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金毘羅さんに残る知られざる文化
藍川由美氏
藍川
私は宇多津町に生まれて、18歳までこちらにおりまして、それから大学に行って、もう東京のほうが長くなってしまいました。
去年父が亡くなり母が一人暮らしになったので、私はこの1年間、月の半分ぐらいはこっちで暮らそうというので戻ってくるようになりました。私のホームページでも「故郷発見」というのをやっているんですが、本当に香川県のことを私は何も知らなかったという思いを、帰ってくるたびに強くしております。
この会場にいる皆様の多くは金毘羅さんに行ったことがあると思います。しかし、金毘羅さんで円山応挙の障壁画をご覧になった方は、少ないのではないでしょうか。私も実は全く知らなかったんです。
先日、久しぶりに金毘羅さんに行くことになりまして、いろいろと資料を調べましたら、なんと円山応挙の障壁画90点があるというのです。表書院という所にあるのですが、350年前の建物で、建物自体がとってもすばらしい。金毘羅さんが信仰の場としてだけではなくて、あの時代に芸術家をスポンサードする役目を持ち、画家を長く滞在させて、障壁画を描かせていたことに、すごく驚いたんです。
そういった文化を全く知らないできたことも恐ろしかったです。瀬戸大橋を人が通ってくれない、来てくれないといっていますが、地元に育った私ですらそういったことを知らないわけですから。あまりにもふるさとを見ないできてしまったなという思いがとても強くて、今は本当に残念な気持ちで毎日を過ごしているのです。
金毘羅犬の話も全く知らなかったんです。今、私はお江戸日本橋に住んでいますが、江戸時代には、関東一円で代参犬というのが流行っていたそうです。金毘羅さんに行きたいけれど、とても遠くて行けないという人たちが、犬の首に初穂料と道中の犬の食事代を入れた袋を縛りつけて旅人に託していたというのです。たとえば日本橋から旅立つ人に、「このイヌを金毘羅さんまで連れて行ってください」と頼み、その犬が旅人から旅人へと託されて讃岐の金毘羅さんに参拝する。そういう話も初めてこの6月に知りました。
今はそういったことはできませんね。お金を途中で取られてしまうのではないかとか、車に礫かれてしまうのではないかとか。犬は、そうやって送り出してもちゃんと帰ってきたそうです。江戸時代というのは本当にそういった平和な時代だったのかと驚きました。そうすると、もう一回そんな時代にならないのかなと思ったり、それにはどうしたらいいのかなと、と考える日々です。
私が子供のころは、北浦という漁港の所でおばさんにサバの頭をもらって、そのサバの頭にテグスをくくりつけて岩の間から垂らしておくと、いくらでもワタリガニが釣れたんですね。それをバケツー杯持って帰って、お母さんにゆでてもらったり、お味噌汁にしたりして食べるんです。「ちょっときょうはアサリが食べたいわね」と言えば、遠浅の海に入ってサッとすくえば、すぐいっぱい獲れるような時代だったんです。
でも、最近は親も岩場に行ってそんなことをするのは危ないと言うそうです。すごく時代が変わってきて、それをまた元に戻すこともできない。瀬戸大橋も、邪魔だといわれても取り払うことはできない。これをどうしたらいいのかなということを私なりに考えたんですが、それはまた後の話とさせていただきます。
故郷の町だけで満足できる生活
片山圭之氏
片山
私はずっと丸亀に生まれて丸亀に育って、学生時代は神戸のほうへ行っていましたけれども、あとはまた帰ってきて、丸亀ばかりで嫌になるほどですけれど(笑)一生懸命やっています。
藍川さんが、金毘羅さんの魅力を改めて見出したとおっしゃいましたが、帰ってきた人はそういう見方があるのかなと思いました。我々はずっとこちらにいて、よく行きますから、日常になってしまっていて、あまりハッとしなくなっているのは気をつけないといけないなと感じました。
私は、日本海も太平洋も大学へ入ってから初めて行きました。小学校から高校まで、どこにも行かずにこのあたりばかりで、よく退屈せずにいられたなと思いますね。
逆に言うと、このへんだけの生活で魅力があったのかなと思います。今は交通がずいぶん便利になっていますが、車に乗ってどんどん行ければそれが幸せかというのは、ちょっと考えるべき視点があると思いますね。狭いエリアでも、結構心豊かに過ごしたのが我々の少年時代だったような気がします。
私は、まさに海のそばで生まれ育ったんです。ですから、とにかく夏、6月ぐらいから海へ飛び込んで、8月まで毎日毎日泳ぎ回っていました。8月の終わりぐらいになるとクラゲが出てくるので、自己防衛で、「クラゲが出るようになったらやめておこう」となります。また、お盆が終わったころに泳いでいたら、幽霊だか仏さんの化身だか出てきて海の底へ引っ張り込まれるぞなんていうことも先輩から言い伝えられていまして、そういうなかで実際に亡くなった子もいますが、その当時これは自業自得だと言っていました。
今の世の中だったら、「誰が誘った、連れて行った」「引率責任は誰にある」ということで大騒動になるでしょうから、学校の先生が子供たちに冒険心やチャレンジ精神を全然教育できないと思います。
それなりに自己防衛本能があって、意外にけがもしないし事故もしないものだというのを、我々は身をもって体験しました。
子供フォーラムでは「銀河」というすばらしいクルージング船に乗って周ったそうですが、私のときは伝馬船か焼玉エンジンの船に乗せてもらって、本島、広島、それから手島、小手島まで足を伸ばして、学校の友達と一緒に泊まり込みで行ったこともあります。そのころは島にも人口が多かったように思います。仕事の場があったんですかね。島に着けば島の大人が何かと世話してくださるんですよ。宿泊所でごろ寝して、朝起きたらまた1日泳いで、島で採れる野菜や果物がおいしかったという思いがありますね。遠い所では粟島まで足を伸ばしたことを覚えています。
中学生ぐらいになると体力がつきますから、伝馬船をこいで本島のあたりまで行った記憶がありますが、これは家に帰って怒られましたね。「無茶はするな。流されたらどうするんだ」と。ちょうど私が中学校の1年生ぐらいのときに紫雲丸事件がありまして、百何十人もの子供たちが死んだんです。それが契機になって、瀬戸大橋をつくろうという運動になったんですけれどね。
本当に藍川さんがおっしゃいましたように、近くの海で何でも釣れたんですよ。チヌやタイやハゼなどいくらでも。いろいろな魚を獲って、持って帰ったら家で料理をしてくれた。そういうようなものを食べさせていただいたのが、栄養としてはよかったのかなと思いますね。このごろの即席の食べ物や、コーラを飲んでハンバーガーというのは、栄養バランスがあまり良くない。自然のなかにあるものをそのまま食べると、そのまま栄養になっていたという感じですね。ひもじいなかで、痩せたものばかりですが、そのぐらいで鍛えられると意外に何でも対応できる力といったようなものがつくのかなと、改めて考えます。海の効果というのは、そんなところにもあるのではないかなと思います。
明石
丸亀で生まれて丸亀で育って、丸亀の市長になって、たぶん丸亀でお亡くなりになるんでしょうけれど(笑)、実はこれはこの地域が幸福だということなんだと思います。貧しい地域というのは出稼ぎに行かなければいけませんから。この土地で生まれてこの土地で命を終えるというのは、本当に人間として幸福なことなのだろうと思います。
それでは、日下先生に瀬戸内海についての思い出をお話しいただきます。日下先生は子供時代にお父さんの転勤で高松に5年間いらっしゃったそうです。
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