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三、日向の櫨
 宮崎県東諸県郡国富町六野の丘陵地帯には耕地整備した茶畑が広がり、防風林の様に、整然と櫨並木が設えてあった。
 そこが、福岡県の荒木製蝋から紹介していただいた古山快勇さんが、私との待ち合わせに選んでくれた場所であった。古山さんは六十八歳。宮崎県西都市にお住まいで、以前は櫨・楮などから狸の毛皮まで、自然生産物を取り扱う「古山商店」という仲買商を経営していたそうだ。「今は、年金暮らしよ。親父から継いだ店を閉めてな。昔はな、椎茸、竹の皮、テンの皮、それこそタヌキの毛皮など、山里の農家の副産物を買って商売がなりたったな。椎茸もよくないし。それでも櫨の実だけは、この辺一帯に木が残っていて、農家から声がかかるのでお世話をしとるのよ。」そう言って数軒になった農家を案内してくださる。
 大西猛巳さんが六野の櫨並木の持ち主だった。現在国富町で茶の生産と販売を手掛けられている。
「現在の櫨は、祖父が接ぎ木したブドウハゼ、百年まではならんな。しかし、耕地整備で茶畑にしたときだいぶ伐ったな。うちは残ったほうで、他所はほとんど伐ってしまったところがおおいんじゃないかな。数は数えたことがないから分からないが、百本近くあるのじゃないかな。」と言われる。
 この地は藩制時代、高鍋藩が支配していた。『諸縣巡見日記』(『宮崎県史』資料編近世4所収)によると、享保十七年(一七三二)に六ツ野の往還に櫨木四百本植栽していて、「櫨は藩にとっても百姓にとっても有益なものであり、農業の合間に精を出して栽培するように」と奨励している。また、『高鍋町史』によると、藩では、安政五年(一八五八)の奥書がある豊前国宇佐郡上田村の上田俊造が編さんした『櫨仕立百箇条』の写本を手引書にして、櫨の木植栽を奨めた。品種では「群鳥」というのが最も優れているという。ブドウハゼ一辺倒の現在、この品種について詳しいことは判らない。
 
古山快勇さん
 
 
大西猛巳さんとブドウハゼ
 
 
芋瀬家の櫨並木と松山夫妻
 
 西都市大字荒武の芋瀬家の櫨並木も、広く開墾された大根畑の畦道に植栽されてあった。それを引き継いでおられるのは松山潔さん夫婦で、奥さんの実家が芋瀬家だった。
 
六野の櫨と茶畑(大西さん所有)
 
 
川越夫妻
 
 
 
川越家の櫨並木。背景は釈迦岳で、場所はイシクノバル
 
 
「芋瀬の元蔵じいさんの時にもあったというから、百年以上経っとっとでしょう。じいさん達は『ハジ(櫨)は薩摩が植えていったって』よく言いよったですが。伊東が敗けて、薩摩の通ったあとにはハジが生えとったてな。」
 日向は中世から領地支配が錯綜した土地である。日向の櫨の代表的な場所といえば、『宮崎県大百科事典』に一カ所だけ、佐土原町の『はぜ馬場』のハゼ並木が知られ紹介されている。そこにも古山さんは案内して下さった。
 佐土原藩は薩摩藩の支藩でもある、「はぜ馬場」は旧藩時代、港へ通じる街道で、行ってみると数本が残っているのみで、寂しい風景であった。しかし、そこにはしっかりと実が成っていて、古山さんにハゼの種類を尋ねると「ナミハゼですな、ブドウハゼとは違います。」との答えだ。古山さんが最後に案内されたのは、日向で一番櫨の木をもっているという、国富町大字須志田の川越義雄家だった。しかし、その時は留守で、一週間後に再訪した。
 その櫨並木は、照葉樹林が残った綾町から続く釈迦岳の、美しい山並みを遠望する綾北川左岸の台地に映えていた。よく晴れ上がった青空をキャンバスに高さ一五メートルはあり、枝をはった櫨の木にはアルミの三間梯子が二本掛けられ、櫨の実採りが夫婦二人で行われていた。
 川越義雄さんは大正三年生まれの八十八歳。奥さんの美寿美さんは大正八年生まれの八十三歳だ。義雄さんは梯子を移動し、まさにブドウのような房が下がっている枝に、それを固定し櫨の実を採る。その固定した梯子の周辺は、使いなれたカギンチョと呼ぶ寄せ棒で、手許によせて採り、ビニールシートを張った下に落とす。それを奥さんの美寿美さんがこれも使い込んである、ドンゴロスで作られた十貫(約四〇キロ)入り袋に詰められている。ゆっくりとした時間だ。この櫨並木の床は草が刈られ手入れがゆきとどき美しい。その場所を「イシクノバル」と呼び、並木は三カ所に別れて櫨の木は約百数本が植えられている。それに「シシクノバル」と「ナガヤマバル」にも並木があり、五、六十本ほどを所有しておられる。因みに久留米の柳坂曾根の櫨並木の数が百九十数本であった。
 義雄さんが梯子から降りられ休まれる時間に話を聞いた。義雄さんは五十数年前に婿養子に入り、それ以来毎年、櫨の実採りをかかしたことがない。奥さんは「誰が櫨の木を植えたかてゆうと、むかーしのな、高岡は島津で、ここはな昔、天領だったとよ。接ぎ木してないハジはナミハゼというて、実が小さい。ここのハジは、私の先祖のユータカヤンボシという人が植やったったのよ。」御夫婦が休んでいると、櫨の木にはカラスが数羽とまってハゼの実を啄んでいる。義雄さんは「ハジの実は一年越し、裏年があってな、そんな年はカラスと半分こ。カラスはな、特に柿の実が成らんとき、なん百羽と真っ黒になるぐらいでな、ちゃーんと知っとって食べに来る。豊作のときも少しは残してやらんとな、カラスに分担すっとよ。カラスの取り分よ。」と言い、「ハジの実採りは今年が最後。子供達は後を継がんからな。」奥様も「今年で最後よ。」と笑いながらまた作業に入っていかれた。私はその作業をしばらく眺めながら、ああ、『農人錦の嚢』の描いた光景が、日本人が培ってきた農の風景が、今、私の目前に輝き息づいているのだと思った。「今年が最後。今年で最後。」と言いながら、高齢のお二人は幾年続けてこられたのだろうか。去り難い気持ちをかみしめてその場を辞した。







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