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生き方・自分流
老いのロマンが咲かせた100万本の“悲願花”
体の許す限り地域に奉仕を続けたい
 
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矢勝川(やかちがわ)の環境を守る会 会長
小栗 大造(おぐり だいぞう)さん(84歳)
ごんぎつねの舞台になった地には、新美南吉記念館も建っている
 
 愛知県半田市岩滑(やなべ)を流れる矢勝川の堤防では、毎年、秋の彼岸時季になると真紅の彼岸花が延々と咲き競う。距離にして約2キロ。花の数は優に100万本を超える。この日本有数の景勝地を造り出したのが、地元の小栗大造さん(84歳)だ。たった一人から作業を始め、10年がかりで夢を実現させたというその情熱と忍耐強さにはただただ脱帽するとともに、心豊かな晩年のあり方についても教えてもらったように思う。
(取材・文/城石 眞紀子)
 
 風薫る5月。訪れた矢勝川周辺では、思いがけず色鮮やかなポピーが咲き乱れていた。彼岸花の裏作として、春は菜の花にポピー、夏はハナスベリヒユ、秋はコスモスなども育てているのだという。都会のコンクリートジャングルに暮らす身には、何と心洗われる風景のことか。100万本の彼岸花の美しさはいばかりかと思いを馳せていると、花の中に、ボランティア仲間とともに黙々と草取りをする小栗さんの姿を見つけた。
 「彼岸花が咲くのはあそこの土手道沿い。お彼岸を告げる鐘の音が届くと、花火が上がるように、一夜、一斉に、象牙色した踊り子の長い脚のように立ち上がる。それを見るたびに、極楽浄土の世界に行ったような気分になるんですわ」
 真っ黒に日焼けした顔に笑みを浮かべてこう話す姿は、とても84歳とは思えぬかくしゃくぶり。雨の日を除いて、雪の散らつく寒い日も真夏の太陽の照りつける暑い日も、休むことなく毎日、この土手で花作りをして12年になる。
『ごんぎつね』の里ふたたび
 岩滑で生まれ育ち、花き園芸業を営む小栗さんが、矢勝川の堤防を彼岸花で埋め尽くそうと思い立ったのは、息子に代を譲り、仕事の第一線から退いた72歳のときのこと。
 「ここは、童話作家の新美南吉の出身地でもあるんだが、その代表作品『ごんぎつね』には“墓地には、ひがん花が、赤い布(きれ)のようにさきつづけていました”との一節がある。ところが時の移ろいとともに、南吉が描いた墓地もなくなり、各所に咲いていた彼岸花もめっきり少なくなってしまった。ならばせめて、作品の舞台となった矢勝川の土手をキャバスとして、物語の風景を蘇らせようと決めた。そういうことです」
 5歳年上の南吉とは小さい頃に一緒に矢勝川で泳いだこともあった幼なじみ。少年期から短歌をつくり、古希を過ぎてもこんなメルヘンチックな夢を見るあたりは、南吉に影響された面も多少あるのかもしれないが、咲き乱れる彼岸花こそが、小栗さんにとっての故郷の原風景。それを取り戻すことが、残された人生の宿題のように感じていた節もある。
 こうして各所、各地に育つ彼岸花を探し歩いて、球根集めを開始。実を結ばない彼岸花は球根で増やすしか方法がないからだ。だがこの頃の矢勝川の土手道は、人の通れない葦(よし)などの雑草が一面に生い茂る荒れ地。掘り集めた彼岸花を植え付けるには、まずこれらを取り除かなければならなかった。根の強い雑草の根元周りを鍬(くわ)で掘り起こし、その深い根を鋸(のこぎり)で切り取る作業だけで2年がかり。
 「たった一人のその姿を遠くから見れば、けものが一匹はっているように見えたろう」と当時を思い出して苦笑するが、気が遠くなるような時間である。しかも心臓病の持病を抱える上、19歳のときのギックリ腰からの持病で、医師からは「骨はボロボロ。もう間もなく車イスですよ」との宣告もある。その身を押しての土手通いが続いた。
 「家内は“土手で死んどったらあかんよ”と心配したが、そうなったら名誉の戦死だわと応えて、矢勝川に出かけとった。やめようと思ったこと? 一度もない。それどころかだんだんと夢が膨らんで、堤防2キロに彼岸花を百万本咲かせたいと思うようになってね」
 彼岸花は、まさに“悲願花”となったのである。
 
ゆるくカーブを描く川に沿って、真紅の帯が延々と続く







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