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8. トルコ(アンカラ)
アンカラ市EGO(電気・ガス・バス総局)
Mr. Aytekin Cilli
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ANKARA, THE CAPITAL CITY OF TURKEY
 
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1. はじめに
 アンカラは、トルコの首都となって以降、急速に発展した。アンカラの人口は、トルコが独立を遂げたころは2万人程度であったが、共和国宣言の4年後には7万5,000人になっていた。1950年に22万5,000人を超えてからも、国内の人口急増の影響で増加を続け、現在では400万人に達している。
 
 人口の増加に伴い、アンカラ市は地理的にも拡大した。1920年代前半は、現在のUlusとSamanpazariを中心としていたが、Atatrk Boulevardに沿ってUlusの南部に拡大した。第二次世界大戦後は、不法居住者の住居が建ち並ぶようになり、Altinda地区、Yenidoan地区を形成するとともに、Cebeci地区、Hamamn地区の発展の発端にもなった。アンカラは、Saraolu QuarterやBahelievler, Yenimahalle地区、最終的にはEtlik、Keirenとも合併し、現在の巨大都市に成長した。現在のアンカラ、西はBatikentとSincan、東はMamakとKaya、北はKeirenとEtlik、南はankayaとOranに広がり、ayyoluやGlbaiなどの衛星地区も抱えており、真の大都市といえる。
 
2. 公共都市交通サービスの歴史的変遷
 アンカラは半世紀にわたって急速かつ集中的に都市化が進行したため、都市化に伴う問題の一つとして交通問題も発生したが、その解決は極端に難しい。
 
 旅客輸送に占める自動車の割合は、人口が9万人であった1930年代には15%であったが、人口が250万人弱となった1980年代初頭では80%に達した。この期間において急速に増加した公共交通需要に対処しようとしたのが公営企業であったが、その経営資源の組織化は、その需要増のスピードに追いつくことができなかった。
 
1920年代のアンカラの人口は2万5,000人で、市街地も砦の周辺だけであったが、1930年代に入るとYeniehirやCebeciの方向に拡大し始め、これに伴う交通需要の増加に対処したのが小企業の「Kapti kati」(「乗せて進む」の意)と呼ばれるバスであった。このバスには、市が設定した料金で利用する12の公共路線があり、Ulusを中心に運行されていた。当時で唯一の交通手段は、アンカラとKayaを9kmで結ぶ郊外鉄道のみであったが、Cebeci、Mamak、Kayaの各地区からの交通の便がよくなったので、都市の発展が加速された。
 
EGOバス
 1930年1月22日、バス・ミニバス・路面電車の運行権が省令により市に付与された。しかし、市が動き出したのは、アンカラ市バス事業体(Ankara Municipality Bus Management)を設立し、ロシアからバスを100台輸入した1935年のことである。バス路線は合計で15あり、その平均距離は6kmであったが、バスが運行されていない路線を中心に「Kapti kati」も存続した。
 
 1935年には、公共交通需要に比して供給過剰となり、市の形態もあって、自動車の交通分担率は22%を超えることはなかった。
 
 自動車交通における市営バスの割合は60%であった。1940年代初頭以降、市営バスにより交通供給は延び悩む一方、自動車交通需要は増大し、自動車の所有者は違法ではあるが、タクシーやミニバスなど、ドルムシュ(乗合タクシー)の看板を掲げるようになった。また、11人乗りのミニバス・ドルムシュが、14人乗りの車両に取って代わられるようになったのもこの時期である。これ以降、公共交通の供給不足が長い間続くことになる。1944年、アンカラ市バス事業体は、予算補助を受ける事業体の地位が与えられ、名称もアンカラ市バス公社(Ankara Bus Operations)になったが、思うようには延びなかった。その埋め合わせをしたのが、零細業者がタクシー・ドルムシュ(多くの乗客を乗せ、目的地の途中で乗客を降ろしたり、拾ったりするもの)であり、少ない台数で多くの乗客を乗せることで、公共交通需要に対応していた。このようして、「ドルムシュ」路線が、Ulus−Cebeci、Cebeci−Sihhiye、Ulus−Bakanliklarなどの市の中心地に初めて開設された。当時、公共交通における公営の割合は50%に低下していた。
 
 1950年代前半は、自動車交通量の増加率が最も高かった時代である。市バス公社はアンカラ電気・ガス・バス公社(EGO)と名称を変え、事業の自由度が拡大した。この時期には、トルコの輸入が伸びており、公共交通車両も増加し、買換えも進んだ。EGOの路線も合計28路線に増加し、バス路線の総延長は171kmに達した。
 
 1960年代は、車両台数および路線数ともに非常に安定した時期であった。旅客輸送量は低下し、公営交通のシェアは30%に低下した。Gazi Mustafa Boulevardへのミニバスの進入が禁止されたため、7人乗りの「ステーションワゴン・ドルムシュ」が低所得者層の間では使われるようになり、中高所得者層の代替的な交通手段にもなった。1979年から1980年にかけては、連結バスが初めて導入され、公共交通において大きな役割を果たした。その結果、公営交通のシェアは32%に上昇するともに、EGOのバス路線の平均距離は20km、路線数は88に拡大した。1977年以降、公的セクターは新しい取り組みを開始した。車両を入れ替えるためにバスを大量に購入して、運行するバスの台数を増やした。DikimeviとBeevlerを5.3kmで結ぶバス専用道路も開通した。
 
 1980年代初頭は、経済安定策により公共交通の発展が停滞した時期である。この時期で最も重要な変化は、私営バスが公共交通に参入し始めたことである(1982年)。この時期、ステーションワゴン・ドルムシュの営業は、交通や環境に悪影響を与えるとして取られた決定にしたがって完全に禁止され、そのような車両の所有者は、タクシーまたはミニバスのドルムシュの看板を出すようになった。11人乗りのミニバス・ドルムシュが、14人乗りの車両に取って代わられたのもこの時期である。
 
 中央の出発ターミナルから住宅地まで直行する主要路線の他、周辺にも路線が発達したのが大きな変化である。1993年末においては、2,134台のミニバス・ドルムシュが32路線を走り、一方、私営バスでは200台のバスが17路線で運行されていた。私的交通を奨励する政府方針の影響で、公共交通の供給量が不足し、自家用車の所有台数が急激に増加した。その結果、自動車交通における民間のシェアが増大し、近年、アンカラは深刻な交通問題を抱えるようになった。道路インフラ整備が、自動車の増加に追いつかなかったため、計画的で体系的な整備ができず、交差点における渋滞を招く要因となった。
 
 トルコ全域で実施が予定されている民営化方針を踏まえ、EGO総局は民営化の第一歩を踏み出した。具体的にはバス路線を委託して、バス公社の高いコスト水準の引き下げを図っている。
 
民営バス
 日常の移動の中心は、住宅地と中央商業地区・教育機関の間の通勤通学である。日常の交通需要を満たす中心的あるいは暫定的な車両が不足しているため、民間活力の考え方が1980年に生まれた。
 
ミニバス(乗合バン)
 法律の裏付けもなく、乗客を輸送できるように改造した車両を利用したドルムシュ交通は、輸送力のある都市交通手段として1969年に出現したが、次第に制度化されるようになった。この間、「ドルムシュ」に改造する車種は様々に変遷してきた。現在、ミニバスによるドルムシュ交通がアンカラにおける日常交通の5分の1を超えている。日常の自動車交通に占める割合は約22%である。
 
郊外列車
 アンカラで郊外電車の運行が開始されたのは1929年のことである。アンカラとKaya(東部)を結ぶこの路線は、日常の交通需要を満たすというより、余暇の交通需要を満たすようになった。郊外鉄道は開通直後から、都市開発のあり方に影響を持ち始めていた。1950年代には、CebeciからMamakまでの沿線に、簡易小屋が立ち並ぶようになった。特に郊外鉄道の西側区間では、Sincan、Etimesgutなどの地区の人口が増加した。
 
2.a. これまでの運輸計画調査
 アンカラ公共鉄道交通システム・輸送に関しては、これまで4つの調査が行われている。
 
1) 1972年にSOFRETU(フランス)とアンカラ市が共同で実施したアンカラ都市交通調査
2) 1978年から1980年にかけてEGOと建設センター(Construction Center)が実施した公共鉄道交通調査
3) 1980年から1984年かけてアンカラ市とTransurb Consult(ベルギー)が共同で実施した公共ライトレール交通調査
4) 1985年から1987年にかけてEGOとカナダのコンソーシアムおよびKutlutasが実施したアンカラ都市交通調査
 
 EGO総局は、都市交通の方向性を探るとともに、都市の土地利用に関する決定を方向づけ、その決定と整合性を確保するため、2015年都市交通マスタープランを作成した。この計画はアンカラ市議会とアンカラ交通調整センター(UKOME)の承認を受けている。
 
 都市交通マスタープランによれば、鉄道を主要な交通手段として都市交通の中心とする一方、鉄道の整備期間中は、交通機関の車両を含めたすべての自動車を市の中心部から周辺部へ移動させ、市の中心部から自動車交通を除外することになっている。バスやバンは主要な交通手段というより、基本的には駅までの交通手段として利用する。
 
 1989年から1992年までの期間においては、土地利用や交通に関する決定や投資について議論がなされた。その中で最も重要なのが、アンカラ地帯高速道路、KizilayとBatikentを結ぶアンカラ地下鉄ステージ1の他、住宅とビジネスの様々な複合計画である。
 
 以上を根拠として、1987年にまとめられた交通マスタープランを改正するために広範な研究調査が開始されたが、立法までには至らなかった。この研究調査のために、データ収集研究(調査、交差点と道路の集約等)やデータ評価研究(交通予測コンピュータモデル)が実施された。
 
 時間の経過を考慮するとともに、研究の一部は2015年に持ち越されたことを踏まえ、マスタープランの2015年に向けた提言を補完するものとして、2025年を展望した「交通のあり方(Possible Arrangements)」が策定された。
 
 交通マスタープラン調査と交通特性予測の中で承認された予測は次の通りである。
 
人口: 5,162,000人
労働人口: 1,537,000人
学生: 1,215,000人
自家用車: 933,000台
 
2. 公共都市交通の現状
概要
 市の全体構造からもわかるように、アンカラの主要基本問題は交通である。私的交通以外にもバス・列車・バン・鉄道が公共交通として利用されている。近年は、学校、公的機関、大企業などが通勤通学等を目的とした業務車両を利用することも増え、その台数も相当な数になっている。アンカラにおける一日当たりの移動本数は442万本であり、内訳はEGOバスが82万本、私営バスが20万本、乗合バンが99万本で、残りは業務車両、自家用車、タクシー、郊外列車等になっている。ANKARAYは、初のライトレール鉄道で1996年8月に開通し、全長は8.5kmであるが、乗客数は17万5,000人である。
 
 BatikentとKizilayを14kmで結ぶアンカラ地下鉄線は1997年12月に開通したが、乗客数は17万5,000人である。
 
図2.1. アンカラの都市交通機関比率(2002年3月)







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