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交通インフラ整備は灯台に始まる
(財)関西交通経済研究センター理事長
武林郁二
 明治初期における交通インフラ整備の重点は、何だったと思いますか。先ず思い付くのは、明治五年の新橋・横浜間の鉄道開通ですが、実は、最大の重点事業は、灯台の建設だったのです。工部省発足後八年間(明治三年から十年)に同省灯台寮の費やした金額は、同省の決算額の三一%に及んでおり、灯台建設は、単に交通インフラだけでなく、全公共投資の中で最大の重点事業だったのです。
 鉄道も自動車も無い時代においては、船こそが唯一の大量輸送機関でした。とくに、幕末から登場した汽船は、風向きを待つ必要がないこと、また、その速度の点において、人と物の輸送に革命をもたらすものでした。従って、この時期、唯一の大量輸送機関である船の夜間航行を可能にする灯台は、何よりも早急に整備すべき社会資本だったのです。
 
明治丸
 「海の日」(昨年までは七月二〇日)は、明治九年、明治天皇が奥羽巡幸の折、青森から船で帰途につかれ、横浜に安着された日に由来します。そのとき御召船となった「明治丸」は、灯台建設のための測量や資材運搬のために英国から輸入された汽船で、二つのスクリューを持つ当時我が国の最新鋭船でした。このことからも、当時いかに灯台の建設が重視されていたかが分かります。
 しかし、灯台の建設は、実は我が国の意志で始められたのではなく、欧米列強の圧力によって行われたという歴史があります。第三節以降でこの歴史についてご紹介します。
 
写真(1)(大関酒造所有)
 
江戸時代以前
 ところで、灯台は、江戸時代以前に無かったわけではありません。写真(1)のようなものが各地にあり、燈明台や高燈篭と呼ばれていました。これらの多くは、植物油に火を点じ、油紙障子で回りを囲んだものでした。また、岬の突端に柱と屋根だけの小屋を建て、そこでかがり火を焚くというものもありました。
 「灯台もと暗し」ということわざがありますが、明治初期までは、灯台とは油皿やろうそくを載せる燭台のことをいい、このことわざにある「灯台」は、今でいう灯台ではありません。私も辞典で調べるまで誤解していました。
(注)明治以降の灯台は、レンズを使って光束を作り、光を遠くまで届くようにした点でそれまでの燈明台と違います。
 
開国と攘夷
 我が国の灯台建設の始まりを語るには、幕末における我が国と欧米列強諸国との外交関係から話を始めなければなりません。
 一八五八年、幕府は、攘夷論(外国人排斥主義)が圧倒的に強い中で、欧米列強の軍事的圧力に屈し、勅許を得られぬまま、欧米列国と通商条約を結び、神奈川(今の横浜)、長崎、兵庫(今の神戸)、箱館(今の函館)、新潟の五港の開港を約束しました。しかし、通商条約に基づく貿易の開始は、我が国の経済を混乱させ、攘夷論を一層強めることとなりました。その結果、攘夷論に抗し切れなくなった幕府は、やむなく、当面実行する気はないままに、一八六三年五月十日を期して攘夷を実行するとの決定をしました。
 
下関砲撃事件
 攘夷論の急先鋒で、この決定を待っていた長州藩は、早速同月、関門海峡を通航した米・仏・蘭の艦船に砲撃を加えました。そして、その翌年の天六四年、英・仏・米・蘭、四か国の連合艦隊による下関砲撃事件が起きたのです。
 この下関砲撃事件は、長州藩の砲撃に対する報復だといわれることがありますが、実は、報復は、長州藩の砲撃の翌月に米と仏の軍艦により、長州藩の諸砲台と軍艦を破壊することにより既に実行されているのです。
 下関砲撃事件は、英国が、我が国の攘夷勢力の最先鋒である長州藩に制裁を加え、我が国の攘夷勢力に欧米の軍事力を見せつけるため、他の三か国を誘い、周到な計画の下に、十七隻という大艦隊をもって行われた作戦なのです。ちなみに、長州藩から英国に密航留学していた伊藤博文と井上馨は、この作戦計画を知って、直ちに帰国し、和睦のために奔走しましたが、時わずかに遅く、戦端が開かれました。
 四か国連合艦隊の艦砲攻撃の前に、長州藩はなすところなく敗れ、和睦を求めました。この際、長州藩は、先の砲撃は幕府の命に従ったまでと、幕府の責任を指摘しました。また、連合艦隊の司令官は、遠征費のほか、下関の町を焼き払わなかったことの代償金という国際法上何ら根拠の無い要求をし、長州藩は、これら償金の支払いを受諾しました。
 
下関償金
 この後、四か国は、直ちに連合艦隊を江戸湾に回航し、その威力を背景に、今度は幕府に対し、長州藩の砲撃の責任は幕府にあるとして、上記償金の支払いを幕府に迫りました。
 その際、特に英国は、下関の開港を望んでいたので、その実現のてことするため、償金の額を三百万メキシコドルという法外な額とし、下関を開港するならば償金は免除するとしました。しかし、幕府は、四か国の予期に反し、新たな開港の方がもっと問題が大きいとして、不法かつ法外な償金の支払いを受諾しました。
 しかし、幕府には、この三百万ドルを支払う力は無く、六回の分割払いのうち一回目の支払いこそ期限内に行ったものの、二回目以降の支払いは、期限の猶予を求めざるを得ませんでした。
 
改税約書
 翌一八六五年、四か国は、またしても連合艦隊を来航させ、その威力を背景に、幕府に対し、(1)通商条約の勅許、(2)まだ開港されていない兵庫の即時開港、(3)関税率の引下げの三項目を要求し、これらが容れられれば、上記償金のうち二百万ドルを免除すると言ってきました。
 幕府は、一橋慶喜の必死の対朝廷工作により通商条約の勅許を得、また、関税率引下げの交渉にも応ずることとしました。しかし、条約勅許の附帯条件として、京に近い兵庫の開港は差し止めとされたため、(2)の要求を満たすことができず、幕府は、引き続き償金の支払の猶予を求めなければならず、四か国に対し外交上弱い立場に立たなければなりませんでした。
 翌一八六六年、幕府は、要求項目(3)の関税率引下げについて四か国と交渉しましたが、償金の支払いの猶予を得たいため、四か国に大きく譲歩し、先の通商条約に定められた関税率を我が国に極めて不利益に改訂する「改税約書」なる条約を結びました。即ち、輸入品の関税率について、単に税率を引き下げるにとどまらず、それまで従価税であったものを従量税に変えるものでした。これにより、輸入品の流入に拍車がかかり、その後の我が国の産業の発展に多大な障害となりました。
 
灯台の設置
 また、「改税約書」は、そのほかにも、貿易を促進するための諸条項を定めており、その第十一条は、「日本政府ハ、外国交易ノタメ開キタル各港ニ、船々ノ出入安全ノタメ、燈明台(灯台)、浮木(ブイ)、瀬印(障害標識)等ヲ備ウベシ」と規定されました。これにより幕府は、灯台の設置を条約上の義務として負うことになったのです。この灯台は、日本に来航する外国商船の通航の便宜を目的としたものでしたが、ただ我が国でも、幕府海軍は、これを喜びました。
 かくして、灯台の設置を約束させられた幕府は、同年、英国公使を介して四か国と協議し、次の一〇か所に灯台八基と灯船(灯火を掲げた船)二隻を設置することとしました。これらは、そのとき開港していた横浜、長崎、箱館への航路を確保するものでした。
灯台
剣埼(東京湾口)
観音埼(浦賀水道)
野島埼(房総半島南端)
神子元島(伊豆半島先端)
樫野埼(紀伊半島先端)
潮岬(紀伊半島先端)
佐多岬(大隈半島先端)
伊王島(長崎湾口)
灯船
横浜本牧、箱館
 
兵庫開港
 次いで、翌一八六七年、新将軍徳川慶喜は、外交権は朝廷ではなく幕府にあることを示すため、諸外国の公使等を引見し、その際、まだ朝廷から許しの出ていない兵庫の開港を同年末に実施すると確約しました。
 そして、兵庫への入出港のために、英国公使と次の五か所に灯台を追加設置することを約定しました。紀淡海峡、明石海峡、兵庫和田岬、関門海峡の東口と西口
 また、幕府は、先の灯台も含め、灯台建設のための技師の派遣を英国に依頼しました。
 こうした兵庫開港に対する積極的な対応の結果、幕府は、未払いの償金百五十万ドルについて、二年間無利子の支払い猶予に成功しました。
 しかし、幕府は、この年の十月に瓦解し、灯台の建設は、明治新政府に引き継がれることになりました。(結局、この百五十万ドルは、明治七年に支払われた。)
 
現存灯台
 以上述べたように、灯台の設置は、始めは日本に来航する外国商船のために、幕府がやむなく約束したものでしたが、我が国も汽船を持つようになると、灯台の効用の大なるを知り、冒頭述べたように、明治初期における最優先の社会資本整備となったのです。
 なお、これら幕府が設置を決めた灯台のうち6基は、今もなお供用されており、貴重な文化財となっています。このうち、近畿地方にあるものは、樫野埼灯台(紀伊半島先端、明治三年完成、写真(2))、江埼灯台(淡路島北端、同四年完成)、友ケ島灯台(紀淡海峡、同五年完成、写真(3))です。
 
写真(2)
 
写真(3)
 
(注一) 米国は、議会が下関償金を不当とし、明治十六年に還付してきました。
(注二) 明治丸は、後に係留練習船に改造され、現在、東京商船大学に国の重要文化財として保存されています。
参考文献
日本灯台史(海上保安庁灯台部編)、国史大辞典(吉川弘文館)ほか







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