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6. 弱視の人の障害特性とその理解
 弱視の人といってもその障害の程度は十人十色であり、行動的には日常生活上なんら支障のない人、拡大鏡や拡大読書器を活用しないと墨字(普通文字)の読み書きが困難な人、色や物の識別はなんとか可能な人までさまざまです。また、天候や光線の状況、さらにはその日・その時の体調によっても見え方が異なります。したがって弱視の人の生活視覚を単なる視力や視野の係数だけで理解するのは無理があるので、直接本人にどのような見え方をしているのかを尋ね理解しておく必要があります。
 一般的に、弱視の人は視覚依存傾向が強く、視覚だけでは日常生活が営み難いような視力・視野であっても、その視覚情報だけに固執し、それで全てを判断しようとすることがしばしばあります。弱視の人の多くは、各々の視覚の限界を頭では解っていても、正しく理解することはなかなか困難です。教育やリハビリテーション訓練における基本的な指導は、視覚で行動したことについて触覚や他の感覚器官で確認させるなど、保有(残存)視覚を十分に活用させながら、その不足を他の感覚や補助具の活用によって補完して行く方法が各人の視覚障害の程度に応じてとられています。
 
 視覚障害のある高齢者のうち、高齢になる前から視覚障害である人と、高齢になってから視覚障害になった人とでは、生活上の不自由や困難及びそれらに対する受けとめ方や取り組みが異なります。前者の場合は、4.5.で述べたような特性が引き継がれると考えれば理解しやすいのですが、後者の場合は困難です。しかし、前者より後者の方が視覚損傷によるさまざまな不自由や困難・制限が増強されて表れるのが通例です。さらに視覚障害のある高齢者にとって、加齢による肢体や聴覚機能の低下は、重大な意味合いをもつことになります。例えば感覚機能の障害や低下が加わる場合は、情報収集や他人とのコミュニケーションに多大な制限をもたらすことになり、運動機能の障害や低下が加わる場合は移動や行動に多大な影響を与えることになります。正にこのような人は勿論、視覚障害のある高齢者は一種の重複障害のある人と考え、対応した方が望ましいとも言えます。
 一般に高齢者の特性として次のようなものが指摘されています5)が、視覚障害のある高齢者の場合は、その特性が強調されると考えるのが妥当です。
(1)生活環境が狭くなる
(2)情報の処理速度が遅くなる
(3)記銘力や学習能力が低下する
(4)行動範囲が狭くなる
(5)人間関係が狭くなる
 
 視覚障害と他の障害や重い疾病を伴う重複障害は、それぞれの障害を単純にプラスした障害と考えるのではなく、全く別の異なった障害を作り出していると考えるべきです。すなわち、1+1は2ではなく、3・4・5・・・に成りうることを十分認識しておかなければなりません。
 一般的に、直接的な介護の場面においては、視覚以外の身体機能の側面で行動上制限がない場合は、視覚障害による制限にポイントをおいた援助をし、行動上の制限がある場合には視覚障害以外の障害にポイントをおいた援助をするのが望ましいと考えるのが妥当です。
 視覚障害と知的障害が重複している場合、援助の基本的な考え方は各々の障害の特徴を理解した上で、方針を立てていく必要があります。知的障害を伴う視覚障害のある人に多くみられる一般的な特性としては、固執的で神経質な傾向、自発的な行動が乏しい、依頼心が強い、環境認知が弱い、表情が乏しいなどがあります。これらの特性は、対人関係における行動や意志表現に関する自信のなさが積み重なり、結果として固有のパーソナリティを形成させてしまうからです。これらの問題を解消するためには、基本的には各々の発達段階を見直し、必要に応じてスキンシップの段階から再度取り組む必要があります。身近な存在の人との対応を通じて対人関係を深め、少しでも自己の行動に自信がもてるよう援助していくことが肝要です。また、しばしば空間的な概念形成や理解が困難なことがありますが、それは模倣を知的な理解で解決するのができ難いからに他なりません。
 一般的に視覚障害と知的障害が重複して障害のある人及びその家族、特に保護者の全般的ニーズとしては、医学的診断・治療、早期教育、家族への支持・援助、地域生活のための援助、生活指導、生涯の生活保障などが挙げられています。
 視覚障害を伴う精神障害のある人の場合は、単に叱咤激励するのではなく、専門医との連携を図りながら安定した状態を保持することが重要です。また、糖尿病の合併症としての肢体不自由(エソによる切断)や内部障害(腎症による人工透析)、さらには脳血管障害による皮質盲など挙げればきりがありませんが、視覚障害以前に配慮すべき事柄(糖尿病や血圧の管理など)があり、医療や理学療法の過程を優先しなければならないことが多くあります。
 
 視覚障害幼児期のパーソナリティについては、「依存性のみが視覚障害のない幼児に比して劣るだけで、その他は差が認められていない」6)と言われています。これは視覚障害による移動・歩行、コミュニケーション、日常生活諸動作などの制限が原因となって依頼心が強化され、依存性を増強させてしまうのです。一方、家族特に保護者の障害に対する過大視は、その児童に障害を否定的な態度でとらえるような影響を与え、本人の障害克服を低下させてしまうことがあります。したがって、これらの問題を解決するために、できるだけ早期の段階から視覚障害のある乳幼児に対する直接的な指導と並行して、その保護者に対する適切なカウンセリングや指導を通じて視覚障害に関する正しい理解と態度を学ばせ、スムーズな障害克服が図られることが必要です。
 視覚障害を伴う重複障害のある児童を抱える家族にとって、経済的負担に加え、介護上の心身の負担は非常に過重です。心身障害のある人の家族に対する調査7)によれば、近隣住民に対する要望として、子供や家族を特別の目で見ないで欲しい、子供と友達になって欲しい、子供のことについて話し合える人が欲しい、子供が迷惑をかけた時寛大でいて欲しい、外出時に子供の世話をしてくれる人が欲しいなどが挙げられています。
 一方、視覚障害のある成人の心理、特に中途で視覚障害になった人の場合は劇的とも言える特徴を呈するものです。障害受容の過程における個人の内的変化は、一般的に次のようなプロセスを経過すると考えられています。特に、急速に全盲に近い視覚障害になった人の場合は、以下のような過程を経るのが一般的です。
 第1段階:障害受傷のショックが激しく、自分になにが起きたか理解し難い時期であり、感情的には「嘘!」という気持ちを強く表出します。しかし、家族の動揺はしばしば本人より激しいことがあります。
 第2段階:回復への期待から障害を否認しようとするのですが、「ひょっとしたら?・・・」という気持ちが強まる時期です。
 第3段階:一時的には開き直ったように見えますが、実際には周囲の者への攻撃的な態度や抑欝、自殺願望などが見受けられ、「もうどうでもいい!」といった感情を表出する時期です。
 第4段階:良い意味での開き直りが多少感じられるようになり、どうせ直らないのであれば努力してみようかと考え、「なんとかなるのかなあ?」といった感情を表出するようになります。
 第5段階:障害の克服とその努力が自分に与えられた使命のように考え、「どうにかなるだろう」といった感情を持ち、生きがいを求めるようになります。
 これら各々の過程における心理的表出は個人差が激しいのですが、障害受容はカウンセリングやケースワークあるいは直接的な訓練・指導だけで成し遂げられるものでは決してありません。両者が車の両輪のように作用して総合的・統合的に一定期間指導が提供されることによってこそ、順調な障害受容がなされ自己実現が可能となるのです。
 順調な障害受容を図ろうとする際、劇的に中途で視覚障害になった人の場合、どうしても障害の告知を避けて通ることはできません。この「告知」の意味は、「今からあなたの人生が始まるのだ」ということが秘められているのです。すなわち「障害の告知」は障害のある人としての新たな人生の出発点を意味しているのであり、決して人生の終焉を意味しているのではありません。
 中途で視覚障害になった人は、「治療経過がはかばかしくないため、あちこちの病院を転々とし、その間病状も好転せず、最終的には自分自身で失明したことを悟った」という体験をしている人も少なくありません。病院ではっきりと失明が告げられることもなく、むだな時間を費やしてしまった者も少なくありません。それは障害受傷後の指導をどのようにしたらよいかわからず、また本人の立場を情緒的・感情的にのみ考え過ぎ、視覚障害を正しく告げることができないからです。しかし、中途で視覚障害になった人にとっては、むだな時間を費やしてしまったという気持ちだけが残り、「どうせ見えなくなるのなら、もっと早くはっきり伝えて欲しかった。そうすればむだな時間を過ごさなくてもよかったのに・・・」と訴える者も多くいます。
 眼科医をはじめ医療関係者、及び医療ソーシャルワーカー(MSW:Medical Social Worker)あるいは視覚障害福祉関係施設のケースワー力ーやカウンセラー等がチームを組んで、本人とその家族に対して障害の告知をすべきです。この際、障害のある人となった人間の可能性と主体性を信じることができない限り正しい告知はできないのです。また、告知なしにリハビリテーション訓練やその他の指導を開始しても、望ましい効果が期待できないだけでなく時間と労力の浪費になってしまうのです。だからといって、むやみに障害の告知をすればよいというのではありません。障害原因・経過・予後、障害の程度、家族の状況等を十分考慮し、タイミングを計って実施しなければなりません。
 障害の告知を受け次の段階へとスムーズに移行したとしても「本当に視覚障害のある人としてこれからやって行けるのか?」「家族あるいは障害のない人達と社会生活を営んで行けるのか?」などという漠然とした不安を持つことが多くあります。また、急激な変化に順応しきれず、「視覚障害になる以前の自分と、今の自分とは同じ人間ではないと思いこむ」ことによって自己を維持しようとしたり、身体的な価値が重んじられる場面では蔑まされ、精神的な価値が重んじられる場面では尊ばれると、「一体どちらが本当の自分なのかがわからなくなる」ことさえあります。前者を「社会的不安」といい、後者を「自己不確実」と言います。これらの不安も自己が再組織化されなければ減少させることはできないのです。
 
 障害の告知は全ての視覚障害のある人に必須とは一概に言えません。例えば、完全失明していない中途障害の弱視の人に対しては、障害の告知をあえて焦る必要はありません。一般的に弱視の人は、保有視覚がいつ、どの程度まで低下するのだろうかという身体的不安を強く持っています。特に、糖尿病性網膜症や網膜色素変性症などの眼疾患の人達は、一種恐怖感に似た強い身体的不安を持つことがあります。そのため、障害を受容したくない気持ちが全盲の人より強いものです。したがって中途障害弱視の人に対しては、現段階で不自由な部分だけの解決方法を視覚障害専門職員から指導される事によって障害に適応していく者も少なくありません。
 
 老年期には希望や欲求が満たされにくくなるため、高齢者はしばしば慢性的な欲求不満状態に陥りやすく、日常の生活場面での不適応行動が表れやすくなります。また、老年期には役割を見失うなど役割の変化が起こるため、深刻な役割喪失感を体験することが多々あります。視覚障害のある高齢者は、言わば重複障害のある人と考えられ、心理的様相も非常に複雑多岐にわたるものです。
 自己中心性が顕著となり、独断的で自分本位の考え方が培われる傾向があります。目が見えないための環境支配や歩行能力の制限なども原因となって依頼心が強くなり、「してくれるべきだ、してくれるのが当然だ」と依存心が強くなる傾向があります。客観的に物を見ることのできないことからくる不安や、行動が制限されているための身体的危険への不安が原因となり、しばしば恐怖心を抱くことがあります。新しいことへの順応が悪い一方、一旦順応すると固執的傾向が強くなります。また、行動を嫌い、座る生活やじっとしている生活が多くなり運動不足になりがちです。







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