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財団法人 アジア人口・開発協会
20年の歩み
■はじめに
 “人口爆発”の世紀といわれた20世紀後半は、ピーク時には年間約9000万人もの新しい生命が地球人口に仲間入りした。
 20世紀初頭、16億5000万人だった世界人口は100年後の20世紀末には実に60億6000万人にふくれ上がった。3.67倍の増加である。
 21世紀半ばの2050年には、国連人口部の中位推計によると世界人口は93億2200万人に達するといわれている。このうち、われわれの住むアジア地域の人口は54億2800万人で、世界人口の58.2%を占める。アジアの人口の趨勢が世界人口と人類の未来を決める、といっても過言ではない。
 このような人類がかつて経験したことのない人口圧力を受けて、地球上では深刻な環境破壊をはじめ食料、水不足が起こり、失業、貧困が拡大し、HIV/エイズなどの感染症も蔓延しつつある。
 一説によれば、地球上の人類を扶養できる食料は80億人〜85億人といわれる。
 地球の生命をも蝕む人口増加問題は、母なる地球と人類が共生していくためには、もはや一国だけでは解決できない全人類の英知を結集しなければならない緊急課題である。
 
 APDAは、こうした歴史上の真っ只中にある1982年、小さなNGOとして高い志を掲げ、グローバルな視点からこの問題解決のために設立された。人口爆発はやや勢いが衰えつつあるものの、依然として年間7700万人も増え続けている。
 一方、日本国内では欧米でも例をみない急速なスピードで合計特殊出生率(TFR)が低下を続け、2001年(平成13年)には、1.34にまで落ちこんでいる。極端な“少子・高齢化”社会の到来に、政府は国家の消長にかかわる大問題としてとらえ、その対策に懸命である。
 かかる時期、APDAは記念すべき設立20周年を迎えた。ここに「20年の歩み」を編纂するに当たり、APDA設立に至るまでの経緯とその後の活動経過について資料を中心に記述することにした。
 
APDA設立の経緯
 財団法人アジア人口・開発協会(Asian Population and Development Association 略称APDA(アプダ)は、1982年(昭和57年)2月1日、厚生省の認可法人としてスタートした。翌1983年(昭和58年)3月31日、外務省、農林水産省の認可を得て、現在、厚生労働、外務、農林水産、3省共管の財団法人としてNGO活動を続けている。
 さらに公益性が認められ、1983年8月19日、大蔵省(現財務省)の試験研究法人として、1991年3月30日からは特定公益増進法人の認可を受けている。
 
 APDAは、人口問題解決に資するため、
 
1. 日本とアジア諸国の人口と開発に関する調査研究事業を通じて、アジアの社会開発と経済開発、福祉の向上と、平和の確立に寄与する。
2. 立法府の立場から人口問題を解決するため設立された日本国国会の「国際人口問題議員懇談会」(JPFP)の事務局業務、「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」(AFPPD)東京オフィスとして国会議員の人口と開発活動を支援する。
3. UNFPA(国連人口基金)、IPPF(国際家族計画連盟)などの国際人口機関への政府の拠出金支援をはじめ、世界各地域のNGO等と連携を保って多様化する人口問題解決に取り組む。
 
――ことなどを活動目標としている。
 
“アジアに人口活動の議員グループを支える母体は日本に”
―北京会議で強い要望―
 1981年(昭和56年)10月27日から30日まで、北京の人民大会堂で開かれた「人口と開発に関するアジア国会議員会議」(通称北京会議)で、各国議員の間から“アジアの人口問題を解決するために、人口と開発に関するアジアの国会議員グループを結成しようではないか”という強い要望が出された。
 当時のアジアの人口は26億3000万人で、世界人口の約60%を占め、世界の人口上位10ヵ国のうち第1位中国10億800万人(22.3%)、第2位インド7億500万人(15.6%)、第5位インドネシア1億5400万人(3.4%)、第7位日本1億1800万人(2.6%)、第8位バングラディシュ9100万人(2%)、第9位パキスタン8900万人(2%)と、アジアの6ヵ国が人口大国として名を連ねていた。
 人類の平和と安全を脅かす人口問題は、地球人口のおよそ6割を占めるアジアの動向を抜きにしては解決できない。世界の人口と開発問題をリードしていくのは、アジアの責任である――こうした共通の強い認識と決意が、人口と開発に関するアジア国会議員グループ結成の気運を盛り上げた。
 結成に当たっては単なる議員のサロンにするのではなく、政策と実践活動を展開していく実効あるグループにしなければ有名無実なものとなる――そのためには、活動を支える母体が必要である――というのが各国議員の意見だった。
 この“北京会議”には、日本から福田赳夫元首相・日本国国際人口問題議員懇談会会長を団長とする22名の国会議員が参加していた。団長代行が佐藤隆衆議院議員(自民)、副団長が住栄作衆議院議員(自民)、井上普方衆議院議員(社会)という顔ぶれだった。
 北京会議の大会議長は廖承志氏(中国)、副議長に佐藤隆氏(日本)が選ばれた。
 アジアの参加国は19ヵ国。国際機関、ラテン・アメリカ地域代表などを含めると参加者総数は200名に上った。
 この北京会議がその後の世界の人口・開発問題に取り組む国会議員グループ結成の原動力となり、国会議員が人口問題解決に貢献するための歴史的な重要な転換点となった。
 そして、先ず国会議員グループの活動母体を日本に作ってはどうか、ということになったのである。
 
参加国: バングラディシュ、中国、キプロス、民主カンプチア、フィジー、インド、インドネシア、イラン、イラク、ヨルダン、マレーシア、モルジブ、ネパール、フィリピン、シンガポール、スリランカ、シリア、タイ、日本
(ブラジル:オブザバー)
 
APDA――難航の末に設立
 APDAの夜明けが訪れた。
 北京会議から帰国した佐藤隆衆議院議員は、「私が中心となって是が非でも財団を作り上げよう」――と決意。果敢な奔走が始まった。
 当時から既に政府の行政改革の方針のもとに財団法人や社団法人など民間の公益法人の認可が厳しさを増していた。人類の平和と安全、福祉のためを願う大義名分も、行革の壁の前にしばしば立ち往生した。
 厚生省で難色を示したのは、1)財団設立のために必要な基本財産が不足している、2)議員サロン的なグループの下支えをする財団は認められない、3)アジアの人口・開発問題ということであれば、厚生省より外務省のほうが適当ではないか――というのが主たる反対理由だった。
 第一関門の資金的裏付けとして、当時、財団法人の設立に当たっては基金として先ず最低5000万円が必要といわれた。そこで福田赳夫(元首相)、田中龍夫(元通産相、文相)、住栄作(元法相)、佐藤隆(元農水相)、前田福三郎(元日本電波塔(株)社長)の5氏が私費を各200万円ずつ拠出して、先ず1000万円の基金を作った。しかし、あと4000万円が不足している。
 佐藤隆氏が基金作りの要請に向かったのが国際平和活動に熱心な財団法人 日本船舶振興会の笹川良一会長だった。佐藤氏の情熱に動かされた笹川会長はこの申し入れを快諾。4000万円拠出をOKした。これで第一ハードルの資金手当てのメドがついた、と喜んだのも束の間、思わぬ伏兵が待ち受けていた。日本船舶振興会も財団法人で、所管官庁が運輸省である。
 運輸省の見解は、まだ設立されていない未認可団体への基金拠出は許すべきではない、というものだった。
 一方、APDAが設立許可を申請している厚生省は、5000万円の基金が満たされていなければ認可条件に欠ける、と難色を示した。
 佐藤氏の指示を受けて、財団の寄附行為案を作成し、厚生省との折衝に当たっていた広瀬次雄氏(現APDA常務理事、事務局長、当時佐藤隆代議士相談役)は、厚生記者会OBの経験を生かして奔走したが、事態は将棋の千日手のように引けず、進めず、左右に動けず交渉は難航した。佐藤代議士の第一秘書だった船津準二氏も搦手から執拗に打開策に当たったが、最終的には“人脈”突破作戦が効を奏した。当時の日本船舶振興会、町田千秋理事(自治省OB)、西尾喜久雄福祉課長、厚生省の吉村官房長、朝本信明企画課長、運輸省の石月昭二官房総括審議官、早川章航空局管理部長らの献身的な協力によって運輸省と厚生省が同時に拠出を認め、資金受け入れを認めて一気に解決した。1982年(昭和57年)2月1日のことである。
 このように、佐藤隆氏の情熱と執念が実り、紆余曲折の末、財団法人 アジア人口・開発協会が設立されたのである。この間、僅か100日間。奇跡ともいえるスピード解決だった。
 
 「日本およびアジア諸国における人口問題と開発に関する調査研究等を通じ、社会発展と経済発展に寄与し、アジアにおける福祉向上と平和の確立、および我が国の国際協力に資することを目的とする」と謳ってスタートした(財)アジア人口・開発協会は、翌年、1983年(昭和58年)3月31日、外務省、農林水産省も財団法人として認可。厚生(現在は厚生労働省)、外務、農林水産、3省共管の財団法人として活動を続け、その後、大蔵省(現財務省)も試験研究法人として、さらに特定公益増進法人として認可し、会費や寄附金には免税措置を与えている。
 
AFPPDも発足 議長に佐藤隆氏
世界各地域の議連結成に貢献
 APDAの発足によってアジアの国会議員グループの活動母体ができあがり、いよいよ人口と開発に関する国会議員活動が動き出した。日本に拠点をつくったのは岸信介(元首相)、福田赳夫(元首相)氏らの薫陶を受けた佐藤隆氏をはじめとする国際人口問題議員懇談会の国会議員による8年間にわたる努力の賜ものだった。
 1982年3月8、9の両日、インドの首都ニューデリーで、中国、日本、マレーシア、スリランカ、インド、オーストラリアの6ヵ国代表が集まり、暫定委員会を開いて北京宣言に基づいて「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」(Asian Forum of Parliamentarians on Population and Development)略称AFPPD(通称エイシャン・フォーラム)が正式に発足した。
 初代のAFPPD議長には、日本の佐藤隆氏、副議長に中国の黄華元外相夫人の何理良女史が選ばれ、就任した。
 その後、数回にわたって運営委員会が開かれ、1984年2月17日から20日まで、インドのニューデリーで「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」第1回大会が開かれた。この第1回大会には、31ヵ国、47機関が出席し、参加者は合計297名に上る盛会となった。
 これを契機にAFPPD活動は年を追って充実し、世界各地域にも積極的に呼びかけ、地域議員連盟の結成に貢献し、地球規模での緊密な情報交換、連絡強化に努めている。
 
 APDAとAFPPD、この両者は、設立の経過からみてコインの裏表のような関係にあり、一卵性双生児ともいえよう。
 
歴史的転換点の“扉”開く
国境紛争で立ち往生の「北京会議」
日本・佐藤隆代議士がピンチを救う
 APDAとAFPPD設立のきっかけをつくった「北京会議」は、人口と開発に関する国会議員活動の“歴史的転換点(ターニング・ポイント)”といわれる重要な会議であった。
 しかし、会議開催の直前になって待ったがかかる。中・印国境紛争という厄介な国際問題が会議の前に立ちはだかったのである。
 中国、インド両国の強硬姿勢で事態は暗礁に乗り上げた。
 ここで日本がリーダーシップを発揮する。福田赳夫・元首相の指示で、佐藤隆代議士が電光石火、動く。この世界の平和に直結するアジアの人口問題を国会議員サイドから解決しようという日本の英知と情熱と行動力が事態を急転解決するという、大きなドラマがあった。
 「北京会議」は、1979年8月、スリランカのコロンボで開かれた「人口と開発に関する列国議員会議(IPOP)」で採択されたコロンボ宣言に基づいて、我が国の国際人口問題議員懇談会が、「人口と開発に関するアジア国会議員会議」を中国の北京で開こうと提案し、中国に正式に申し入れていた。
 ところが開催寸前になって中国政府が、国会議員20名で構成するインド代表団の1人に対して入国ビザの発給を拒否したのである。
 ことの発端は、インド代表団の1人に、中国と国境を接するインド東北部のアルナチャル・ブラデシュ州の州議長、T・L・ラジクマール氏の入国を拒否したのである。
 おさまらないのはインドで「政治と人口問題を混同したみえすいた内政干渉だ」と激しく反論、北京会議への参加をボイコットすると通告した。
 世界第2位の人口大国であるインドが参加しないアジア人口会議は事実上、無意味なものとなる。「北京会議は開催不可能か」――と新聞各紙は一斉に報じた。
 この局面を迎えて福田赳夫・国際人口問題議員懇談会会長(元首相)は、同懇談会の代表幹事であり日本の世話役である佐藤隆代議士に「最後の努力をしてみよう」と事態打開の指示をする。国会開会中だったが、佐藤代議士は10月14日夕刻、急きょ、北京へ飛んだ。同夜9時、北京に到着した同代議士は早速、中国外交部に黄華副首相兼外相と、同副首相夫人だった女史に面会を求め、ヒザ詰め談判ともいうべき交渉を行なった。
 「北京会議は中国1国だけの問題ではない。深刻なアジアの人口と開発問題を解決し、世界の平和と安定をめざすものである。国境紛争の存在は理解するが、それを超越して会議実現のために是非とも便宜を図っていただきたい――」。深夜に及ぶ佐藤隆代議士の誠意溢れる要請に、中国側はビザの別紙発給という便法を講じることで応じた。急転解決である。
 佐藤隆代議士が、黄華外相夫妻と旧知の間柄であったことも大いに幸いした。
 ラジクマール氏には他の19人のインド代表団とは別のビザを発給し、“中国内ではアルナチャル・プラデシュ州州議会議長の肩書きでは行動しない”という条件つきの入国許可だった。この譲歩にインドも歩み寄りをみせる。往復20時間、14日夕方日本を発ち、翌15日昼に帰国するという強行スケジュールだったが、佐藤隆代議士の舞台裏での活躍が見事に実った一幕だった。
 こうして「北京会議」はアジアの国会議員による人口と開発問題活躍の基礎を作る歴史的なターニング・ポイントとなったのである。
 そして、北京会議の実現によってAPDAもAFPPDも同時に発足する。
 
栄養失調でやせこけた母子、その子の異常に大きく見開かれた眼――

道で生まれ、道で死んでいく子どもたち。地球上にこんな悲惨があってよいものなのか。

人口問題を論ずるとき、その原点には必ず生命への慈しみがなければならない。

人間は一人ひとりが、愛と希望の大切な対象なのである。

人口問題の解決は、個々の人間の幸福に結びつくものでなくてはならないからだ。


元APDA理事長
元AFPPD議長
――佐藤隆氏の言葉から――







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