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3. 琵琶湖・淀川の舟運
 淀川は、古代から、人々に、さまざまに利用されてきました。
 川で魚をとったり、川の水を飲んだり、ものを洗ったりする以外に、川を利用して、船で人や物を運んできました。
 難波宮(なにわのみや)、長岡京、平安京などの昔の都は、水陸の交通の便利さから、淀川流域につくられました。そして、人を運んだり、米などの農産物や木材などの重い荷物を大量に運ぶのに、淀川を活用してきました。
 また、古くから、淀川の両岸には、渡し船が、行き来していました。川幅の広い淀川に橋をかけることは大変難しく、苦労して橋をかけても、洪水が来るたびに木の橋は流されてしまっていたからです。
 特に、江戸時代には、たくさんの渡しが淀川のあちこちにあって、渡し船が活躍していました。
 近世になり、大阪が「天下の台所」と呼ばれるほど文化や経済が発展すると、淀川は、ますます重要な水路となっていきました。
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が伏見城(ふしみじょう)を建ててからは、京都では、伏見港が交通と商業の中心地となって栄え、淀川を運ばれてきた荷物は伏見港で荷あげされるようになり、多くの船が行きかうようになりました。
にぎわう伏見の港(『淀川両岸絵図』より)
 
 また、秀吉は、二十石船や三十石船に朱印状(しゅいんじょう)を与え、淀川での特権を与え、船を管理しました。朱印状を与えられた三十石船は、「過書船(かしょせん)」として、伏見と大阪の間を航行しました。
 「淀船(よどふね)」(二十石船またはそれより小さい船)は、小回りが利くことから、淀川だけではなく、伏見(ふしみ)・木津川(きづかわ)・桂川(かつらがわ)でも活躍しました。淀船は、過書船と同じ特権が与えられ、浅瀬で大きな船から荷物を積みかえて運ぶことから、「上荷船(うわにぶね)」ともよばれ、淀川の川すじの荷物は、ことごとく運んでいました。
 徳川家康も、淀川を行き来する船に朱印状を与え、船を管理しました。
 江戸時代の享保(きょうほう)七年(1722年)、淀川を航行する船の数は、大坂からの上りの船が年間3,600隻(せき)、大阪への下りの船が年間2,500隻(せき)だったと書かれた資料が残っています。
 このように全盛をきわめた三十石船や伏見船も、明治初めの小型蒸気船(こがたじょうきせん)の就航(しゅうこう)とともに衰退(すいたい)していきます。
 そして、蒸気船も、やがて鉄道の開通により衰退していきました。
 
〔三十石船〕
 三十石船は、江戸時代、たくさんの荷物や人を乗せて、大阪と京都の伏見の間を上り下りしていました。船に積める荷物の重さがお米で数えると三十石(こく)だったことから、三十石船と呼ばれていました。
 荷物を運ぶ三十石船の過書船は、長さ17m、幅2.5mに決められていました。
 人を運ぶ三十石船は、それよりも大きく、長さ27m、幅3.6mでした。そして、船に乗れる人数は、乗客28名、船頭(せんどう)・船子(ふなこ)4名でした。
 だんだん淀川に土砂がたまり、川が浅くなってきたため、三十石船は、重い荷物を運ぶよりも人を運ぶことが中心になっていきました。
 人を運ぶ三十石船は、下りは、流れにまかせて6〜8時間かかり、上りは、両岸から綱で引っぱらなければならない場所が9ヶ所もあって、1日かかりでした。船賃(ふなちん)も、楽な下りの方は安く、上りの方は高かったそうです。
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の書いた『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で、弥次さんと喜多さんが伏見から三十石船に乗る場面や、浪曲(ろうきょく)で、森の石松が、こんぴらさん(金刀比羅宮(ことひらぐう))参りの帰りに大阪から伏見まで三十石船に乗る場面など、三十石船は、お話の中にも登場します。
 
〔くらわんか船〕
 くらわんか船は、三十石船に乗っている人たちに食べ物や酒を売る小さな茶船(ちゃぶね)のことです。「飯(めし)くらわんか、酒(さけ)くらわんか、ごんぼ汁(じる)、あんモチくらわんか、銭(ぜに)がないのでようくらわんか」と、三十石船に近づいてきては、土地の方言(ほうげん)で食べ物を売っていました。その売り声から「くらわんか船」とよばれるようになり、淀川の名物になりました。
三十石舟とくらわんか船 (アダチ伝統木版画技術保存財団復刻)
 
〔高瀬舟(たかせぶね)〕
 高瀬舟は、杉の木でつくられた、長さ13m幅2mの船底の平たい十五石(2.25トン)積みの舟です。
 高瀬川は、1614年(慶長(けいちょう)19年)、角倉了以(すみのくらりょうい)によって京都と伏見を結ぶためにつくられた10kmほどの長さの運河(うんが)です。
 江戸時代から大正時代までの約300年間、高瀬川を高瀬舟が荷物を積んで行き交っていました。江戸時代、もっとも多いときには、180隻以上の船が行き来していたといわれています。
 
〔朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)〕
 徳川家康(とくがわいえやす)と朝鮮国王(ちょうせんこくおう)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)によってとだえていた国交を回復する目的で、徳川幕府と朝鮮国との間で、たがいに使節団を送ることを決めました。
 そして、徳川将軍の代がかわるたびに、朝鮮国から使節団がお祝いにやってきました。
 朝鮮通信使は、江戸時代に12回、日本に来ています。
 300人から500人の通信使の一行は、対馬(つしま)から壱岐(いき)へ、瀬戸内海を進み、淀川の河口で日本の川船(「川御座船(かわござふね)」と呼ばれる豪華絢欄(ごうかけんらん)で、三十石船よりはるかに大きな船)に乗りかえ、淀川をさかのぼり、京都の淀から朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)とよばれる琵琶湖沿いの道を通り、東海道(とうかいどう)を通って江戸へ向かいました。
川御座船(上々官第三船図より)
 
〔明治時代、淀川を走っていた蒸気船(じょうきせん)〕
 明治時代、川船に代わり(かわり)、客船として淀川を航行(こうこう)していた蒸気船。
 1870年〜1940年まで航行していました。
 
『舟運(しゅううん)』ってなんだろう?
 舟運とは、船を使って物や人を運ぶことをいいます。
 鉄道や自動車で物を運ぶようになるまでは、おもに、川や海で船を使って物を運んでいました。







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