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心をつなぐ輪
 多くの国でハンセン病を体験した人々の生活は未だに厳しいものですが、善意の人が患者や回復者を支援したり、回復者自身が回復者を支援したりと、小さいながらも暖かい輪が広がりつつあります。
 
 
 ナイン モー(左)とナン ユ アウン ウィン(中央)は結婚費用にと貯めておいた貯金の一部を、マヨンヂャン定着村のハンセン病回復者の子弟の奨学金として寄付しました。著名なジャーナリストであるチッ サン ワン(右)が定期的に発表するハンセン病の問題についてのエッセイを読んで共感した人々は奨学金や、定着村の生活支援や施設の改善のためにボランティア活動をしています(ミャンマー)
 
 
 レストランのオーナーであるイン イン アイェ(右中央)は、レストランの売上の3%をナンダミェン定着村の児童の奨学金や、生活向上支援に充てています(ミャンマー)
 
 
 廖志剛(左)は広東省の新洲定着村で代用教員として、教鞭をとっていた林志明の教え子です。強い友情で結ばれていましたが、林志明が新洲を離れると、次第に2人の交流は途絶えてしまいました。林志明はハンセン病回復者としての自らの経験と、中国におけるハンセン病についての本を出版するために、情報を集めながら様々な場所を訪れましたが、その1つの定着村で偶然に30年近く音信不通だった廖志剛と再会したのです。林志明の執筆のことを聞いた廖志剛は、不自由な手で原稿の清書をかってでました。
 
 
 「苦難不在人間」の原稿清書には3ヶ月かかりました。また廖志剛は出版費用が不足していることを聞くと、持ち物の中で一番大切にしていた、長年かかって集めた切手コレクションを売って、出版費用の一部として提供しました。
 「苦難不在人間」は1999年に中国で出版されました。現在は日本語、英語での翻訳も進められています(中国)
 
 韓国では、回復者が養豚、養鶏、家具製造などの事業を経営し、大きな成功を収めてきました。現在ではその収益金の一部を使い、べトナムの定着村で養豚や養鶏などのプロジェクトの支援や、バングラデシュやインドの患者・回復者子弟の教育を支援しています。
 
 日本の回復者は、インドやネパール、ミャンマーなどの国で定着村の施設の向上や、災害などの緊急時に対応するための資金の提供、患者・回復者子弟に教育の機会を提供したりしています。
 
 ハンセン病は20世紀の前半まで治療法が見つからなかったため、古くから恐れられ、社会から排斥されてきました。多くの病気とは違い、ハンセン病は医学的に治癒したとしても「ハンセン病」というレッテルが一生つきまとい、病気以前の生活に戻ることは依然として非常に困難なものです。病気と同様にハンセン病を体験した人を苦しめるのは、病気についてまわる偏見や差別です。ハンセン病は医学的な病気であるだけではなく、社会的に健全な生活手段を奪う社会的な病気でもあるのです。
 1873年のらい菌の発見、1941年の最初の治療薬試用以降、ハンセン病の医学的治療は画期的に発展しました。今日では、世界中どこでもMDT(多剤併用療法)を無料で受けることができるようになり、新しく診断された人のほぼ100%がその治療を受けています。しかしながら、社会的治療がとりあげられるようになったのは、1990年代に入ってからのことです。
 ハンセン病を体験した人々の声に耳を傾け、患者という特殊視ではなく、尊厳ある豊かな個人を回復し、ハンセン病という病気を意識せずに生活できるようにするための活動が始まりました。ハンセン病は、医学的そして社会的に治癒されてようやく、回復者にとって「過去の一幕」となるのです。
 
ハンセン病は長い入生の短い一幕
エルネスト カバノス Jr(フィリピン)







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