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2003/03/09  毎日新聞朝刊
[時代の風]武力行使の「比較考量」 政治家として重い決断
田中明彦・東大教授
◇政治家として重い決断
 先月のこの欄で、イラクでの戦争が不可避となるか否かは、ひとえにサダム・フセイン氏の決断にかかっていると書いた。国際社会とイラクとの関係からは、そのように見ざるをえないということである。数多くの国連決議を踏みにじり、昨秋の安保理決議1441に対してただちに全面的な協力の姿勢を示さなかったのはイラクだからである。これ以上の国連安保理決議がなくとも、イラクに対して武力攻撃を行う法的正当性はあると思う。
 しかし、そのように言ったうえで、政治的にいえば、やはりアメリカが本当に武力行使に踏み切るか否かは重大な決断である。法的正当性があったとしても、これを実行することが政治的に賢明であるかという問題が残るからである。現在のイラク危機については、湾岸戦争などとは比較にならないくらい、米欧間の亀裂が大きい。これは、法的正当性についての議論もあり、またたとえばドイツなどの国内事情もあるが、やはり、これらの問題にくわえて、武力行使という決断が政治的そして軍事的に賢明かとの点で判断が分かれていることが大きい。
 単純化してしまえば、これは武力行使をする場合の危険と武力行使をしない場合の危険のそれぞれをどう比較考量するかという問題に帰着するようである。
 武力行使をした場合の危険は、いくつもある。戦争が短期に終わらず軍人・民間人双方の犠牲者が多くなる可能性は常にある。イラクは大量破壊兵器を反撃に使うかもしれない。論者によっては、イラクはアメリカ国内に生物兵器や化学兵器を持ち込んでこれを反撃に使うかもしれないと指摘する者もある。
 かりに戦争がなんとか終わったとしても、その後の中東地域は大混乱におちいるかもしれない。また、新たな国連安保理決議なしで攻撃が行われれば、国連の権威は失墜するとの危険も指摘される。
 これに対して、武力行使をしなかった場合の危険もある。イラクにおける大量破壊兵器の存否は結局うやむやになってしまうかもしれない。これだけ大規模なアメリカ軍をイラク周辺に集結させて圧力を加えつつ、しかも決議1441という最後通牒(つうちょう)に等しい要求のもとで査察をおこなってもイラクは、全容解明に協力しなかった。そうだとすれば、ここで武力行使をせずにアメリカ軍が撤退すれば、イラクが今後査察に協力するという見通しはたたなくなる。1998年のようにまた査察官を追い出すかもしれない。結局、国連を中心にしたシステムは何も決断できないシステムだということになって、その国際社会における意味は決定的に低下するかもしれない。
 また、現在までのところイラクとアルカイダなどのテロリストとの関連を示す証拠は、確実なものはほとんどないようだが、これが結びつく可能性は絶無とはいえない。もしイラクの保持しているかもしれない大量破壊兵器がテロリストの手にわたったら、9・11事件をおこしたテロリストであれば必ず使用するであろう。
 さらに別の観点からすれば、他国への影響もある。大量破壊兵器を開発しても、結局国際社会は武力行使をしないのだということになれば、他の事例は、ますます平和的解決が困難になるのではないか。その結果、大量破壊兵器の拡散はますます促進され、さらにテロリストの手に大量破壊兵器がわたる確率が高まる。現在の武力行使についての危険が指摘されるが、将来いずれかの時点でそれをはるかに上回る危険を覚悟で戦争をしなければならなくなるのではないか、という危険もある。
 たいへん難しい比較考量である。すべてを定量化して客観的判断ができるなどという問題ではない。だからこそ国際社会の中でも、アメリカ国内でも意見対立があるのである。この問題が現実世界と関係のない学問的問題であれば、さらに議論を深めようという選択もありうるかもしれない。しかし、イラク問題については、そろそろ決断の時が来つつある。武力行使をするという決断かもしれないし、武力行使をしないという決断かもしれない。ここで、さらに議論を深めよという言い方は、つまりは武力行使をしない決断をするという決断をすることであって、決断をしないことにはならない。
 そして、その決断の主体は、事実上はブッシュ大統領である。政治家としてこれほど重い決断はない。シラク大統領にしてもシュレーダー首相にしても、そして小泉純一郎首相にしても、これほどの責任を負う立場にはない。
 これまでのブッシュ大統領の発言からすれば、米英の推す国連安保理決議が通らなくとも彼は武力行使の方向を選択するのであろう。私自身も、サダム・フセインがここで査察協力の一大決断をしない状況で、武力行使を覚悟しないことの危険は大変大きいと思う。もちろん、これは武力行使の危険を指摘する声を無意味だとか、理由がないというのではない。しかし、ひとたびアメリカが決断したとすれば、武力行使と不行使の危険性の比較考量にくわえて、そのようなアメリカを支持するかしないかの比較考量もこれに加わる。そして、私にはアメリカを支持しない危険は、日本にははかりしれないほど大きいと思う。=毎週日曜日に掲載
◇田中明彦(たなか あきひこ)
1954年生まれ。
東京大学教養学部卒業。米マサチューセッツ工科大学大学院修了。
東京大学助教授を経て、東京大学教授。東京大学東洋文化研究所所長。
 
 
 
 
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