2003/03/27 朝日新聞朝刊
大統領「そうだ、イラクをやろう」(12年前に始まった戦争:上)
○同時テロ5時間後 国防長官「イラクたたきの情報を」
米東部時間01年9月11日午後2時40分、ワシントンの米国防総省スタッフがラムズフェルド長官の指示を書き留めている。アメリカン航空77便が同省に激突した5時間後だった。
「いい情報を早く。UBL(オサマ・ビンラディン)だけでなく、同時にSH(サダム・フセイン)をたたくのに十分な情報を」(02年9月4日の米CBSニュース)。
同時多発テロがビンラディン氏率いるイスラム過激派組織アルカイダの犯行であることを疑わせる情報は、すでに長官の手元に届いていた。長官はさらに「イラク」との結びつきを求めた。米国が衝撃と悲嘆にくれていたこの時、米政府中枢では「イラク戦争」への歯車が回り始めていた。その夜、ブッシュ大統領は国民に「テロリストと彼らをかくまう勢力を区別しない」と報復を宣言。大統領は「敵」として「国家」も想定していた。
翌12日、ラムズフェルド長官は「テロリストと総力戦を行うのなら、イラクを攻撃目標にせざるをえません」と大統領に提案。15日の会議で、ウォルフォウィッツ国防副長官も「今こそイラクを攻める時期です」と進言した(ウッドワード「ブッシュの戦争」)。
米国民は経済的繁栄を謳歌(おうか)し国際問題に関心を失っていた。そこへ起きたテロは「安全保障への関心を高めた」(ケネス・ポラック・ブルッキングス研究所中東研究部長)との見方がある。しかしなぜ、報復の矛先にイラクが浮上したのか。山岳戦で膠着(こうちゃく)の恐れがあったアフガニスタンより、イラクの方が戦いやすいとの意見も政権内にあった。
だが「イラク攻撃は対テロ戦争への国際協調を損なう」というパウエル国務長官らの反論にあう。
その後も、「テロ実行犯がプラハでイラク諜報(ちょうほう)将校と会った」「炭疽(たんそ)菌テロの糸を引くのはフセイン政権」など、イラクとテロを結びつける「未確認情報」が強硬派周辺から断続的に流された。だが決定的な証拠はない。対テロ戦争の「第1幕」はアフガンを舞台に切って落とされた。
○タリバーン崩壊間近 大統領「そうだ、イラクをやろう」
01年11月13日、米英軍に支援されたアフガンの北部同盟が首都カブールに進攻した。ビンラディン氏をかくまっていたタリバーン政権は崩壊した。約2週間後の26日、ブッシュ大統領が記者会見で述べた。イラク政権が査察受け入れ拒否を続けた場合、「サダムは思い知ることになる」。
米政府の従来の見解の繰り返しではあったが、イラクの脅威に世界の注意を向けさせる政治的な暗示と受け止められた。なりを潜めていたイラク主戦論が「アフガン後」に再び鎌首をもたげた。
もともと大統領は対テロ戦争を「複数の局面を重ねる戦争」と考えていた。だが、「次の局面」の舞台の候補としては、むしろアルカイダの影が濃いソマリア、イエメン、スーダンなどの国々が挙がっていた。
ライス大統領補佐官(国家安全保障担当)によると、タリバーン崩壊のめどが立ったところで「大統領は、まるで電球が頭の中で急に明滅したように、『そうだ。イラクをやろう』と考えた」(03年2月20日の米PBSテレビ)という。
02年1月22日、「暗黒の王子」という異名を持つリチャード・パール国防政策諮問委員長が「サダムを放置し、イエメンやスーダンなど小さなテロ支援国家を作戦対象にすれば、米国はイラクのような大きな国には手が出せないというのと同然だ」と発言した。イラクを対テロ戦争「第2幕」にする説明だった。
1週間後、大統領は一般教書演説でイラクをテロ支援の「悪の枢軸」の一つに挙げ、「危機が近づくのを座視しない」と先制攻撃を示唆した。
これより前、大統領は01年12月21日の記者会見で「来年(2002年)は戦争の年になる」と予告している。再選を狙う大統領選(04年)までにイラク問題は片づけたい。攻撃に不向きな砂漠の猛暑を避けるなら03年春までには開戦の必要があった。
イラク戦争への時計の針は「9・11」から回り始めていた。だが、その源流は今から12年前にさかのぼる。
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