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船乗りの技芸・結び
 
杉浦 昭典 氏
高等商船学校航海科卒。
航海訓練所、神戸商船大学教授を経て、現在神戸商船大学名誉教授。
 
結びと船乗り
 大昔から、植物のつるや繊維、動物の皮、毛髪などを材料として「撚る」「編む」「組む」のいずれかの方法でロープは作られて来た。ただ、これら有機物質を原料とするロープは時が経てば自然消滅するほかなく、わずかにエジプトの墳墓や中国の埴輪などから古代のロープに関する痕跡がうかがえるだけである。
 したがって、ロープの結び方もロープの歴史とともにきわめて古くからいろいろと考案されて来たはずであり、それらが実用的であるか装飾的であるかを問わず、人類にとってはおおいに魅惑的な興味をそそるものであったにちがいない。
 古代の船乗りは船をつなぎ止めるのに石をロープで縛って海底に沈め、また水深を測るのに使った長い竿が底に届かなくなると代わりに重りをつけたロープを用いることを思いついた。魚を捕る網を作り、釣針を釣糸に結ぶ方法など、ロープの結び方が早くから船乗りに欠かせない技能となったことはいうまでもない。
 実用的な結びの基礎は、古代エジプトの航海者によって一応完成され、その方法がエジプトやギリシャにおける橋梁の建設や船舶の艤装に応用されたという。その後、結びは農業や輸送、土木工事などいろいろな職業にかかわる作業で利用されるようになって来たが、結び方そのものの種類はそんなに多くなかった。
 装飾的な結びが船乗りの手で作られるようになるのはずっと後になってからのことであるが、本来、それは呪術的な意味を持つものとして古くから使われていた。最も基本的な結びである本結び(reef knot)は古代のギリシャやローマでヘラクレス・ノットと呼ばれ神秘的なものと考えられていたし、また、洋の東西を問わず、この結びが夫婦のちぎりを固める証と見なされた例は多い。
 幾本もの細いロープに種々の結び目を作ることによって、かなり大きい数の記録や計算を行ったという古代における中国の「結縄の政」やインカの「キープ」はいずれも呪術的な意味と実用上の目的を兼ね備えたものであり、アレクサンドロス大王が解こうにも解けない複雑な結びに業をにやして一刀両断にしたという「ゴルディアス王の結び」は呪術というよりゲームのようなものであったのかも知れない。
 結びの神秘性は古代から現代に至るまで生き続けている。18世紀から19世紀にかけて帆船が地球上の海を駆け巡った時代には、風こそが船の生命だった。無風に悩まされた船乗りの風を求める声は切実であり、それこそ「溺れるものは藁をもつかむ」との心境に陥ったことであろう。
 そんな頃、ラップランドやフィンランド、またイギリスではシェトランド諸島やスコットランドの港に風を売る老女が現れたという。スコットランド北東部にあるストーンヘブンの場合、老女は結び目が3つある赤いリボンを売っていた。最初の結び目は微風、次の結び目は強風、そして最後が無病息災のまじないである。これを求めた船乗りは、航海中、風を呼びたいときに出会うと結び目を1つ、あるいは2つというように解きながら祈ったのだという。
 
 
タークス・ヘッド応用のフェンダー
 
 
 装飾的な結び、すなわち飾り結びの中で一番代表的なものはマクラメ(macrame)またはマクラメ・レースの名で知られる結び編みの技法である。マクラメは刺繍したべールという意味のアラビア語ムカラム、またはフェイス・ナプキンとかタオルという意味のトルコ語マクラマのどちらかからフランス語となり、英語でも使われるようになったのだという。
 ベールにせよ、タオルにせよ、どちらにしてもひもを編んだ縁飾りを付けたりすることではよく似ている。平結びと巻結びを基本とするマクラメの技法は非常に古く、その起源は原始人の昔までさかのぼることができる。8世紀頃にはムーア人がスペインヘこれを伝え、12世紀頃には十字軍がイタリアヘ持ち帰り、主として寺院の装飾や僧服の房飾りに用いるようになった。
 ムーア人も十字軍もマクラメの技法と作品を運んだのは、海路、船によってであった。今日でもアメリカ・インディアンに見られるレース編みの技術は、15世紀以降、彼らがヨーロッパ人と接触するようになってから身につけたものだといわれている。マクラメの技術は、19世紀にイタリアで産業化されて以来、急速に普及したが、その存在と技法を地球上のあらゆるところへ伝えたのは、何といっても船乗りの功績である。
 
ロープと帆船
 帆船はまさにロープの豊庫である。ワイヤロープまで含めれば、マストを支え帆を操作するためのロープが無数に船を固め取り囲んでいる。ところが、日本丸のような大型帆船になると、帆を操作する場合にも、ロープの端を一々何かに結び止めるというようなことはほとんどない。たいていは甲板上に設けられたピン・レールにあるビレイング・ピンに巻き止めることで事足りる。
 どちらかというと実際にいろいろな結びを作らなければならないのは小型帆船の場合に多い。そのせいか、結びの名称には、小型帆船で考案されたと考えられるものが多い。先ずもやい結びである。その名の通り船をもやう(係留する)ときに簡単で確実な方法だが、別名ボーライン(bowline)は横帆の風上舷にある側縁を船首方向へ引っ張って風を受けやすくするためのロープで、またそれを結ぶ方法のことでもある。
 
 
シーチェスト・ハンドルの飾り結び
 
 
 ボーラインほど確実ではないが、小型船を一寸の間もやっておくのに二結び(two half hitch)を使うことがあり、この場合にはとくにセーラーズ・ヒッチ(sailor's hitch)と称している。また小型錨を結ぶ方法であるところからフィッシャーマンズ・ベンド(fisherman's bend)をアンカー・ヒッチと呼ぶことがある。
 ロープが長くて端ではなくその中間を係柱にかけて止めなければならないときはクラブ・ヒッチ(clove hitch)が良い。これは徳利結びの名で知られるが、水手(かこ)結びともいう。このほか大綱つなぎ(hawser bend)や小綱つなぎ(sailor's knot)なども船乗りの結びである。
 トップスル・ハリヤード・ベンドとスタンスル・ハリヤード・ベンドは、どちらも小型帆船でハリヤードを止める方法だが、別名ヨット・ヒッチともいう。ノット(knot)は結節、ベンド(bend)は結合、ヒッチ(hitch)は結着という意味だが、帆船上での結び方ではアンカー・ヒッチやヨット・ヒッチが例外で、帆の上縁をヤードに取り付ける細索(ロバンド)の結び方もロバンド・ヒッチのほかバインディング・ノットということがある。
 結びの名称は、使用目的だけでなく、その形やまた方法そのものを示す場合があり、誤って命名されたものでも慣習的に使われているうちにそのまま伝えられたものもある。
 縦帆では船尾側の下隅、横帆では両側の下隅に取り付けて風を帆にはらませるためのロープをシートといい、帆にシートを取り付けるときの結び方がシート・ベンド(sheet bend)である。シートとは布のことであり、もともと帆布そのものを表す言葉だった。「帆を張る」とは「シートを張る」ことであり、「帆布の下隅にロープを結んで風をはらませる」ことだったことから、帆をセールと呼ぶようになるとそのロープをシートと呼ぶようになったものである。
 ロープは帆の操作だけでなく、航海において船の位置を確認する手段としても利用された。1つは水深の測定である。ロープの先に鉛の重りをつけて海の深さを測るハンド・レッドではロープに目盛りが必要だった。目盛りには革片や旗布の他に、結節すなわち結びこぶを作った細索が取り付けられた。
 もう1つは、板にロープをつないで船尾から流し、一定時間のロープ走出量を砂時計で測って速力を推定するハンド・ログである。ログ・ラインと呼ぶこのロープにもやはり目盛りが必要だった。先端の板からある長さのところにゼロ・マークとして白い旗布をつけ、速力が毎時1海里に相当するところには結節1つを作った細索、2海里のところには結節2つの細索、というように順次結節を増やした細索を取り付けた。
 したがって、ハンド・ログによる速力の測定では、「毎時何海里の速力」という代わりに「結節いくつ」すなわち「何ノット」という風に表現された。今日でも船の速力の単位にノットが用いられているのはこのことに由来している。
 事ほど左様に帆船とロープのかかわりは深く、人間の体内を巡る血管のようにロープが帆船で占める場所は大きかった。ロープは帆船を動かす道具としての重要な役割を果たしただけでなく、それを操作する船乗りたちの日常生活の中へも徐々に浸透し、やがては彼ら自身の体の一部とも思われるほど切っても切れないくらい密接な関係と見なされるようになったのである。
 
船乗りのロープ・ワーク
 コロンブスにはじまる大航海時代の船乗りは、航海中、自分たちの体力を保つことだけで精一杯だった。しかし、大航海時代が終り、世界周航をはじめとする地球上にあるほとんどの海に航路が開かれ、帆船によって遠洋航海がごく普通に行われるようになると、船乗りたちにも余暇を楽しむ余裕ができるようになった。
 当時はまだまだ書物に親しむというようなことは稀であり、もっぱら手仕事によるものが多かった。簡単な絵画や彫刻、動植物の標本、編物などの手芸、また模型船などである。木片や古帆布、古ロープなど手近にある材料のほか、船や航路によっては鯨骨や象牙なども使われた。その作品は初期の幼稚なものから、ずっと後の非常に精巧なものまで、現在でも残されているものがある。
 中でも一番入手しやすく扱いやすいのはロープだった。帆船は出港するとき、例外なく大量に古ロープの切れっ端を積み込んだという。航海中、ほかに仕事のないときには、船乗りたちは古ロープをほぐしてあまり痛んでいないヤーンを抜き出し、それを撚り合わせて細索を作る作業に没頭する。痛んだヤーンは別に集めて外板や甲板の詰め物(まいはだ)にした。そんな中でも屑になった部分を集め、船乗りたちは自分用の細索を作って手芸の材料にしたのだった。
 
 
艤装職人の道具入れ
 
 
 細索がロープ作りの3原則である「撚る」「編む」「組む」のいずれかの方法で作られたことはいうまでもない。屑ヤーンから再生したストランドは強度上では実用にならないが装飾品とするには差し支えなかった。こうしてセンニットやマットが作られ、花結びのような飾り結びが船乗りの手で生み出されるようになったのである。
 基本的には全く同系統であるマクラメの技法が船乗りの社会に伝播するのに時間はかからなかった。船乗りの作品は、最初は手近な船内の装飾として、次には土産物、また物物交換の対象となり、最後には美術品に近いものさえ出現するようになった。
 飾り結びが盛んになることによって船乗りの結びに対する関心が高められたことも確かである。装飾的な結びを考案するに際してはどうしても実用的な結びを振り返らざるを得ず、そのことがまた逆に実用的な結びの改良を招いたともいえるのである。
 結びとは別に、帆船のロープ・ワークで重要なものにスプライスによるロープの接着作業がある。ロープ自体を痛めないよう、ストランドを使ってロープの端に輪を作ったり、ロープ同士をつないだりする方法である。そんなに複雑ではないが、加工部分に均等な力がかかるよう仕上げるにはかなりの熟練を要した。
 帆船時代には3部門のロープにかかわる専門職人が存在したといわれる。その1つはもちろん船乗りである。あとの2つは艤装職人と製帆職人であるが、彼らの中に船乗りの経験者が少なくなかったということも事実だろう。ロープを取り扱うのに最適の道具を持っていたのはこの3部門の職人だけであったともいう。
 艤装職人は、出帆前の帆船で、マストの支持索などすべての静索類を締め直し、ヤード、ガフ、ブームなどを動かす動索類を整備したが、腰のベルトにはいつもマリンスパイキ、さや付きナイフ、グリースを入れたホーン(角)をぶら下げていた。
 マリンスパイキはロープのストランドを開いてスプライスを入れたり、結びこぶや飾り結びを作るのに使う細長い円錐状の金属棒で、尖った先端を少し平にしてある。ハンマーの代わりになるよう頭部を分厚く肉盛りし、直ぐその下方には吊り紐(ラニヤード)を通す孔がある。
 艤装職人のナイフは刃が分厚く先端が角型のロープ・ナイフである。ヤードやブームのような円材の上に置いたロープに刃を当てその背をマリンスパイキでたたいたが、熟練者は円材を傷つけることなくロープを切ることができたという。
 製帆職人は造船所や波止場の倉庫の二階か屋根裏で、背もたれのない木製ベンチに坐って仕事をしたが、右利きの場合にはベンチの右端に道具を挿し込んで置くための孔をあけてあった。道具にはいろんな大きさのスパイキやプリッカーがあり、また製帆用のナイフは艤装職人や船乗りのものとは異なり一番細くて先も尖ったものだった。
 船乗りは、時には艤装職人や製帆職人と同じ仕事をしなければならなかったので、同じような道具を使うこともあった。しかし、いわゆるセーラー・ナイフは、製帆職人のナイフのように細く尖ったものではなく、ロープ・ナイフほど分厚くはないが、刃先が鈍く丸い感じのものだった。長い航海に出る前には、用心深い船長は、船乗りたちのナイフを一々調べ、鋭く尖ったものは万力で先端を折ったという。
 このように地味な環境で育った船乗りのロープ・ワークは、ロープという限られた素材の関係ですべて単色である。この点、日本の伝統的な組紐や水引手芸、また極彩色のマクラメとはかなり趣の異なるところもあるが、結びが基本であることは変わらず、どの場合にも材料な選択によっては独創の才を生かし得る格好の技法だといえるのではないだろうか。
(すぎうら あきのり 神戸商船大学名誉教授)
 
 
瓶(ボトル)カバー







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