日本財団 図書館


I. 平戸とアジア
1. 元寇前後
 古代の平戸は、肥前国松浦郡庇羅(ひら)郷に属していました。876年(貞観18)、庇羅郷と値嘉郷(五島地方)をあわせて、値賀(ちか)島として肥前国からいったん独立しました。これは、対馬・壱岐と同様に海外と接する重要地域として、中央政府から認められとられた処置でした。しかし、間もなく廃止されています。廃止はされましたが、当地域が海外との交易・交流の主要な地域であることに変わりはありませんでした。
 ところで、「平戸」の地名は、『青方文書』(あおかたもんじょ)という古文書(こもんじょ)で、1183年(寿永2)の文書に確認できます。おそくとも平安時代末期には「平戸」の文字が使われていたと判断されます。しかし、現在平戸島全域をさすのではなく、平戸島北部に限られていたようです。また、『青方文書』には、「高麗船」・「宋船」が平戸港に入港していたことも記されています。日本と宋(中国)の貿易が盛んな時期でもあり、国際貿易港としての平戸港の様子が古文書に記されています。
 その後も、日宋貿易は盛んでした。平戸には中国と交易する船の寄港地であり、これらの船に乗って行き交う僧(禅僧)の平戸滞在の記事が見られます。その中で有名なものとして明庵栄西(みょうあんえいさい・1141−1215)がいます。栄西は日本臨済宗の開祖で、二度目の宋からの帰国にさいして平戸・古江湾に着船しています。
 中国との交易・貿易船の寄港地平月は、元を建国したフビライ(1215−1294)の二度にわたる日本征服計画(元寇)により大きな被害を受けたと考えられます。
 弘安の役(1281年)で元軍は、元に漂着した日本人からの情報をもとに、平戸島に目をつけ、博多攻略の起点とすることにしています。二度目の蒙古襲来は台風で失敗に終わりましたが、平戸近海に停泊していた船団は被害を免れ、将兵を救出に向かい本国に帰還しました。
 これら元寇に関する平戸の遺跡はよくわかっていません。しかし、現在平戸の最教寺というお寺にある「大渡(おおわたり)長者五輪搭」が、1300年前後に制作され関西から運ばれ建てられています。非常に貴重な石塔なのですが莫大な資金が必要と考えられ、元寇後、何らかの意味(供養塔など)をもって建てられた可能性が考えられています。
 
「蒙古襲来絵詞」
江戸時代後期の写し
 
2. 倭寇
 元寇後、倭寇の活動が盛んとなりました。九州・瀬戸内海にその拠点があったのですが、平戸もその一つとなりました。ところで倭寇の「倭」は、けっして「日本」とまったく同様の意味をもつものではありません。倭寇は「倭語」・「倭服」を用いることが海外の資料に見受けられますが、平戸やその他の海域に生きる人達の共通の言語、服装で「日本」の言葉・服装とまったく同じではありませんでした。
 倭寇の構成員である倭人の特徴は、なかば日本、なかば朝鮮、なかば中国といったあいまいなものでした。この倭人によって国境をまたぐ地域をつくりだし、あるときには平和的に、また、あるときは殺戮をともなう襲撃がおこなわれました。
 いずれにしても、朝鮮半島・中国大陸・東南アジア各地に倭寇があたえた被害は大きなものでした。この倭寇は鎌倉時代末期から室町時代にかけて活動しました。
 
3. 勘合貿易
 勘合(かんごう)貿易とは室町時代、勘合符(かんごうふ)を使用して行った公認の日本と明(中国)との貿易のことです。1404年(応永11)、室町幕府3代将軍足利義満のときに日本へ来た使節が勘合符などを持参しはじめられました。
 4代将軍足利義持に明との国交を断ちましたが、六代将軍足利義教(よしのり)の時に再開しました。
 平戸は勘合貿易において使用される遣明船(けんみんせん)の重要な寄港地となっています。地理的な面もあるのですが、もう一つ大事なこととして、硫黄(いおう)の平戸港での積み込みがありました。硫黄は、勘合貿易の主要な日本からの輸出品でした。この硫黄は主に鹿児島方面から調達され船で平戸に運ばれ、平戸港で積み込まれていたのです。
 また、この勘合貿易において平戸を中心に支配していた松浦(まつら)氏にも、貿易に介入する機会をつかむことができました。平戸松浦家21代、義(よろし・?−1470)は、当時守護大名・大寺院クラスでないと許されない遣明船の類船(正使が乗る一号船を本船といい、それ以外を類船といいます)を室町幕府より特別に許可されました。現在に伝わる資料を見てみると、六代将軍足利義教や、貿易事務をとりおこなった京都の寺院と深い関係をもっていたことを伺わせます。これから、特別な取り計らいを受けたようです。
 義(よろし)は、勘合貿易のみではなく、朝鮮と公の貿易である歳遣船(さいけんせん)を派遣したことが記録に残っています。
 義の時代から周辺一族との武力衝突がはじまりますが、それを支えた背景には、これら海外貿易の富があったと考えられます。
 勘合貿易はやがて、中国地方を支配した守護大名大内氏が実権をにぎりました。大内氏が滅びるまで勘合貿易は続きますが、平戸は依然として重要な寄港地でした。
 勘合貿易の主要輸出品は硫黄・刀剣・扇などで、主要輸入品は銅銭・生糸などでした。
 
「松浦義画像」
室町時代
 
4. 王直(おうちょく)・鄭成功(ていせいこう)
 明は公式貿易のみを認め、明国内の人民には独自の私貿易を認めない海禁(かいきん)政策をとっていました。しかし、明では経済が発達し商人達は密かに諸国との貿易をおこなっていました。この蜜貿易に対して、明政府は密貿易港の雙嶼(そうしょ)を攻撃し壊滅しました。この攻撃を受け逃れた密貿易商人に王直(?−1557)がいました。この王直はポルトガル人が種子島に漂着した逃れた密貿易商人に王直(?−1557)がいました。この王直はポルトガル人が種子島に漂着した1543年に、同船していて通訳をつとめたとされています。
 王直は1542年ごろ平戸に本拠をおき、以後、平戸は急速に発展しました。王直は部下二千人あまりの部下をもち、三百人を乗せる大船を平戸港にもっていたとされます。王直は倭寇でもありましたが、学識もあり、密貿易の調停者でもあったため、多くの密貿易船が平戸をめざし来航しました。古い記録では、平戸は当時「西のみやこ」と呼ばれていました。しかし、王直は1557年(弘治3)、明の計略にかかり捕縛され、後に処刑されました。
 王直亡きあとも、平戸には中国商人が居住し貿易活動に携わりました。その中に中国福建省出身の鄭芝龍(ていしりゅう)がいました。この鄭芝龍と平戸の女性の間に生まれたのが鄭成功(1624−1662)です。鄭芝龍はやがて明の招きで帰国し、鄭成功も幼少の時に父によばれ明にわたり、福建総兵の地位につきました。しかし、明が清(しん)に滅ぼされそうになると、配下の船団による貿易による経済力を背景に抵抗しつづけました。
 また、当時オランダにより実質的に支配されていた台湾を攻略し、清朝に対抗しようとするも熱病にかかり死亡しました。この鄭成功の話をもとに、近松門左衛門(1653−1724)は国姓爺合戦(こくせんやかっせん)を記しました。
 
「バハン船の旗」
安土桃山時代
 
5. 唐船貿易の長崎限定
 江戸時代になって、平戸には特に中国人商人が在住し、朱印船貿易などに活躍していたが、やがて貿易の制限を江戸幕府はとるようになってきました。それは、江戸幕府の権力を確立し、維持させていくのに必要だと考えたからです。これは、海外貿易・交易に大きく依存していた平戸港にとって大事件でした。1634年(寛永11)には中国人商人に対して、海外往来の制限が適用され、1635年(寛永12)には、平戸をはじめ各地に来航していた中国商船(唐船)の来航地が長崎港に限定されることになりました。
 当時、オランダ商館はまだ平戸に設置されていましたが、主要な貿易船であるジャンク船は、平戸港からその姿を消すこととなったのです。
 なお、平戸には唐人町が形成されていましたが、平戸港における唐人町は王直が唐風の屋敷をかまえたと伝わる幸橋(オランダ橋)西側の地区一帯にあったとされています。
 
「在長崎日清貿易絵巻」
江戸時代中期







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION