2003/01/16 朝日新聞朝刊
@ankara トルコの「戦略的深み」(日本@世界)
船橋洋一
アンカラのトルコ政府首相府。ギュル首相の執務室の隣の秘書室で待機している間に外相や外交担当顧問がせわしなく出入りする。途中、ソラナEU(欧州連合)共通外交・安全保障上級代表から電話が入った。「ソラナだけではない、アナン(国連事務総長)もパウエル(米国務長官)も電話を入れてくる」と側近は言った。イラク情勢が風雲急を告げている。去年11月に電撃的に登場した公正発展党政権の最初の試練である。
国民の87%は、米国のイラク攻撃に反対している。しかし、米国はNATO(北大西洋条約機構)の一員であるトルコに対米支援を求めている。攻撃のため米軍に基地を使わせるには国会の決議が必要だ。
ギュル首相は言った。
「トルコは民主主義だから、人々の意見をよく聞いて政治をしないと。それに、前の湾岸戦争がトルコにもたらした多大なコストのことを人々は忘れてはいない。二度と同じような状況にはなりたくないと人々は思っている。トルコとしても戦争回避のため最後まで努力する」
国会決議はいつになりそう・・・と聞きかけたら、「それよりまず、戦争の回避に全力を尽くす時だ、今は」と跳ね返す。
しかし、米国はトルコがぐずぐずしていてイラク攻撃作戦が立てられないといら立っている。トルコの軍部もしびれを切らしている。軍と新政権の間に早くも緊張が走っている。
イラクはトルコの隣国である。そこで戦争が起これば経済関係が損なわれるだけでない(湾岸戦争では400億ドルのコストを費やし、それが90年代後半のトルコの経済危機につながったとの苦い思いもある)。北部のクルド難民が再び流れ出てくるだろう。その中にはクルドの独立派や過激派が紛れ込んでくるかもしれない、とトルコは懸念している。だがクルド難民を押し戻せば、「人権無視のトルコはまだ入会資格はない」と西欧諸国にトルコのEU加盟を遅らせる口実を与えかねない。
米国内には、イラク戦争はイラクに民主主義をつくるためだ、と主張する向きもある。トルコはどうか。
「何よりも重要なことは、イラクの領土と国境の現状維持だ。もちろんイラクに民主主義が生まれればご同慶の至りだ。しかし、そこに民主主義をつくるかどうかはトルコではなく、イラクの国民が決めることだ。トルコはイラクの内政に首を突っ込みたくはない」
公正発展党は、イスラム主義政党ではないにしてもイスラム色の強い政党である。この日、私は同党と野党第1党の共和人民党の本部をそれぞれ訪れたが、公正発展党では議員秘書たちの中にスカーフで髪を隠している女性が目立った。
西欧では、公正発展党の台頭を政教分離のイスラム社会を作りあげてきたトルコのイスラム化への変質と言い立てて、トルコのEU加盟に改めて反対する動きも出始めている。ジスカールデスタン元フランス大統領もその一人だ。
「彼のようにEUをキリスト教クラブにせよと主張するグループもいる。ただ、そうでないグループもいる。EUは単一宗教しかダメだというビジョンは受け入れることはできない」
トルコが統合欧州への加盟希望をはじめて表明したのは、58年に欧州経済共同体(EEC)が誕生した直後である。冷戦後、同盟国として一緒に冷戦を戦った西欧諸国は敵方だった東欧諸国の加盟を次々と認めた。だが、トルコは依然お預け状態だ。
西欧がトルコ加盟をためらう真の理由は、イスラムもさることながらトルコの将来の大国化への恐怖感なのではないか。トルコは「大きすぎる」のである。トルコの人口はドイツに次ぎ第2位。しかも国民の平均年齢は24、25歳と若い。軍隊は60万人。NATOでは米国に次ぐ軍事大国だ。それにトルコ国内の人口とほぼ同じトルコ系が中央アジアを中心に人種的、言語的、歴史的後背地を形作る。
バルカン、コーカサス、中東に接し、三つの海に臨む欧州とアジアの結節点である。このような強みは各地のもめ事に巻き込まれる危険があるため弱みにもなりうる。ただ、トルコが、ギュル首相の外交顧問であるアーメト・ダブトウル・ベイケント大教授が言うところの「戦略的深み」をたたえ始めていることは間違いない。
「トルコが大きくなれば、それによるプラスの面もあるだろう。それだけトルコの貢献も大きくなるではないか。なぜ、彼らはそちらを見ずにマイナスばかりを見ようとするのか」
大きな目をギョロリとむいて、ギュル首相は同意を求めるように私を見た。
(本社コラムニスト yfunabashi@clubAA.com)
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|