日本財団 図書館


働く機会
ハンセン病の患者や回復者に慈善は要らない。
自分の能力を発揮する機会
そして世界を変えていく機会が欲しいのだ
クリスチャーノ トレス(ブラジル)
 
インド・タミルナドゥ州
 
ハンセン病は医療だけの問題ではありません。医学的治療は当然のことながら、回復者が自立した生活ができるために、社会的・経済的な取り組みも並行して行なわれなければなりません。
ジルダ ボルヘス(ブラジル)
 
 社会から疎外され、隔離されてきたハンセン病患者や回復者には、経済的に自立した生活を送ることができない人が数多くいます。また、慈善や施しにすがった生活を続けていくうちに、自己に対する自信を失うことも少なくありません。
 回復者が経済的、社会的に自立した生活を送り、尊厳ある一個人としての生活を取り戻すための取り組みとして、世界各地で経済自立を目指す様々なプロジェクトが行なわれています。
 裁縫や電化製品の修理等の職業訓練を受けて、工場に就職したり、事業を始める人や、果樹栽培や養豚、雑貨店のように初期費用の支援を受け、自活に向けた活動を始める個人やグループもいます。
 
マンゴーをはじめ竜眼、ライチーなどの果樹を栽培する。売上金は栽培者に分配され、一部は障害のある回復者や、院内施設にあてられる(中国)
 
3ヶ月間の職業訓練の後にブラウス、スカートなどの衣服の縫製を始め、販売している(ミャンマー)
 
近隣の村人を対象に井戸水の販売と建築用ブロックの生産販売をしている(モザンビーク)
 
回復者のグループて養豚。育った豚は近くの市場で販売する(ベトナム)
 
初期費用を借り、野菜や雑貨を売る店を始めた。収益で借りた費用も返済できた(インド)
 
最終目標は、経済的に自立した生活を送ることを通し、
自信と尊厳を確立することです。
 
孔豪彬(中国)

 7歳でハンセン病にかかりました。障害が出てきて字が書けないようになると、クラスメートや村の人は私を馬鹿にして、よくいじめられました。病気のことが分かると通学を禁じられたので、教育は3年しか受けていません。
 家族についてのいい思い出はあまりありません。父にはよく叱られたり、殴られたりしました。「マッチも持てないようなやつに、何ができるんだ」。私が座った椅子は、洗ってきれいにしないと座らず、家族の使う皿は使わせてもらえませんでした。
 13歳のときに治療を受けるため、家を出ました。私の家は貧しかったので、収穫の時期には家族全員が働きますが、3年後に収穫の手伝いのために家に戻った私を見ると、父は「役に立たないやつだな。人間にさえ見えないじゃないか、おまえは」と言いました。とても辛い思い出です。病院は生活環境も治療もよくありませんでしたが、少なくとも差別はありませんでした。家にいるより病院のほうがよっぽどましです。
 今では家族とはほとんど連絡を取っていません。自立した生活を送るため、テレビやビデオなどの電化製品や、自転車の修理の技術を身に付けました。バナナも育てています。頑張っているので、多くの回復者に比ベれば、恵まれた生活を送っているかもしれません。でも、いつか病院から追い出されるのではないか不安です。私くらいの年齢で障害を持っていると、社会で生活するのはとても難しいでしょうから。
 国際看護師の日に、医師や看護師が私たちを招待してくれました。一緒に夕飯を食べて、夜には私たちとお茶を飲んでくれました。こんなことは今までの人生で1度もありませんでした。忘れることができない、人生の中で最も嬉しい1日でした。
 
手書きの絵葉書き1枚約80円
1枚書くのに半日かかる(インド)
 
1つのバッグを作るのに3〜5日かかる
1つ約80円(ミャンマー)
 
裁縫研修を受けた25人が働く作業所
小物からキルトまで作る
 
小物入れ
1つ約500円(中国)







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION