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マハティールの退任で転換期を迎えるマレーシア
●日本貿易振興会アジア経済研究所地域研究第一部研究員 熊谷 聡
 
新行政都市プトラジャに建設された首相府
 
熊谷 聡(くまがい・さとる)
1971年 島根県生まれ
〈現職〉日本貿易振興会アジア経済研究所地域研究第1部研究員
〈学歴〉慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了
〈職歴〉日本貿易振興会アジア経済研究所経済開発分析プロジェクトチーム研究員
〈主な著書〉
『マレーシアに学ぶ沖縄の情報産業振興策』「THE沖縄戦略産業」日本貿易振興会アジア経済産業所、1999年
『マハティールに全てを託すマレーシア』「世界週報」時事通信社、1998年
「マレーシア:テロとの戦いとIT不況に苦慮」『アジア動向年報2002年版』2002年日本貿易振興会アジア経済研究所、他
 
突然の退任発表
 二〇〇二年六月二十二目、二十一年間にわたってマレーシアを率いてきたマハティール首相が突然の退任を発表したことは、内外に衝撃を与えた。マハティールは自らが総裁を務める最大与党・統一マレー人国民組織(UMNO)の年次総会で総括演説を終えると、次のように切り出した。
「この機会に発表しておきたいことがある。私はここに退任を発表したい。党総裁とすべての党役職、国民戦線(与党連合)総裁とすべての役職・・・」
 後に、首相と政府のすべての役職からも退くと発表するはずだったことが明らかになったが、感極まったマハティールは言葉を続けることができなかった。家族も含めて、この重大な発表を事前に知らされていたものは、ほとんどいなかったと言われている。突然の発表にあわてた側近たちは壇上のマハティールに駆け寄り、退任を撤回するよう説得した。会場は大混乱に陥り、マハティールは婦人と側近に付き添われて別室に退場した。
 約一時間後、UMNO副総裁を務めるアブドゥラー副首相が会場に戻り、マハティールが説得に応じて翻意したことが伝えられると、拍手と歓声が起こった。しかし、退任問題はこれで終わったわけではなかった。マハティールは翌二十三日に公邸でこの問題について党幹部と話し合った後、二十四日朝には十日間の休暇をとるためイタリアヘ出発した。
 六月二十五日、UMNO党幹部で構成される最高評議会は、マハティールの退任問題について次のような発表を行った。
(1)マハティールは党員や国民からの支持に感謝しているが、UMNO、国民戦線および政府のすべての役職から退任することを決意している。(2)マハティールはアブドゥラーを後継者に指名した。(3)マハティールは二〇〇三年十月のイスラーム諸国会議(OIC)後に退任することを決めた。(4)OICまでの間、マハティールはUMNO、国民戦線および政府のすべての役職にとどまる。(5)OICまでの間にマハティールは二ヶ月間の休暇をとり、マハティールの休暇中はアブドゥラーがUMNO総裁代行および首相代行を務める。(6)マハティールは退任時期について、権力と責務をスムーズに継承し、OICなどの議長国としての責務を果たすことを考慮したと説明している。(7)マハティールはUMNO、国民戦線および政府の役職を退任した後も、UMNOのためにエネルギーとアイデアを捧げたいと考えている。(8)マハティールはUMNO党員が党の強化のために共に働くことを望んでいる。
 UMNO最高評議会はこうしたマハティールの意思を受け入れることを表明し、党員にもマハティールの退任の意思を尊重するよう要請した。突然の退任発表で始まった一連の問題は、十六ヶ月の準備期間を経てマハティールが退任し、アブドゥラーが後継者となることでひとまず決着した。
 
退任の背景
 マハティールが突然退任を表明した理由については、様々な憶測が飛び交っている。UMNOや国民戦線の内紛に辟易していたとか、六月中旬に、マハティールとおなじ心臓病で入院していた最大野党の全マレーシア・イスラーム党(PAS)党首(後に死去)を見舞ったことが影響しているとか、常々より多くの時間を家族と過ごしたがっていたという話も伝えられた。しかし、どれもマハティールが突然退任を決意するほどの重大さであったとは考えられない。盤石の権力基盤を考えれば、本人の意思以外で辞任に追い込まれた可能性もない。
 真相は明らかではないが、最も自然なのは、マハティールはかなり前から退任を考えており、発表のタイミングを慎重に選んでいたという解釈であろう。本人が退任発表時に感傷的になって取り乱したという事実は、退任自体を突然決めたかどうかとは関係がない。マハティール自身も、七月三日に休暇から帰国した際に記者会見を開き、退任の動機について「二十一年というのは首相としては長すぎる」と答え、一九九八年にマレーシアで開催された英連邦競技大会を花道に退任することを考えていたと述べている。
 
通貨危機後の苦闘
 それでは、マハティールは何故、この時期を選んで退任を発表したのだろうか。この時期以前に退任を発表できなかった理由は、はっきりしている。一九九七年の通貨危機以降、マレーシアでは政治的・経済的混乱が続き、円滑に政権を移譲できる状況にはなかったためである。
 一九九七年のアジア通貨危機は、それまで有能な指導者として名声を得ていたマハティールに対する国内的・国際的な評価を一変させた。マハティールは通貨下落の責任は投機的売買を繰り返すヘッジファンドにあるとして執拗に批判したため国際金融界からの反発を買い、逆に、国際通貨基金(IMF)と協調的な路線をとっていたアンワール副首相(当時)への内外の評価は高まる一方であった。
 アンワールとの経済政策をめぐる対立はやがて政治的対立に発展し、一九九八年九月にアンワールが更迭・逮捕されたことで、マハティールに対する国内外の政治的な反発は頂点に達した。経済政策においても、固定為替制度と短期資本規制を導入したため、市場を無視した強引な措置として国際金融界から強い反発を招いた。
 その後、マレーシアが順調に景気回復へ向かったことで、マハティールの経済政策は国際的にも評価されるようになっていった。一方で、アンワール問題に端を発した政治的な苦境は続き、一九九九年十一月の総選挙では国民の約六割を占めるマレー人の票が野党PASへ大きく流れ、UMNOは議席を大幅に減らした。与党連合・国民戦線全体としては国民の約三割を占める華人の票を固めることで安定多数を確保したものの、マハティールとUMNOは、支持基盤であるマレー人の支持を失うという危機的状況に追い込まれた。
 
転機となった九・一一事件
 マハティールが政治的な苦境を脱する転機となったのは、二〇〇一年九月十一日の対米テロ事件であった。九・一一事件は、急進的なイスラーム政党であるPASの「危険性」を繰り返し訴えてきた国民戦線に正当性を与えることになった。この事件を機に、PASを中核とする野党連合から華人政党である民主行動党が離脱し、国民戦線に代わる多民族の連立政権がPAS主導で成立する可能性は消滅した。
 九・一一事件は、マハティールの国際的な評価にも大きく影響した。穏健で近代的なイスラームを標榜するマハティール政権の政治的な重要性が徐々に認識されるようになり、アンワール事件以来の欧米諸国からのマハティール批判はやがて影を潜めた。特に、クリントン政権下で悪化した米国との関係は大きく改善し、二〇〇二年五月にはマハティールとブッシュ大統領の会談も実現した。六月にはイスラーム世界の有力な指導者としてバチカンに招待され、ローマ法王と会談するなど、マハティールは国際的な名声を取り戻しつつあった。
 その他、二〇〇一年六月には側近中の側近だったダイム蔵相を退任させて自ら蔵相を兼任し、ダイムに近いとされていた有力企業の改革を断行するなど、マハティールは通貨危機以来批判されてきた政府・与党と有力企業との不透明な関係にもメスを入れはじめた。二〇〇二年に入って、マハティール政権は安定度を増し、マハティールが辞任に追い込まれる可能性は、二十一年の長期政権の中でも最も低くなっていた。
 マハティールの政治的な目標を、永遠に首相であり続けることと考えれば、盤石の権力基盤を確立した途端の退任発表は奇異に映る。しかし、名誉あるかたちで退任することこそが目標であるならば、今回の発表は首肯できる。逆説的ではあるが、権力基盤がかつてないほど強化されたことで、ようやく名誉ある退任が可能になったということができる。







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