日本財団 図書館


中国の蝋燭の歴史・・・坂出祥伸
 中国で香が天の祭祀とともにあって早くから使用されていたのと同様に、ヨーロッパでは蝋燭の使用は単なる燈火としてではなくて、いわば「神とともに」あったと思われるが、中国では燈火としての蝋燭の使用はヨーロッパほどには古くはないようである。香と蝋燭は、今日では仏寺や道観では不可欠の供品となっているが、古代の宗教的祭祀で燈火に蝋燭が登場するのはヨーロッパに比べてかなり遅いようである。
 
一、蝋燭以前
 今日、私たちが使っているロウソクは、パラフィン、ステアリン、固体脂肪、ロウなどを主な材料として作られているのであり、中でも一九世紀中ごろにパラフィンが発見されて以来、パラフィンワックスで製造する蝋燭が主流になっている。したがって、蝋燭という文字の「蝋」という本来もっている字義とは全く離れている。この字は後漢の許慎の『説文解字』にはまだ見えない。蝋の字は虫偏がついているから、昆虫と関係があるだろうと推測できる。すなわちミツバチの腹部から分泌されるミツ[蜜]を「蜜蝋」と呼ぶが、これは蜂が巣をつくる原料としているものであり、主成分はミリシルアルコールとパルミチン酸のエステルである。この蜂の巣を集めて加熱し圧搾し、煮沸して濾過して冷却して上層に固形になった蝋を、さらに天日で漂白したものが「蝋」bee waxと称されて燈明に使用されるのである。(現在では、口紅、軟膏等の化粧品、皮革や布地の艶出し、靴墨に使用されている)
 しかし、蜜蝋の採取は難しいし、得られても少量であり、季節も限られている。従って蜜蝋は貴重品となるから、宮室とか貴族などのごく限られた範囲でしか使用されなかったと思われる。晋の洪撰とされる『西京雑記』巻四に「越王(びんえつおう)が高祖に石蜜を五斛(こく)と蜜燭二百枚を献上したところ、高祖は大いに悦び、厚い報いをその使者に与えた」と記されている。この書の成立は魏晋時代であるとしても、記述そのものは前漢時代からの伝承にもとづいているのであろうから、この当時すでに蝋燭の原料となる「蜜燭」が越(福建省)の地では生産されていたことが推測され、これによって文献的には蝋燭が前漢時代にすでに使用されていたというのが、中国・日本の多くの論者の主張である。
 しかし、この「蜜燭」の語からただちに燈火用に棒状に成形された蝋燭が使用されていたとすることはできないだろう。
 ところで、広州象崗前漢南越王墓や河南霊宝張湾後漢晩期墓から出土した銅燈に釘状の台があるのを、油燈の盤とは区別があるとして、蝋燭をさしこむ台だとする中国学者の説があるが、これには賛成できない。というのは、油燈の皿にも燈芯がつけられたものがあり、その燈芯を差し込んで固定するのが釘状のものであろう。燈芯には麻(まふん)が用いられる。麻の皮を剥いた後の茎、いわゆる「おがら」である。これに油がしみ込んで火の明るさが安定するのである。林巳奈夫氏が、雲南昭通漢墓の行燈の中に燭心の燃えさしが残り、八、九本の竹棒を中心に、外に三ミリの厚さに細かい繊維を巻き、径一・四センチのものがあるのを、「高鐙、行鐙の中には、中心に蝋燭立てのやうな短い釘のあるものとないものがあるが、この釘も蝋燭を立てるものではなく、このやうな固い燈芯を固定させるものとみるべきであらう」(林巳奈夫編『漢代の文物』二一七頁)と説明されているのが妥当だと思う。
 また、一九六八年発掘された前漢時代の中山国満城漢墓から出土した銅製の長信宮燈には、盤の中央に錐状のものが立てられているが、しかし蝋燭が用いられたのではなくて動物性油脂が用いられていたことが明らかになっている。(『満城漢墓発掘報告』一九八○)
 とはいうものの、長沙沙湖橋西漢墓群A四五号墓出土の銅燈には白蝋の残滓があったと報告されている(『考古学報』一九五七年第四期)。また商承祚(しょうしょうそ)が『長沙古物聞見記』の「漢黄蝋餅一則」で、「漢代の墓(たぶん長沙であろう)から偶然黄蝋の餅状のものが発見された。何に用いられたのか分からない。私が行ってその形を見ると璧のようで、直径約一一センチ、中の孔の直径は約一・五センチ、厚さ約一・三四センチであった。どうしてこれを膏(動物性油脂)に代えられようか。墓の中の原有の位置やその他の器物が分からないので、その意義は明らかにしがたい」と述べているのも、蝋燭の残滓かとも推測できる。
 いずれにしても、前漢時代に棒状の蝋燭が使用されていたという確証は、いまのところ挙げることができない。
 
南越王漢墓出土の「銅製の燭台」
(『嶺南西漢文物宝庫広州南越王墓』より)
 
 それでは、蝋燭が燈火として用いられる以前には、燈火の原料を何に求めていたのであろうか。それはおよそ三種類、すなわち、(1)「たいまつ」あるいは「いばら」のように木片や麻のような草を燃やす場合、(2)動物性油脂を燃やす場合、(3)植物性油を採取して燃やす場合、が考えられる。
 木片の場合。例えば、『礼記(らいき)』曲礼篇上に、「燭が来れば立つ。食物が来れば立つ。上客が来られたら立つ。燭は跋(ばつ)(手元)を見せない」とあり、唐の孔穎達(くえいだつ)の疏に、「古代にはまだ蝎(蝋の俗字)燭はなかったので、ただ火炬(たいまつ)を燭と呼んだのである。火炬は夜を照らせば尽きやすい、尽きれば燃え残った本(もと)の部分を蔵くす(かくす)。そうするのは、もし残った本の部分がたまっていると、客人はそれを見て夜も更けて主人がうみ疲れているのではと心配するからである」と説明しているように、この燭は火炬すなわち「たいまつ」である。また、『礼記』内則篇に「男子は夜行するのに、燭を持つ、燭がなければ止める」とあるのも、明らかに火炬である。『儀礼(ぎらい)』燕礼篇に「宵には則ち庶子(宿衛の官)は燭を階(そかい)の上に執り、司宮は燭を西階の上に執り、甸人(でんじん)は大燭を庭に執り、人(こんじん)は大燭を門外に為る」とあるのは、漢代の鄭玄によると、燭はであり、唐の賈公彦によると、古代には麻燭がなかったので荊(いばら)を用いたからだという。
 大麻の場合。『周禮(しゅらい)』秋官・司(しけん)氏に「凡そ邦の大事には、墳燭・庭燎を共す」とあるが、鄭玄の注では、墳はであり、門外に樹てる(たてる)のを大燭、門内で焚くのが庭燎であり、また鄭司農は燭とは麻燭だと説いているから大麻を束ねたものを用いた燭のことであろう。
 このような炬火や大麻の外に、油が用いられていた。多くは動物性の膏脂(こうし)である。『太平御覧』巻八七〇所引の『三秦記』には「秦の始皇帝の墓の中では鯨の膏を燃やして燈火としていた」と記されている。これは信用できる記事ではあるまいが、しかし、鯨油が燈火に利用できるという知識があったことは確かである。この記事はおそらく『史記』秦始皇本紀に見える、始皇帝が生前、山(りざん)に造営した墓に「人魚の膏を燭とし、火の滅しないことを図った」という記事にもとづいているのであろう。また、漢代になると、『淮南子(えなんじ)』繆称訓に「鐸は声を以て自らを毀ち(こぼち)、膏燭は明を以て自らを鑠かす(とかす)」とあるが、この膏燭も動物性膏脂の燈火である。動物や魚類の膏脂が燈火に使用できるという認識は普遍化していたことは、これらによっても推測できる。そして、『淮南子』説林訓に、「(ふん)(麻)び燭は(さく)(うすぐらい)、膏の燭は澤(なめらか)で明るい」とあるように動物性膏脂の明るさは植物性油にまさっていることが広く知られるようになっていた。なお、後漢の王充の『論衡』国篇に周の武王が殷の紂王を攻めて牧野(ぼくや)に至った時、夜明けなのに「脂燭」を挙げた、という故事を当時の「伝書」から引用して反論を加えている。この故事が実際に殷周時代のことであったとするならば、当時はまだ「脂燭」は当然ないのであるが、後漢時代の「伝書」であるならば、後漢時代の「脂燭」を使用していた情況を反映したものと理解できる。つまり、これも動物性の燈油である。しかし、この場合には「脂燭」を挙げて勝ったというのであるから、小さな燈火ではあるまい。「たいまつ」のような大きく明るい燈火であろう。
 
満城漢墓出土の銅製「長信燈宮」と称される燭台
(『中国美術全集』工芸美術館編5より)
 
 後漢時代には脂燭がかなり普及していたらしい。王符『潜夫論』利(あつり)篇には「(世人は)脂蝋が鐙[燈]を明るくすることは知っているが、それがあまりに多くなれば冥く(くらく)なることを知らない」とある。この脂蝋は蝋燭とも解せられるが、燈[燭台]にあまりに多く盛られるとかえって暗くするという意味らしいから、やはり獣脂であろう。
 つぎに燈火に使用される植物性の油の原料についてのべたい。
 前に引いた『淮南子』説林訓の「の燭」の「」は麻とも称されるように麻であり、おそらく苴麻(しょま)であり、後漢の崔寔(さいしょ)の『四民月令』三月の条の崔寔自注に苴麻の実をつぶして燭を作ることが記載されている。「苴麻は麻の蘊き(あつき)もの、麻(ほつま)是れなり。一名、(ふん)、苴麻は子[実]黒く、また実して重し。擣治して燭と作し、麻と作さず」とある。瓠(ひょうたん)の実からも油を採取したことが、『斉民要術』巻二所引の前漢の農書『氾勝之(はんしょうし)書』に見えている。苴麻と同様に擣治したのであろう。そのほかに、紅藍花(べにばな)、木天蓼(またたび)、胡麻などからも燭油が採取されていた(『斉民要術』巻五)。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION