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9. がんターミナル期の親を看取る思春期の子どものニーズに関する研究
新潟青陵大学 看護学科・講師 柳原清子
 
はじめに(研究目的)
 親を病気で喪う子どもが、どのような心情で、何をニーズとしているか、を明らかにするのが、本研究の目的である。死別による家族員の悲嘆の研究、とりわけ子どもを対象としたものは、子どもにどう死を伝えるかが中心1)2)で、子どもがどのような体験の中にいるのかという研究は手つかずに近い状態であった。そんな中、1996年阪神大震災で、世論として遺児の「心のケア」の必要性が言われ3)4)、また社会問題となった「働き盛りの自殺」もあわせて、親を喪した子どもの体験世界を理解した上でのケアが注目されるようになってきた5)。一方病気、とりわけがんで親を喪う子どもへの援助は、臨床で関わる医療者にその必要性の認識は生れているものの、実際「何をどう接したらよいのかわからない」というとまどいがあるのが実情である6)。死別の悲嘆内容に影響を与える要素として、死別時の状況があげられる7)。言い換えるなら、子どもの悲嘆には、親の臨終間近の様子と、関わりの内容からの影響が大きいということである。その点で、ターミナル期の臨床現場における医療者の関わりは重要な意味をもつ。本研究では子どもへの援助を考えるための基礎資料として、看取り時のニーズを明らかにすることをこころみた。
 なお、ここでの子どもとは、小学校高学年から19歳までの、思春期の子どもとした。筆者は、親を病気で喪う子どもの心情には、幼児期から青年期まで、表現には違いはあるものの、共通性はあるだろうという仮説8)をもっているが、(1)言語をデータとするため、自分の心情を語りとして話せる年代に達していること、(2)年代的に思春期の死別は、その後の悲嘆に特有の影響を与えるであろう、との考えから思春期に焦点をあてた。また、「ニーズ」とは自然の心情や感慨からは一歩すすんだ「願い」に似た強い感情や考えのことを指す。一方「看取る」行為は、臨終場面でのことをさすのではなく、発病からの看病のことである。一般の病人の看病ではなく、死を看病するという要素がはいるため、看取り、という表現を本稿では使うことにした。
 
調査分析方法
 この研究は、子どもが語る言葉(心情)をそのまま大事にすることを重要に考え、質的帰納法的研究手法のグラウンデッドセオリーアプローチを用いた。具体的には、はたらき盛りの親(がんで死亡)を喪った思春期の子ども12名を対象とし、半構成用紙を用いてインタビューを行い、その語りの内容をデータとして記録した。データには、被調査者自身のみならず、被調査者の口から語られたきょうだいの心情や様子もデータとして加えた。この生データーを類似毎にまとめ、カテゴリー化をはかった。データの収集にあたっては、被調査者からの研究公表の了解は得た。
 調査期間は平成14年5月〜15年2月であったが、それ以前に行ったインタビューデータも、今回の分析には加えている。
 
結果
1. インタビュー調査を行った対象者の概要
 本研究の調査対象者は、死別時年齢小学5年生(11歳)から大学1年(19歳)までの計12名であり、男子3名、女子4名である。調査時年齢は高校2年生から大学院生であり、死別後、2年から9年が経過していた。調査対象者には、すべて兄弟姉妹〔以後、きょうだい、と記す。〕がおり、年齢の差は、1歳ちがいの年子から8歳ちがい姉まで、開きはあるが2〜4歳違いが大半であった。亡くなった人は父親9名、母親3名であり、親の死亡時の年齢は42歳から53歳の働き盛り年齢である。病名は、肺がん、肝臓がん、乳がん等の固形がんと、血液系のがんである。1名だけ難病が加わっている。これは予後不良性など、がんに共通する要素があり、子どもの心情に共通性があるため加えた。(表1
 
2. 親を看病する子どものニーズ
 子どもの語った内容を第1コード(生データ)から抽象化をはかり、カテゴリー化した。その結果、10のニーズが明らかとなった。(表2)
 子どものニーズは《親を苦しませないでほしい》《親の状況の本当のことが知りたい》《不安な自分をわかってほしい》《置き去りにしないで》《親の病気はふれられたくない》《ふつうになんでもなく過ごしたい》《親の役に立ちたい。頼りにされたい》《ごめんねと謝りたい》《(大人に)甘えたい》《家族が1つになりたい》の10であった。
 以下に、説明していく。
 《親を苦しませないでほしい》は、具体的には、精一杯医療をしてほしい、(医療者は)あきらめの言葉を言わないでほしい、安らかであってほしい、親を苦しませないでほしい、親のよろこぶことをしてほしい、というものである。親の身体的苦痛の姿を目のあたりにして、見ていられない、見るのがつらいと感じ、おもわず「父さん笑ってよ」と呼びかける姿がある。《親の状況の本当のことが知りたい》は、親の病状や予後について、医療者や大人から説明を受けたいというニーズであるが、底にはためらいの気持ちももっている。何かとんでもない事実だったらどうしよう、という怖れを抱いた中で、それでも「怖いけど本当のことが知りたい」ということなのである。また《不安な自分をわかってほしい》は、こうした親の状況への恐れや不安を感ずるからこそ、そのなかでゆらぎ、不安定になっている自分をわかってほしいというニーズである。「1日1日という感じで余裕がなくなっていった」と語り、見守っていてほしいとの願いを持っている。さらに強い願いが《置き去りにしないで》である。これは、死んでいく親に対する見捨てられ感と、ターミナル期でまわりが緊張状態になる中で、子どもは蚊帳の外に置かれることへの置き去りにしないで、である。具体的には「心がとまっていた。自分だけ置き去り。まわりが勝手に動いていた」と語っている。
 ここまでは、まわりからの関わりを求めるニーズであるが、一方で《親の病気はふれられたくない》というニーズがある。人から可哀想に、と思われたくない、親の病気のことは人に話したくない。口に出すと何かちがった感じになるから言いたくはない、自分にとって大事な問題だから軽くあつかわれたくない、という気持ちと、「話したら(友達は)暗い気持ちになって、退いていっちゃう気がした」というふうに、友だちへの気遣いからのニーズでもある。同時に《ふつうになんでもなく過ごしたい》と現実否認の要素も含めたニーズももっている。「自分だけが違っているのがいやだった」とか「ゲームばかりをしていた自分がいた。ゲームなんかたいした魅力はないのに、へんだなと思いつつ、ゲームし続けることにこだわった」というふうに、何でもないように暮らすことを希望し、同時に「(親の病気)忘れていたい」という願望をもっている。こうした、現実否認やまわりと少し疎遠でいたい思いの反対に、《親の役に立ちたい。頼りにされたい》というニーズも持っている。ベッドサイドで何もできなくて「何か世話をした」とつぶやいたり、困難性が大きくなる家族の中で「もっともっと自分に話してほしかった。頼りにしてほしかった」と感じている。また《ごめんねと謝りたい》というのは、死が近い親への謝罪の気持ちである。思春期に親に反発していたことが後悔となったニーズで「パパの存在避けていた。(父は死んでいく)私どうしたらいいんだろう」という思い、また親に無理をかけたことが、死を招くことになったのでは、という思いから「ごめんね」というつぶやきが出ていた。《(大人に)甘えたい》は、「そばにいたい。甘えたい」あるいは「甘える人がほしかった」というふうに、死が近い親への直接的な甘えと看病する親やまわりの大人への甘えの両方があった。《家族が1つになりたい》というニーズは、困難な状況だから、自分たち家族が1つになって対応する必要があるだろう、という責務にも似た気持ちを含ませている。







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