のもつ死生観と密接に並行していると推測された。この実態は、これまで常識的にイメージされてきた病院での無宗教的な臨終の場面とは、一見したところかなりかけ離れている印象をもたれるかも知れない。しかしまた、必ずしもキリスト教や仏教の死生観をそのまま反映するものでもない。確かに、「お迎え」が病院やホスピスで多数まとまって報告されたという例は、これまでは皆無に近いのではないだろうか。そしてその結果、医師や看護婦その他の病院従事者やホスピス従事者、医学教育に携わる多くの人が、「日本人は臨死期にはたいてい無信仰であるか、または仏教やキリスト教的な死生観を表明する」といった素朴な印象を何となく抱きつづけ、その素朴な印象のまま臨死期の患者さんに接してきたのではないか、と考える。
 しかし、ここでわれわれは、この大多数の病院従事者やホスピス従事者のもつ「素朴な印象」は、一つには家族が患者の最期の時間に立ち会える環境である在宅ホスピスが普及していなかった、というこれまでの日本の医療事情によるものではないか、と推測するのである。
 1990年代に、朝日、読売、毎日の各新聞社やほかの調査機関がおこなった調査の結果では、約3割の日本人が何らかの個人的な信仰や信心をもっていることが示された4)。このことは、換言すれば約7割の日本人は自らを「無宗教」だと考えている、ということである。しかし、数年ではあるが、在宅ホスピスの実践を通じて得られたわれわれの経験的印象、および荒削りながらおこなったわれわれの調査からは、上述のように、「お迎え」を筆頭とした、家族や地域の死生観文化と内容的に密接に関連した臨死期の患者の言動の実態が明らかになりつつある。つまり、われわれの調査で、その結果は日本人が必ずしも無宗教ではないこと、しかし必ずしもキリスト教や仏教だけで分析できる死生観が普及しているのではないことの可能性を示唆した。この実態にとりあえず立脚して、暫定的に指摘できるのは、病院やホスピスで「お迎え」があまり観察されてこなかったのも、これまで病院やホスピスが、ともに臨死期の場としては、本人や家族や地域の自然発生的な死生観文化の入り込む余地の少ない特殊な環境であったことに、少なくともその一因があったのではないか、という可能性である。
 さらには、「はじめに」。で述べたように、岡部の印象としては、「お迎え」が来た患者の最期はほとんど全例が非常に穏やかであった。このことからわれわれは、臨終の場として病院型医療施設と在宅のどちらを選ぶのかは、臨死期の患者のQOLにかかわる大きな環境的要因である可能性がある、と考える。少なくとも病院やホスピスにおいても、患者の臨終に際し、もしも本人や家族の「等身大」の死生観文化の入り込む余地のある環境が整えられたならば、最期のあり方がこれまで「病院死」として形容されてきたようなあり方とは非常に異なるものとなる可能性があるのではないだろうか。少なくとも、その可能性に留意した対応が、日本型ホスピスのあり方を探るうえで、求められるのではなかろうか。そして同時に、家族に「最期の時間」を提供できる在宅ホスピスの可能性にさまざまな角度から光をあてるべきなのではないだろうか。
 
おわりに
 当院の調査では、日本人が臨終期においては必ずしも無宗教的な心理状態や、仏教やキリスト教的な死生観のみにもとづく心理状態ではないことが示唆された。臨死期には、祖先や近親者との対面を表象内容とする「お迎え」が高頻度に証言され、調査で粗く素描された地域の死生観文かも、内容的には「お迎え」を支持するものである可能性が示唆された。
 この結果からわれわれは、日本型ホスピスのあり方を模索するためには、従来のように日本人の臨死期の心理状態があたかも無宗教的であるかのような素朴な印象に無反省に依拠した対応をしたり、またキリスト教や仏教の枠組のみで括ったかのような対応をするのではなく、臨死期の患者の心理状態や家族の言動の実態を観察し、その結果から推測される日本人の「等身大」の死生観のあり方に即した対応をするのが、むしろ実状に適った患者―医療者関係を可能にし、ひいてはQOL増進に寄与する可能性があると考える。
 むろん本稿は、特定の信仰や信心をもつことを奨励するものではなく、臨死期の患者や家族の心理の実態把握にもとづくことの重要性と、その実態に対する医学的、心理学的、哲学的、社会学的、宗教学的、民族学的、文化人類学的、病院管理学的、などのさまざまな観点からの学際的かつ多面的な検討の重要性をこそ強調したいと考える。
 さらには、西欧から引き継いだホスピスの思想を日本の実状に即したものにするために、病院死と在宅死を比較することで認められる「お迎え」をはじめとした宗教的心理状態の段差を把握し、そこから逆照射される、臨終の場としての病院や既存のホスピスの特殊性、および在宅ホスピスの可能性を、多面的に再検討すべきときにきているのではないだろうか、とも考える。
 
文献
1)阿満利麿:『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書、東京、1996. 第1章および「あとがき」参照。
2)われわれは、われわれが経歴上接してきた医学部の学生や病院従事者間で、個人的な信仰をもつのは1割以下であるという印象をもっている。岡部は、100人の医学部学生に対する講義中、学生に個人的な宗教をもつかどうか尋ねたところ、もつと答えた学生は数人だった。また、たとえば、「葬式仏教」という言葉が人口に膾炙しているという事実からも、多くの日本人が祭礼に際してのみ創唱宗教3)、を「利用」していることが示唆されるのではないか、と考える。
3)阿満、前掲書、P.11. 阿満は日本人の宗教心を分析するうえで、宗教を「創唱宗教」(キリスト教、仏教など)と「自然宗教」(自然発生的な宗教)とに区別することの有効性を述べている。
4)石井研士:『データブック 現代日本人の宗教』、新曜社、東京、1997年、p.7.







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