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会津の漆蝋の歴史と技術・・・佐々木長生
一、会津の漆蝋の歴史
 幕末・明治維新期の風刺画に、「子供遊び」とか「大人遊び絵」と呼ばれる戊辰戦争を風刺した錦絵がある。浴衣を着た子供たちや大人を、二派の集団に分け遊んだり、行動をしている姿を描き、その背景に社会を風刺し、それを江戸民衆に読み解かせ、楽しませるものである。その一つの集団は旧幕府(東軍)、もう一つは倒幕派(西軍)に見立てている。旧幕府方の筆頭が会津藩に描かれているものが多い。その人物が着用している浴衣の模様が、多くの場合蝋燭の絵柄である。(1)その他、漆器のお椀やお膳、「若松」とか松の絵も若干あるが、ほとんどは蝋燭である。これは会津が蝋の生産地であることを、江戸町民および当時の民衆が知っているからである。それだけ会津の蝋は、江戸時代には会津の特産品であることを証明しているものである。江戸町民は、この錦絵を見て、江戸すなわち旧幕府方に好意をもって見て楽しんだものといえる。(注(1))
 会津の蝋は、いつごろから生産され、幕末期にはこのように全国的に知られるようになったのか、その歴史を伝える文献は少ない。会津藩をはじめ南部藩(岩手県と青森県の一部)米沢藩(山形県)など、東北地方でも蝋を生産しており、専売制度のもとに統制してきた藩もある。これら東北地方の蝋は、漆の実を原料とする「木蝋(もくろう)」である。漆は多くは漆液を採取し、漆器に利用されるものである。そのため、会津などでは「会津漆器」と「蝋」という二大産業を、一本の漆の樹より生みだしたといえる。そのため歴代の会津の領主および藩主は、これら漆の効用を財政源に生かすべく、早くから漆の樹の栽培・保護奨励に努めてきた。
 会津地方において漆蝋に関する史料は、宝徳年間(一四四九〜五一)の芦名盛信のころからである。文化六年(一八〇九)の『新編会津風土記』によれば、天正四年(一五七六)に芦名盛隆が蝋燭一千挺と駿馬を織田信長に贈っている。また寺島良安の『和漢三才図会』(正徳二年 一七一三)にも会津の土産として漆と蝋が記載されていることなどからも、当時会津の特産品として蝋はかなり知られていたことがうかがえる。こうした背景には、各領主や藩主の積極的な漆樹の栽培と蝋の生産や販売などの保護・統制があった。会津藩では専売制度を設け、生産から販売まで行ってきた。
 会津藩では漆蝋の生産を、年貢として収奪する政策をとってきた。領内の漆の木を調査し、それに対し農民に年貢蝋を課してきた。上杉氏の代には、漆の木一本につき漆の実(木の実と呼ぶ)一升五合ずつの漆役を課した。これは蝋に絞ると、平均二十一匁の蝋となるところから、上杉氏時代には二十一匁の年貢蝋と定められ、余蝋は農民の自由売りであったが、買い手がないため藩が買い上げる形となった。加藤氏支配下になると、蝋の買上げ制が厳しくなり、二十一匁の年貢蝋のほかに、一両につき八〆目値で八匁は「小買蝋」として、さらに一両に二十六〆六百六十六文目値で十四匁は「大買蝋」と称していっせいに買いあげられることになった。一本につき四十三匁が定役となった。不足分は、金納または定役以上の余蝋があるときは「相場蝋」として小買蝋よりややよい値で買上げた。すなわち粕蝋まで農民の手許に残らないように定められていった。農民の手許に残った貨幣は、半石半永貢租の半永分として、再び領主に吸収されるという仕組みになっていた。寛永二十年(一六四三)に会津入りした保科氏も、加藤氏の年貢制を踏襲していった。農民にとって年貢蝋の生産は、かなり厳しいものであったことがうかがえる。(注(2))
 
(1)中央の蝋燭模様の浴衣姿が会津藩に見立てられた。戊辰戦争の風刺画『世の中のうらない』(町田市立博物館蔵)
 
 
(2)蝋絞り小屋の「釜屋」
(高郷村小ヶ峯移築前 昭和四六年渡部元真撮影)
 
 藩政時代の蝋の生産は、五人組制のような共同作業による連帯責任のもとに行われた。その長を、「釜元」と呼んだ。漆の実から蝋を絞るには、いったん釜で蒸して絞る。その作業小屋を、「釜屋」(2)と呼んだ。領内の各地には、このような釜屋があったが、明治以後ほとんど姿を消していった。現在、猪苗代町の会津民俗館内に、耶麻郡高郷村小ケ峯にあった釜屋が、移築保存されている。伝承によると、年貢蝋の生産においても、藩の役人の厳しい監視・統制のもとに行われ、抜蝋と呼ばれる横流し等については、厳罰に処せられたという。
 このような歴史をもつ会津の蝋も、一八世紀に入ると西国の櫨(はぜ)蝋に市場を奪われるようになる。これまでの上蝋も中蝋としての品質価値に下がるという状況になる。櫨蝋は、特にさらし技術がすぐれ、上質のものが生産され、市場での需要も多くなっていった。櫨蝋の原料となる櫨の実から蝋になるまでの工程は、大蔵永常の『農家益』に詳述されている。また伝承によると、鹿児島地方の櫨蝋の製造技術に、会津出身の金山職人が関っているという。元禄(一六八八〜一七〇四)・宝永(一七〇四〜一一)のころ会津出身の金山職人が、会津の漆の実から蝋を絞る方法からみて、桜島の櫨の実は製蝋に適していると告げた。試みに製蝋したところ大いに成功したという。(注(3))また西日本においては、「薩摩苗」といって鹿児島産の櫨苗は良質のもので、九州はもとより中国・四国地方へと伝播している。このような薩摩苗の流通とともに、会津出身の金山職人の伝えた蝋絞り技術も伝播していったのではなかろうかという推測もできる。『農家益』には、「地獄絞り」と呼ばれる古式の蝋絞りの図とその用具の解説がある。(注(4))これは会津地方の蝋絞りと同方法のものである。この図と同型のものが、長崎県島原市の島原城キリシタン史料館に展示されている。このように、会津の漆蝋の技術が、西国の櫨蝋の技術にもなんらかの関与があったという伝承は、注目すべきことであろう。(注(5))
 江戸時代において会津の蝋として注目すべき記載に、寛政十一年(一七九九)の『日本山海名産図会』の「会津蝋」がある。
 「本草蟲といひて奥州会津に採る蝋なり、是はイボクラヒといふ虫を畜なふて水蝋樹(いぼた)といふ木の上に放せば、自然に枝の間に蝋を生かして色白し。其虫は奥州にのみありて、他国になし。(中略)又此蝋を刀剣に塗れは久しく錆を生ぜず、又疣に貼れば自ら落故にイホオトシの名あり、今蝋屋に售る(うる)会津蝋といふ物真偽おぼつかなし。」
とある。(注(6))現在のところ、ここに記載されている「会津蝋」の伝承は、聞くことができない。イボクラヒという虫を離して採取した蝋を蝋燭としたものか、記載にもあるように刀剣の錆止め、軟膏(なんこう)のよう薬用としたのか不明である。江戸東京博物館建物園には、イボタ蝋が収蔵されているという。(注(7))これが会津産なのか不明であるが、イボタ蝋の利用方法など今後の調査課題といえる。







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