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<寄稿>
アルバニア駆け足縦断記
金子 史生
 
 本年1月19日(土)から28日(月)にかけて、JTCAの情報収集調査事業の一環として当財団の横本主任研究員とともにアルバニアを訪れました。
 
 アルバニアは、人口340万人で、面積は、九州の8割程度ですが、国土の2/3以上を険しい山岳が占めています。アドリア海に面し、対岸にイタリア、北に旧ユーゴスラビア、南にギリシャと国境を接しています。経済的には、現在はイタリアとの関係が圧倒的に深く、輸出額の約5割、輸入額の約4割がイタリアとの取引で、主な輸出品は、繊維製品、靴で、イタリア企業の下請けが多く、そのほかクロム、銅等です。主な輸入品は、耐久消費財、中古車、工業製品です。
 アルバニア人は、自らの国のことをアルバニア共和国とは云わず、シポリ共和国と称していますが、シポリというのは、鷲のことで、伝説上アルバニア人は、鷲の末裔とされているとのことです。
 アルバニアは、ヨーロッパの北朝鮮と云われてきたように、最近に至るまで秘密のヴェールに包まれた国でした。何しろソ連、中国に対して修正主義のレッテルを貼り、自らを正統な共産主義者として国際的な孤立主義、鎖国主義をとり続け、外敵の侵略が想定される方向に銃眼口を開けた「ブンカー」と呼ばれるトーチカを至るところに20万個以上築き、国中ハリネズミのような防衛体制を敷いてきました。
 
シェンジン港周辺の海岸に構築された「ブンカー」の一群
 
 
 しかしながら、1990年に入り、東欧の民主化の潮流を受けて、長年続いた共産主義政治に終止符を打ちました。
 市場経済化の影響で大部分の第二次産業は、競争力を失い、壊滅的打撃を受け、多くの失業者が発生しました。
 さらに、不幸なことに、国民の大半が億万長者を夢見て加入したねずみ講が1996年に破綻をきたし、1997年にかけて国中を暴動の渦に巻き込み、無数の犠牲者がでました。
 暴動は、イタリア軍、ギリシャ軍による駐留で何とか収まりましたが、現在でもイタリア軍が主要都市や港湾等に駐留しています。
 今回の旅の途中でも、道路脇に遺族が犠牲者を悼んで建てた石碑が数多く見られました。
 このような事件に追い討ちをかけるように、1999年にはコソヴォ紛争の結果、アルバニア系住民45万人が難民としてアルバニアに流入し、経済困難に拍車をかけました。
 幸い、EU、IMFを中心とする強力な国際支援が行われ、経済の復興に大きな役割を果たし、ここ2000年、2001年と連続でGDP成長率は、約7%、消費者物価上昇率も2〜4%と比較的安定的に推移している旨公表されておりますが、実情を観察し、識者の話を聞いた限りでは、経済の実態は公表されているほどは順調とは云えないようです。一人当たりGDPは、1,100米ドルと、欧州の最貧国です。特筆すべき点としては、把握されない地下経済のウェートがかなり大きいようで、レストラン等で羽振りの良い連中は、そうしたアングラ・マネーの恩恵を受けた人達が多いとのことでした。
 失業率も、公表数字としては、18%程度ですが、我々一行のコオーディネーターをしていただいたレング教授等の話によれば、実際には40%を超えているだろうとのことです。
 しかしながら、共産政権時代から教育水準は高く、国民のほとんどが8年間の義務教育を終えており、大学進学率も3割を超えているとのことです。
(財)国際臨海開発研究センター 常務理事
 
 アルバニアの首都ティラナヘは、ミラノからアリタリア航空で約2時間の旅で、入国に際しビザ手数料の10米ドルを支払うと簡単に入国スタンプが押され、税関検査も事実上ありませんでした。
 今回の旅行で関係各省とのミーティングをアレンジしてくれたのは、ティラナ大学仏文学教授のレング先生で、英語・アルバニア語の通訳は、語学学校で英語を教えているマリエッタさんでした。滞在中、借り上げた車のドライバーの本来の職業は、医者で、それだけでは食べていけないので、運転手のアルバイトをしているとのことでした。
 1月21日(月)にお会いした運輸大臣のラクロリ氏は、首都ティラナから選出された社会党の国会議員で、フランスヘの留学経験もあり、英語も堪能で、レング先生の教え子とのことでした。大臣のほか、副大臣のスタンカイ氏、港湾局長のプラク氏も我々とのミーティングに出席しましたが、専ら大臣が説明役となり、アルバニアの港湾計画の策定調査や港湾整備に対する世銀、EU、米国等の支援状況を自ら説明されるとともに、アルバニア第一の港であるデュラス港に関しては、既に米国がコンテナターミナル計画、EUがフェリーターミナル、世銀が全般的リハビリテーションという具合に、それぞれ計画が順調に進められているので、日本には、北部のシェンジン港のマスタープランの見直しと整備に対する金融支援をお願いできないか、ついては26日(土)に自分がシェンジン港の案内をしたいとの話があり、我々としてもせっかくの大臣直々の話ですので、案内していただくことになりました。
 ティラナでは、経済協力省、民営化省の局長さん方とのミーティングも行われました。
 
ラクロリ運輸大臣(皮ジャンパーの男性)から説明を受ける筆者(間に立っている背の高い男性はプラク港湾局長)
 
 
 23日(水)には、ティラナから車で約30分のデュラス港を訪ねました。
 デュラス港は、老朽化したポーランド製のクレーンが林立しているものの、ほとんど使われておらず、また、港湾内に乗り入れている鉄道も現在は使われておらず、イタリアの諸港との間の連絡フェリーの利用が中心的役割を果たしており、コンテナは、年間3,000TEU程度と現状ではきわめて少なく、イタリア軍が管理しているコンテナヤードの写真を撮ろうとカメラを向けたところ、数人の兵隊が駆け寄って来て「ノー」と云われてしまいましたが、それでもすばやくシャッターを切って、数枚の撮影に成功しました。
 港の中心部に多数の漁船の溜り場となっている漁港部分とポーランド企業との合弁会社が経営する船舶修理ドックがあり、港の将来計画との調整が必要となるのではないかと思われました。
 港務局長のオスマニ氏によれば、コンテナターミナル計画に関しては、米国の資金により整備計画が立てられたものの、約120億円と見込まれる建設費に対する支援に関しては、米国等からの具体的約束はまだ得られていないとのことでした。
 
 翌24日(木)には、デュラス港の約90km南にあるアルバニア第二の港であるヴローラ港を訪ね、知事のハミティ氏、副知事のリチ氏、港務局長のタフィリ氏から、既存港及び計画されて
いる新港を案内していただきました。現在使われている港は、南側に330mの桟橋と北側に300mの岸壁があり、主としてイタリアとの間のフェリー及びセメント・建設資材の輸入用に使用されているとのことでした。
 新港の方は、共産政権時代に建設に着手され、防波堤が造られ、また建設途中のまま放置されている魚の養殖施設や魚市場の建物がありましたが、周辺には産業がほとんどなく、アクセス道路も事実上ないに等しい状態であり、新港のみに投資してもさしたる経済効果は得られないのではないかと思われました。
 かつては、周辺に化学肥料工場、プラスティック工場等がありましたが、市場経済への移行後それらの工場は、すべて閉鎖となってしまい、廃墟と化しているいくつもの工場の傍を通りかかった際に、温厚で学者肌のハミティ知事(実際に彼は元大学教授とのこと)が、「これが民主化だ。」と吐き捨てるようにつぶやいた言葉には、妙に説得力がありました。
 その後、通訳のマリエッタさんが「知事のハミティさんがあのように云われたお気持は、よく理解できますが、共産政権時代には、国民は、いつも秘密警察に監視されていて、今の方が自由があって良いと私は思っています。当時は、近所の店で、言葉が通じないで困っていたスエーデン人に英語でちょっと手助けをしてあげて、店を出たとたん、秘密警察の人から、外国人と何を話したかなどと聞かれ、住所を知られるのが怖くて、電話で友達をレストランまで呼び出して、その晩は夜遅くまでレストランで過ごしたことは、今でも忘れられません。」と語ってくれた。
 
 翌日、一行は、ヴローラ港を後にし、ギリシャ国境に近いサランダ港に向かいました。知事の意向を受けて、リチ副知事がわざわざサランダヘの旅に同行してくれるばかりか、帰り道となる首都ティラナまで我々を送ってくれることになりました。リチ副知事は、知事とともに、社会党から立候補して当選した俳優出身のハンサムな人物で、どこへ行っても多くの人から握手を求められ、人気の程が伺われました。
 サランダまでの旅は、途中ほとんどが2,000m級の山々の中腹に沿って霧状の雲の中を走る狭い道路で、下を見れば、断崖絶壁で、上を見れば、ごろごろした無数の白い大きな石がかろうじて山の斜面にとどまっているように見えるという大変スリリングな光景でした。
 途中ところどころに小規模な村落が点在し、ぶどう、オリーヴ、みかんの畑があるほかは、羊飼いと犬が羊の一群を追い立てているのに出くわすくらいでした。
 ある峠にさしかかったところで、余りに急勾配の山道を登ってきたせいか、車のボンネットから煙が噴き出したため、しばらく停車して、水を掛けたり、エンジンを冷ましたりしました。出発後4時間程かかってようやくサランダ港に辿り着いた時には、皆で無事を祝って乾杯しました。
 サランダ港とその周辺の地域は、ギリシャそのもので、住民もギリシャ系が大半を占め、言葉もギリシャ語が使われており、宗教もアルバニア人の約7割がイスラム教徒であるのに対してこの辺りの住民はギリシャ正教であり、テレビもほとんどのチャンネルがギリシャのテレビ局からのものでした。その夜は、サランダ港に面したレストランで、リチ副知事を交え、夕食をとりました。メニューの中に「サカナッチ」という奇妙な名前の料理があったので、尋ねてみたところ、日本の魚風料理という意味とのことであったので、試しに注文してみたところ、白身の魚の切り身にチーズをまぶしてオーヴンで焼いたピザのようなもので、魚が新鮮なこともあって、なかなかの味でした。
 翌朝、サランダ港にコリエール港務局長を訪ねましたが、局長は、我々とのミーティングの直前までティラナから訪れた5名程のインスティテュート・オブ・トタンスポートの人達と港湾計画の見直しについて協議しているところでした。同インスティテュートは、運輸省のインハウス・コンサルタントであり、近年外国の資金援助により作成されたアルバニアの港湾計画は、すべて同インスティテュートと外国コンサルタントとの共同作業の産物とのことでした。
 サランダ港は、ギリシャやイタリアとの間のフェリーにより主として使用されており、岸壁クレーンは、1基という小規模な港で、そのほか漁港部分と軍港関係部分とがありました。
 コリエール港務局長によれば、新しい港湾計画では、現在の港をフェリー専用港とし、隣接地区に新たに貨物埠頭、漁港区域を設ける予定となっており、主な貨物としては、セメント、煉瓦、タイル、米等の輸入とのことでした。
 サランダ港を昼過ぎに発って、首都ティラナまでの間は、未舗装区間やほとんど補修されていない区間も多く、約6時間半要しましたが、途中ギリシャのテッサロニキ港経由と見られる40ft型コンテナ(イスラエルのZIMのコンテナ)を積載したトラックを7〜8台追い越しました。これらのコンテナは、アルバニアに40ftコンテナを取扱える港湾施設がないため、ギリシャ経由となっているのではないかと思われました。
 
 アルバニア滞在の最終日の26日(土)には、ティラナから北へ車で1時間45分(途中にあるデユラス港からは、約1時間)の距離にあるシェンジン港を訪れ、ラクロリ運輸大臣、スタンカイ副大臣、プラク港湾局長、マルク知事等の出迎えを受け、テレビ取材もありました。
 また、大臣自ら港湾施設、6キロ程離れている鉄道駅、道路アクセス等を案内していただきました。港の現状は、イタリアとの間を運航しているフェリー用の小規模なバースが1つあるのみですが、世銀資金により策定されたマスタープランによれば、当面の短期計画として既存のバースを延長するとともに、2010年までの中期計画により新たなバースを建設し、また防波堤を建設するなど総計約30億円の港湾投資を想定しているとのことで、大臣は、「日本に引き受けていただけるのであれば、まずマスタープランの見直しをしていただき、できれば鉄道の引込み線や道路についても考慮していただきたい。」との要望でした。それに対して、こちらからは、「アルバニアの個々の港についてのマスタープランはありますが、それらの間の投資優先順位が決められていないため、無駄な投資が発生するおそれもありますので、まず全国港湾整備計画のようなものを作成する必要があるのではないでしょうか。」と申し上げておきました。
 その後、大臣主催の昼食会に移り、子豚の丸焼きや地元産ワイン、ラキというぶどうからつくられたウォッカのように強い酒等が振舞われ、大変な歓迎ぶりでした。
 
 以上御紹介して参りましたように、各地でのアルバニア側の対応ぶりは、きわめて熱心かつ親切なもので、日本に対する期待が大きいことが実感されました。確かに、東欧諸国では、EUや米国、世銀等の進出ぶりに比べ、日本の立ち遅れは、否めませんが、今後何とかして遅れを挽回して、JICA開発調査等につなげていくとともに、日本とアルバニアの関係発展につながれば、と考えている次第です。







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