日本財団 図書館


●パネルディスカッション 「マンガを活かす総合的学習」
牧野圭一(京都精華大学教授)
河合克敏(マンガ家)
佐々木宏子(鳴門教育大学幼年発達支援講座教授)
山本準(鳴門教育大学社会系教育講座助教授)
谷川彰英(筑波大学教授)コーディネーター
 
子供の内面を映し出すもの
○谷川 きょうは牧野先生も私もかなり長くしゃべったので、佐々木宏子先生と山本準先生にある程度時間をとっていただいて、ご専門の立場からマンガ、アニメーションというものが教育的にどういう意味を持っているかというようなことについて、お話いただければと思います。
 最初に、絵本の研究で権威と言われる佐々木先生から、お話いただきたいと思います。
○佐々木 ご紹介いただきました佐々木宏子でございます。専門としては子どもの文化ということで、特に絵本を中心にしておりますけれども、それでもやはり子どもの文化といいますと、アニメーション、紙芝居、コンピューターゲームなどが環境としては大きい影響を与えています。ある意味では、公教育である学校教育以上にそういう児童文化財は大きな力を持ってるのではないかと思っています。ですから、私の研究室では、内外のアニメを400本近く集めています。カナダ、旧ソビエト、チェコ、イタリア、中国、ベルギー、イギリス、もちろん日本のものも集めております。
 それらを集めたのは、大きく分けて三つぐらいの観点から、こういうものを大学もしくは大学院の教育で使えるのではないかという考えからです。一つは、幼年発達ということで、乳幼児期から小学校半ばぐらいまでの子どもたちとって、文化財としての、環境としてのアニメーションは非常に大きな力を持っているということで、教師になる者はこれを見ておかなくてはいけないだろうと。見ながら、その意味をお互いにディスカッションしようということで集め始めました。
 マンガも修論、卒論に出ますので、当然必要な文献としてあります。コンピューターゲームの「ファイナルファンタジー」をやってみたり、あるいは「クレヨンしんちゃん」を全員で見たこともございます。日本の古いものでは、動きがまだ機械仕掛けみたいな昭和初期のものもございます。絵本はもちろんたくさん集めておりまして、絵本データベースというのを作っておりまして、4月からインターネットで発信するつもりです。
 先ほどのお話を伺って、谷川先生が筑波大学でマンガを使って授業をなさっているのと、私が絵本を使ってやっている授業展開がすごく似ていて驚きました。絵本のデータベースを作ることによって、絵本を280の主題で分析し、子どもたちの発達過程の中で発達の節目、質的転換が何であるか、子どもたちの内面の変化、どういうところで自分というものに気づき、自分の発達を読み込み、自分というものを確認していくかというのを研究しています。
 それに対してアニメーションはどうなのか、マンガはどうなのか。一つは、アニメーションは環境としての非常に大きな要因を持っているということです。それを見ながら、子どもの心とか、時代の流れとかを見ていくわけです。例えば、子どもの文化を歴史的な流れで見てみますと、太平洋戦争のころに海軍が宣伝用に作った「海の神兵」は古典の名作と言われていますけども、そんなふうなものを見ながら、アニメやマンガが時代の中でどう使われていくのかということが、非常に大きな実感として読み取っていけるんですね。そういうふうに子どもの文化の歴史の中でどう意味づけていくかということを知る上で、かなり大きい意味合いを持っております。
 もう一つ、私がアニメーションにひかれる一番の理由は、絵本とのメタファーの違いです。絵本は画像が動きませんので、何かを何かに喩えるのは言葉の上でやります。私は、子どもの内面世界がどのように描かれているかという絵本を中心に集めているわけですが、そのなかに有名なモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』があります。これはアニメーションにもなっております。主人公のマックスが部屋の中で怪獣ごっこをやるときに、例えば、ドアのへりを木に見立て、天井をさまざまなグリーンで覆い、じゅうたんのグリーンをブッシュに見立て、あるいは自分のベッドを船に見立て、ひもにシーツをかけて王様のロイヤルテントに見立てるといったことが、子どもの”ごっこ”の内面世界として非常に鮮やかに描いてあるわけです。
 学生にとっては、外からは見えない子どもの内面の心理をどうつかむかということを実感としてわかることが、子どもを理解する上で大切なわけです。しかし、私がこの絵本を解説して、子どもたちは物理的な現実世界とは全く別の空想の世界を持っていて、むしろそちらの方が子どもにとってはリアリティのある世界なんだと言っても、理解するのはなかなか難しいんですね。
 ところが、アニメーションは自由自在に展開できますから、『かいじゅうたちのいるところ』で、ベッドがきれいに溶けるようにすうっと船に変わっていく場面、あるいは柱から枝が伸びていって樹木に変わっていく様子などが、非常によくわかるんです。そうしますと、そういうふうにして子どもたちは空想の世界へ入っていって、むしろそちらの方がリアリティのあるものなんだということがわかるわけです。それが、非常にきれいに納得できる形でアニメーションとして展開しているものを見ると、学生たちは、子どもの内面世界について本当によく理解してくれます。アニメーションとか絵本とかマンガは、内容も大事でしょうけれど、いかにそれぞれの形式に独自の方法において展開されているのかということが、とても重要なような気がするわけです。
 しかも、ほとんどの学生は自分の子ども時代にどう考えていたかということをよく覚えてないものですが、そういうものを繰り返し系統立てて見せてディスカッションなどをしていきますと、徐々にフラッシュバックが起こって、自分の子ども時代がどんどんよみがえっていくわけです。そのよみがえりが、やはり子ども理解につながっていく。
 教育する人は、教科で教育する以前に、教育する対象である子どもたちと心を通じ合うこと、心が理屈でわかるのではなくて感性の次元でわかることによって信頼関係ができあがり、その上に教育が具体的に展開していくのだろうと思います。そのためには、マンガも読んでほしいし、子どもの心を描いているすぐれたアニメーションもたくさん見てほしいし、紙芝居も見てほしいし、絵本も見てほしい。まず自分の中の子どもを呼び起こし活性化させることによって、目の前の子どもときちっとわかり合えるようにするためには、アニメーションやマンガは大きな役割を果たすと思います。
 そして、学生たちがそういうことをしていきますと、もう一つとても有利なことは、自分の中に発達を読む力が生まれてくるのです。その発達というのは、発達の理論から学ぶものではなくて、自分がどういうときに自分らしさを獲得したのか、あのときの挫折はどういうことであったのか、あるいは今から振り返ってみればあそこに自分の大きな転回点があったな、ということをきちっと読み取ってほしいのです。私はそれを、自分の中に発達を読むと言っているんですが、そういうふうにして発達を読むことが自由にでき始めたときに、本当の意味での自分、自我、自己形成というものができるのだと思います。
 そういう点では、たくさんのテキストがありますけれども、むしろ具体的なシチュエーションのもとに具体的な感性を通して子どもを伝えていく、マンガ、そして特にアニメーションは非常に大きな役割を果たしています。これから教職につくであろう、あるいは現職の先生方にとっても、自分たちが子どものころとは違う環境にいる今の子どもを理解していただく上で、かなり大きい役割を果たすと思います。
○谷川 ありがとうございました。非常にラフな言い方ですけれども、例えば、あちら側に絵本があったとすると、真ん中にマンガがあって、こちら側にアニメーションがあるというふうに並べて考えてもいいですか。
○佐々木 はい。
○谷川 今から5年ぐらい前、文化庁がメディア芸術祭というのを始めたんですが、そのなかにアニメーション部門とマンガ部門があって、最初の2年間、僕はマンガの方の審査員をやったんです。そのときすごくショックだったのは、入賞した人たちの作品を展示していると、マンガは置いてあるだけなのでだれも見ないんですが、画面にアニメーションが流れているとみんなそっちへ行っちゃうんですよ。それで、メディアとしてアニメーションは強いなという印象を強く持ったんです。
 今、先生が形式とおっしゃったのは、そんな意味でしょうか。絵本とアニメーションとマンガのどこに一番興味をお持ちなんですか。
○佐々木 絵本の場合は、絵とテキストです。テキストのないものもありますね。絵で描くということは、当然、絵で描く対象とか内容に一つの形を要求してくるものがございますね。アニメーションだとそこに音がつくし動きがつく。そうするとその形式が、おのずから描く対象や内容を決めてくるだろうというような意味合いで使ってみたんです。
○谷川 子どもの内面の心理を描き出すには、やっぱり絵本が一番いいんですか。
○佐々木 必ずしもそうは言えないと思います。ただ、私は絵本に関しては、そのリテラシーがどういう構造になっているのか、自分なりにかなり研究してきたつもりなんですけれど、アニメーションについてはどういう形式がこういうものを可能にするのか、さらに詰めていきたいです。
○谷川 その続きは後でお伺いしたいと思います。
 山本先生は社会学ということで、私のやっている教育学とは全然違う発想で話をしてくださるだろうと思いますが、まず先生のマンガ、アニメに関する思いというのは何かを語っていただきたいと思います。
 
マンガの読み取り能力
○山本 まず私ごとで申しわけないですが、私はほとんどマンガを読んだことがないんです。私には三つ上の兄がいまして、子どものころ母親によく、マンガばっかり読んで、勉強しなさいと怒られていました。そうすると兄は隠れて読むようになったんですが、それでも見つかってよく怒られていました。それを見ていたので、私は読まなくなったのでしょうか。私の母親世代には、マンガというのは低俗なものだ、暇つぶしで余興のもんだ、小さい子どもが読むもので、いずれはちゃんと活字になった本を読むべきだ、という感覚があるかもしれません。そういういわば偏見を持って見る目は、まだ社会の中にかなりあると思います。私の中にも多少あるかもしれません。でも、徐々に時代は変わってきたかなという感じはしています。「千と千尋の神隠し」がゴールデンベア賞をもらったように、世界的に高く評価、認知されてきてるわけです。
 ただし、社会的に見ますと、2000年度の出版部数の約4割はコミックなので、マンガ、コミックがなければ出版業界は成り立たないような現状になっているわけです。さらに、マンガ研究会はほとんど全国の大学にあるようで、それだけ広く若い世代に浸透しているわけですね。そうすると、マンガが低俗で活字が高尚だという価値観ではもう済まないのじゃないか、もっとマンガやアニメを教育の世界でも有効に使っていく必要があるんじゃないかという気はします。特にマンガ、アニメーションは、引きつける力を強く持っていますし、感性や発想を豊かにさせるような作用があると思います。こういうものを教育に使わない手はないんじゃないかと思っています。
 ただ、教育に使う場合にどういうことが起こるのか。牧野先生のお話の中に、ペンギンが携帯電話をかけるというのがありました。谷川先生のお話では、栗之助という犬が立って歩いている。これを、ペンギンが携帯電話をかけるはずがない、犬が立って歩くなんてと思ってしまえば、もうそこから先の発展はないんです。ということは、教える側にもマンガを読みこなす力、マンガリテラシーとでもいうような力があってこそ、はじめてマンガやアニメーションを教育に生かせるのではないかという気がしました。だから、これからは教員もどんどんマンガを読んでいかなければならないと、強く思った次第です。
○谷川 どうもありがとうございました。
 河合先生は、代表作が「帯をギュッとね!」という作品で、高校の柔道部を舞台にした話です。それから「モンキーターン」が、競艇の話ですね。モンキーターンというのは何なのか、知らない方もいらっしゃると思いますが。
○河合 競艇のターンの時のテクニックです。荷重をかけて回るものらしいですが、競艇のボートは試しに一回乗らせてもらっただけなので、説明できないんですけれど。タイトルに使った理由は、それが最近できたテクニックで若い人がよく使うというので、主人公の得意わざにさせようと思ったのと、競艇を知らない人には全く耳なれない言葉なので、タイトルを聞いて何だろうと読者が興味を持ってくれるんじゃないかなということがありました。
○谷川 先生は、先ほど聞いたら、どちらかというとマイナーなスポーツに力を入れているそうですが、例えばモンキーターンも自分ではできないけれども、観察していると描けるものなんですか。
○河合 今はビデオっていう便利な道具があって、こま送りで見られますから。取材にも行きますけどね。ただ、選手のヘルメットにCCDカメラでもつけたような映像があればいいんですけど、そういうのはないので、それは想像になりますね。
○谷川 先生がマンガ家になろうと思った動機などを教えてもらえませんか。
○河合 僕は山本先生のお兄さんのような子どもだったんです。4人兄弟の末っ子だったので、5歳年上の兄、3歳年上の姉、2歳年上の次兄が毎週違う種類のマンガを買ってきてくれて、一番下の僕はずっとそれを読んでました。物心ついたときからマンガが当たり前にあるような環境でいたので。それでまねして小さいうちから絵を描いていると、周りの人がうまいってほめてくれるので、小学校の高学年ぐらいのころにはもう自分はマンガ家になるもんだと思っていました。
○谷川 でも、マンガ家でも食えるか食えないかっていうのがあるらしいじゃないですか。決断するのは結構厳しいところありますよね。
○河合 高校3年生ぐらいになったときにもっと現実的に考えてみて、リスクは大きいかもしれないけどもチャレンジしなかったら後悔するだろうというような感じでした。それで、高校3年生のときにもう出版社に投稿とかしました。すぐにはものにならなかったので、デビューは23でした。2年ほど師匠の先生について、アシスタントをやってました。
谷川 私は講演でお話したとおり、矢口高雄さんと出会ってマンガの世界に入ってきたんですが、先生も「釣りキチ三平」はすごく好きだったということですね。
○河合 「釣りキチ三平」が始まったのは僕が小学校3年生ぐらいのころだと思います。そのころまだ釣りはあんまりやってなかったけど、仲間うちで回し読みしたりして釣りブームがあったんですが、たぶん当時は日本全国同時多発的にそれがあったはずなんですね。それで「釣りキチ三平」は大ヒット作になったんですけど、やっぱり子どもの生活とくっついていますよね。すぐ影響されて、マンガを読んでいるだけじゃなくて、釣りに興味を持って、実際に川で釣りをしたりということで、おもしろかった、楽しかったという印象に残っている作品です。
○谷川 3年前に出した『趣味を生かした総合的学習』(協同出版)という、いろいろな実践をまとめた本の中で、マンガや釣りやSLなどを取り上げて、趣味というと低俗のように見えるんですけれども、子どもたちが本当に好きなものを見つけてそれにのめり込んでいくこと自体が学習なんじゃないかという提案をしました。釣りをやっていると、翌年同じところに行っても川の形が違っていたり、水の色が違っていたりという環境の変化に敏感になるようなんですね。そういう自然の中での学習が行われるようなものが、即趣味に合うんじゃないかという感じを持っています。
 牧野先生、何かありますか。
○牧野 矢口さんの釣りのマンガで私が一番注目したところは、雑草の描き方です。あれは実際、釣りをしながらじっくり足元を観察した人でないと描けません。マンガ家の中でも、矢口さんほど雑草を見事に描き分けている人はいません。だから「夏草や兵どもが夢の跡」の夏草も、ほかの人だったら図鑑で済ませるところを、彼は、どうしても現場を見に行きたかったのでしょう。
 もう一点、佐々木先生の≪子どもの心理に関するお話≫ですが、私どもカーツーンの手法でどう描くかというと、例えばお母さんとお父さんが、間にいる小さな子どもの左手と右手をそれぞれ持って歩いている。(ブランコ状態)背の高い大人の目線で、2人が向こうを見たり、話しをしていると、間の子どもはぶら下がりながら≪様々に変身≫宇宙人になったり、幾何図形になったり、極端な変化(マンガ作品の中の更なるデフォルメ)をするんです。お父さんとお母さんがふっと子どもの方を見ると、その瞬間だけ、もとの子どもに戻っている。マンガはこの繰り返しで構成。―――つまり作者は“大人にはその変化が見えていない”ことを描いているわけですね。マンガで描くことはほとんどタブーがない。(人間が抽象図形にまで変化)そのかわり、その作者にしか見えないものが描き込んであるんです。
○佐々木 私にも経験がありますが、両親の間で手を引かれて歩いている子どもが突然ぶら下がったりすると、大人はすごく驚くわけですが、本人はとっくにどこかの世界に行ってるわけですね。そういう内側の世界で子どもがどう変わっていくかという流れは、アニメーションだと意外にきれいに場面転換ができるんですが、一こまや数こまのマンガの世界で描くのは難しくないのかなという気がします。
○牧野 いえ、それは読み取り能力の問題です。大人が知らないところで子どもは思いがけない形の宇宙人に変身しているということを描いているわけですが、それを描いているマンガ家は大人の目でその変化を見ているわけですから、私の考えでは“入れ子状態”で、視点がどんどん外から包み込む形で推移。『あなたは知らないだろうが、私はこんなに子どもの心を読み取っているぞ!』と、作者は言おうとしているのではないか?私はそう考えるわけです。単純に見える作品の中に、たっぷりと批評精神が盛り込まれている。
○佐々木 大人には、解説されると、ああ、そうだったの、というふうな読み取りをする人が多いのではないのかと思います。それがどんどん読む力が長けていきますと、かなりうまく読み取れますし、そのへんのある種の希望みたいなものは、マンガにおける作者の一つのルールだろうと思うんです。もちろん共通のものもあると思います。例えば、バットを振り回している場面だとパッパッパッと10本ぐらい見えたり、跳び箱を跳ぶ場合は1人の子どもが五つぐらい描いてある。小さいころは子どもが5人いるというふうな読み取りをするのが、いつの間にかそれは1人の人間が動いているんだという読み取りをしますね。それはどういう力によって読み取られていくのだろうか。何がきっかけで、そういうマンガ特有の記号を読み解いていくのかということをいつも感じるんですが。
○牧野 マンガの特徴的なもので、「すだれ」というんですけど、顔の前に縦線が入るのがあります。あれをどんなときに使われますか?河合さん?
○河合 まあ、気分が暗くなっているとか、冷や汗かいているときとかですね。
○牧野 あれはだれがいつから始めたのか、実はわからないんですよ。
○河合 田川水泡さんはやっていませんから、たぶん手塚先生かな。
○牧野 だれかが先に描くと、これは青ざめているんだ、血の気がすうっと引いた感覚なんだということが、説明しなくてもわかる。そうするとそれを感じたほかの作家が、これはいけるっていうので使うわけです。そのうちに共通語になって、定着する。
○河合 というか、記号だと思うんですね。記号化すると、その法則性をいったん覚えてしまえば結構万人に受け入れられてしまうものです。特に少ないショットで見せていくマンガでは、記号化をより進めていかなくてはいけないと思います。







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