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船の科学館 音声ガイド 原稿(最終)
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 本日は、船の科学館へようこそおいでくださいました。
 船の科学館は全体が約6万トンの豪華客船の形をしており、館内には海と船の展示がいっぱい! 屋外には、初代の南極観測船として活躍した“宗谷”や青函連絡船の“羊蹄丸”を改装した「フローティングパビリオン」などもあって、船内の見学もできます。
 さあ、それでは展示場入口から船の科学館に入ってみましょう。
 
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 シンボルホールを飾っている、この一枚帆(いちまいほ)の木造和船は、今から150年程前の江戸時代、大坂から江戸にお酒を主に運んだ「樽廻船(たるかいせん)」の縮尺1/5の模型です。
 実物の船の大きさは1,700石積みで、四斗樽(よんとだる)を一度に2,500個ほど運ぶことができました。
 今も昔も、大量に物を運ぶ手段は、船しかないことに変わりはありません。
 
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 船の歴史は、人類の誕生とともに始まったといっても言い過ぎではありません。川を流れる木につかまって移動したのが船の始まりだといわれ、その木を束ねて「いかだ」を作りました。
 またその土地によって、手に入る材料により、竹を束ねたり、骨組みに皮を貼ったり、動物の皮で浮袋を作ったりと、さまざまな船が誕生しました。
 このワラでできたような船は、南米ペルーのチチカカ湖で今も使われているアシを束ねて作った、「アシ舟」の実物です。
 
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 「風を利用して船を走らせる」この魅力的な試みに成功したのは今から6,000年ほど前の古代エジプト人だったといわれています。その後、地中海では三角の帆が発達し、北ヨーロッパでは横に張る四角の帆が発達しました。
 この、大きな帆に赤い十字が描かれた船は、1492年イタリア人クリストファー・コロンブスが苦難の航海の末、大西洋を横断して西インド諸島に到着したときに乗船していた“サンタマリア”という帆船です。
 わずか200トンほどの木造船でしたが、3本のマストに四角の横帆(よこほ)と三角の縦帆(たてほ)を組合せて、広い海を自由に航海できるカラックという帆船の形式が整いました。
 
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 優れた船の誕生は、富と栄光を求める人々を、海を越えてさまざまな大陸へとむかわせました。こうした大航海時代の幕開けは、同時に植民地や領土権の争いから戦争を引き起こし、本格的な軍艦が誕生することになります。
 このずんぐりした3本マストの船は、イギリス海軍に所属する史上最大級の木造軍艦“ビクトリー”です。1805年、イギリス征服をもくろむフランス・スペインの連合艦隊と、イギリス艦隊が衝突しました。いわゆる「トラファルガーの海戦」です。“ビクトリー”を旗艦(きかん)としたイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊を撃退し、ナポレオンの野望を打ち砕きました。
 “ビクトリー”は、今もイギリスのポーツマスに現役艦の扱いで保存・公開されています。
 
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 19世紀中期になると船にもより高速化が求められ、これに応えて快速帆船が誕生します。いわゆるクリッパー型帆船の登場です。それまでの帆船に比べ、細いスマートな船体、鋭く突き出た船首、広い大きな帆といった、いかにも快速帆船らしい外観をしているのが特徴です。
 このスマートな船体にたくさんの帆を装備した帆船は、イギリスで建造されたクリッパー型帆船の代表例“カティ・サーク”です。中国からお茶を運ぶのに使われたため「ティー・クリッパー」と呼ばれました。
 クリッパー型の快速帆船は、高度に発達した究極の帆船でしたが、同時に数千年も続いた帆船時代の最後を飾る船ともなってしまいました。
 
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 船にエンジンを搭載する試みは、快速帆船が登場する前より行われていました。
 19世紀に入ると、アメリカのロバート・フルトンが蒸気船の実用化にこぎつけ、風まかせの帆船と違って定時運航が可能な蒸気船は、にわかに注目を集めます。
 推進方式もスクリュープロペラが発明され、船は新しい「汽船」の時代を迎えることとなります。
 この4本煙突の大きな客船は、20世紀初頭、1907年建造の豪華客船“モーレタニア”です。“モーレタニア”は大西洋航路のスピード記録を22年間も保持した名船でした。
 処女航海で氷山に衝突沈没して、1,500人あまりの犠牲者を出した「豪華客船“タイタニック”の悲劇」は、このわずか5年後の1912年のことでした。「より大きく!より速く!」を目指していた船の技術開発は、新たに「より安全に!」のテーマが加わることになったのです。
 
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 ここでは、明治時代以降、大正時代をへて昭和時代前期までの、日本の近代造船の歩みを、壁面のパネルとさまざまな船の模型で紹介しています。
 日本最初の本格大型タンカー“紀洋(きよう)丸”、戦時下では仮装巡洋艦となる貨客船“うめが香(か)丸”、「太平洋の女王」と称えられた貨客船“浅間丸”、南米ブラジルへの移民輸送に使われた貨客船“さんとす丸”など、わが国が生み出した名船のかずかずが展示されています。
 
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 ところで、わが国は1956年から40年以上も世界一の「造船王国」だった、ということをご存知でしたか?
 それまで単独1位だったわが国に韓国が迫り、近年では世界の造船量のトップを韓国と競って、ともに世界一といっても良いでしょう。
 さて、船を建造する方法はいろいろありますが、現代の大型船は溶接技術の発達で、「ブロック建造」と呼ばれ、ブロックを積み木のように重ねて溶接し、大きな船を建造してゆく工法が一般的となっています。
 ここに展示されている、大型貨物船の縮尺1/100の模型をご覧ください。船底(せんてい)の一部分が4角に切り取られて下におかれているのがお分かりいただけますか?これが「ブロック」1個です。そして、ちょうど真後ろにその大きな実物が置かれています。この「ブロック」をたくさん積み上げて船を造るわけですね。
 
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 水より重い、鋼鉄の船がなぜ水に浮くのか?これはだれもが感じる疑問です。この実験装置のボタンを押してください。空中でつりあう同じ重さの鉄のかたまりと船の形をした器を同時に水に入れると・・・ 鉄のかたまりは沈み、船の形をした器は浮かびます。これは、どのような物体でも押しのけた水の分だけ重量が軽くなる「浮力(ふりょく)」という上向きの力が働くためです。鉄のかたまりに比べ、船は接触面積が広がってより多くの水を押しのけることができるため、水に浮かぶというわけです。
 
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 船の大きさを表す単位として、よく「トン」という言葉を使います。船で使う「トン」には大きく3種類あり、最も一般的に用いるのは「総トン」といって、重さではなく、船の広さつまり容積を表すものです。
 その他に、積める荷物を重さに換算した「載貨重量(さいかじゅうりょう)トン」と、特殊船や軍艦などで用いる船が押しのけた水の重さ、つまり船の重量を表した「排水(はいすい)トン」があります。
 
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 この見上げるばかりの巨大なものが、現代の大型船に使われるディーゼル・エンジンです。まったく新しい排気過給器を装備し、日本で初めて開発された「三菱UEディーゼル・エンジン」の実験機の実物です。貨物船“讃岐(さぬき)丸”に12,000馬力の第1号機が搭載されて以来、唯一の国産大型ディーゼル・エンジンとして、現在でも改良を重ねて製造が続けられています。
 ところで、このエンジンをどうやってここに運び入れたと思いますか?実は、とても入らないので、エンジンを設置してから、その周りに建物を建てたというわけです。
 
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 金色に輝くこの美しいものが、船の推進器スクリュープロペラです。スクリュープロペラは、外輪船に替わって、19世紀の中期に発明されました。ネジのように回転して効率よく船を前に進む力を生み出す装置で、現在ではほとんどの船がスクリュープロペラを用いています。
 プロペラの大きさや形はさまざまですが、大きなプロペラをゆっくり回転させるのが効率的といえます。また、ブレードつまり翼の数もさまざまです。数が少ないほど効率的ですが、振動を抑えるためには枚数を増やした方が有利になります。
 
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 ジェット旅客機にも使われているジェットエンジンを利用して、発生する燃焼ガスを直接羽根車(はねぐるま)に吹き付けて船の推進力の原動機としたのが、この太い円筒型をしたガスタービンエンジンです。軽量・小型で、大馬力を出すことができるのですが、燃費消費量が大きく高額になるので、商船ではジェットフォイルなどの高速船に一部使われている程度で、軍艦や護衛艦などの艦艇で主に使われています。
 
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 ここに展示されている、幅が広くてとっても太った大きな船がオイルタンカー“日石丸”です。“日石丸”は、1971年の完成当時世界最大のタンカーで、全長は東京タワーより長い347メートもあり、原油を1度に45万キロリットル、18リットル入りの石油カンで2,500万個分も運べました。
 ここでは、この“日石丸”を例に上げて船の一生を紹介しています。
 設計、起工、進水、竣工、除籍、解体・・・と、船の一生は「人の一生」とよく似ています。“日石丸”は、ペルシャ湾から原油を運ぶために建造され、中東と日本を84回往復して、原油約3,000万トンを運び、地球を55周する距離を走って、1985年に引退、函館で解体されて14年の生涯を閉じました。
 
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 いま最も新しい船として注目を集めているのが、この「テクノスーパーライナー」です。
 日本の主要な造船会社が力を合わせて技術開発した未来の高速貨物船で、“疾風(はやて)”と、“飛翔(ひしょう)”の2種類の実験船が試作され、高性能を証明して実験に成功しました。
 また、さらに未来の船として、世界で初めて超電導電磁推進船として実験に成功したのが“ヤマト1(いち)”です。超電導電磁推進船とは、「フレミングの左手の法則」を応用したスクリュープロペラのいらないまったく新しい推進方式の船で、未来のドリームシップとして注目されています。
 
 つづいて、階段を下りて地下展示場におすすみください。
 
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 まるで海の中にいるような、ここ地下展示場は海洋開発のコーナーです。
 私たちの地球は表面積のおよそ70パーセントが海で占められており、この広く豊かな海をいかに損なうことなく人類のために役立てるかということが、これからの大切なテーマといえるでしょう。ここでは、海洋開発のさまざまな未来の姿をジオラマにして展示しています。
 また、深い海を調べる深海潜水調査船“しんかい2000”の内部構造が分かる大型模型も展示しています。厚さ30ミリ、直径2.8メートルの耐圧殻(こく)と呼ばれる球(たま)の中に、3人が乗り組み、2,000メートルの深海まで、連続8時間の潜航調査が可能となっています。
 
 次は階段を上がって、2階展示場におすすみください。
 
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 ここ2階展示場は、船の種類やその役割などを中心に展示・紹介しています。
 四方を海に囲まれ、しかも資源の乏しいわが国の経済は、原材料や原油などのエネルギー源を海外から輸入し、これらを製品にして海外へ輸出する加工貿易で成り立っています。
 そして、これら資源や製品輸送の99パーセントつまりほとんど総てを、大量に安くしかも安全に運ぶことのできる船に頼っています。このように船なくして成り立たないわが国は、世界有数の海運国でもあります。
 ここに展示されている大きな船は、現代の貨物船を代表するコンテナ船と専用ふ頭の大型模型です。船内の構造やコンテナ積み込みの状況が良く分かると思います。その他、順路に従って、オイルタンカーなどの専用化がすすんだ現代のいろいろな貨物船の模型が展示されています。
 こうしたさまざまな船が日々安全で確実な輸送に活躍し、私達の生活を支えてくれているのです。
 
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 観光やチャーターで、各地を周遊する船を「クルーズ客船」と呼びます。ジェット旅客機の登場により、国と国とを結ぶ定期客船はすっかり姿を消してしまいましたが、それに代わって登場したのがプールやレストラン、劇場や映画館も備えた大型で豪華な現代のクルーズ客船です。
 この白く美しい船が、わが国を代表する豪華クルーズ客船“飛鳥(あすか)”です。“飛鳥”は、毎年世界一周クルーズを行うなど話題を集めていますが、1、2泊のショートクルーズなども数多くあり各地の港にも寄港します。機会があったら、是非一度乗船してみませんか!
 
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 たくさんの船の輸送力に頼るわが国は、海と陸の交通の接点となる港の整備が欠かせません。港は、利用目的に応じて貿易港、工業港、漁港などさまざまな種類があり、港に応じたふ頭や桟橋、航路や防波堤、そしてクレーンなどの設備が整えられています。
 ここでは、東京港を中心に港の役割や、港で働く船などを紹介しています。
 
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 ところで、東京港という港を知っていますか?
 ここ船の科学館の建つ東京港は、今から500年以上前、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築き江戸湊(えどみなと)を開いたことに始まる歴史ある港です。徳川幕府の江戸時代、そして明治時代と港の整備もすすみましたが、近代港として本格的な港の整備が行われたのは関東大震災以後、東京港の重要性が認識されてからです。そして、1941年念願の国際貿易港としての開港が実現し、現在ではわが国を代表する世界有数の国際港として、また首都圏の物流の拠点としての役割を担っています。
 
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 昔から魚や貝、エビなどの海産物をたくさん食べてきた日本人は、世界でも有数の魚好きの国民といえるでしょう。その魚をとるためには専用の船、つまり漁船が欠かせません。
 ここでは、漁業を、沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業、捕鯨、に分けて展示・紹介し、「オキアミ・スタントロール式漁業」や「母船式サケ・マス流し網漁業」をジオラマ再現しています。
 しかし、近年ではただ捕るだけではなく、育てる漁業の養殖や栽培漁業が盛んになっており、海や川の環境と魚の育成との関係を知るための漁業調査も重要になってきています。
 
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 海に囲まれたわが国では、海の犯罪・事故、海洋汚染など、さまざまなことが発生します。ここは、こうした海の犯罪の取締りや海難の救助に活躍する「海上保安庁」のコーナーです。
 海上保安庁は1948年に創設され、全国の海を11に分けて、海の犯罪に対処する治安の維持、海図(かいず)や灯台による海上交通の安全確保、海難の救助、海の環境保全などを使命としています。
 ここに展示してある巡視船“やしま”を始めとする多くの船や飛行機は、各地の保安部(ほあんぶ)に配備されて、日夜「海の安全」に活躍しています。
 
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 ここでは、1870年に発足し、太平洋戦争で消滅した旧日本海軍を紹介しています。
 日露戦争当時の戦艦“敷島(しきしま)”、連合艦隊の旗艦(きかん)となった戦艦“三笠(みかさ)”、またその後の太平洋戦争当時の軍艦としては、戦艦“陸奥(むつ)”、巡洋艦(じゅんようかん)“妙高(みょうこう)”、駆逐艦(くちくかん)“夕張(ゆうばり)”などが展示されています。
 こうした軍艦の建造技術は、今日世界有数の造船国となったわが国の、造船技術の基盤となりました。
 
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 史上最大の戦艦として歴史に名をとどめるのが、旧日本海軍の建造した戦艦“大和(やまと)”でしょう。
 この、三連装(さんれんそう)の主砲塔(しゅほうとう)3基を装備した灰色の大きな軍艦が“大和”です。大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)を象徴する不沈艦として極秘に建造され、世界最大の46センチ主砲9門を搭載して1941年に完成しました。しかし、太平洋戦争中の1945年4月、沖縄にむかう途中の九州南方洋上で、アメリカの航空機の攻撃により乗員3,000名とともに、わずか4年に満たない短い生涯を閉じました。
 
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 「海上自衛隊」は、わが国の海の安全と平和をまもるため、1952年にその前身である「海上警備隊」としてうぶ声を上げました。以来50年余現在では作戦用の艦艇120隻、航空機200機を保有して、日夜わが国周辺海域の防衛や海上交通の安全確保に従事しています。
 ここは、この海上自衛隊を紹介するコーナーです。
 最新のイージス防空システムを搭載した初の護衛艦“こんごう”、や海上自衛隊が建造した初のヘリコプター搭載護衛艦“はるな”も展示されており、また潜水艦を紹介したコーナーもあります。
 
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 「海に親しむ・・・」とてもすてきな言葉ですね。地球上の生き物すべての母である海は、私たちに無限の安らぎを与えてくれます。その海とのふれあいの場は、ヨット、モーターボート、ダイビングなど海洋レクリエーションを通じて、さらに広がっています。
 この、赤と白に塗装されたスマートな船は、2人乗りの「F−3000タンデムパワーボート」の実物です。いろいろなイベントで使用され、パワーボートのレースではオープニングパレードの先導艇としても活躍しました。
 
 つぎは、階段をのぼって3階展示場に進みましょう。
 
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 3階展示場は、わが国の伝統的な木造船(もくぞうせん)、いわゆる和船(わせん)のコーナーになっています。
 最初に、川で使う船 いわゆる川船(かわぶね)をご紹介しましょう。
 この黒漆(くろうるし)塗りに桧皮葺(ひわだぶき)の豪華な屋形(やかた)を設けた平底の船は、江戸時代の将軍や大名が使った「川御座船(かわござぶね)」です。海で使う船と異なり、浅い平底の船体が特徴で、帆はなく櫓(ろ)と棹(さお)で船を進めました。屋形も豪華で、良く見るとふすまには四季折々の花鳥風月の絵が描かれています。
 つづいて、さまざまな川船が展示してあります。これは「船鑑(ふなかがみ)」と呼ばれる関東の川船を紹介した資料に基づき、川遊びに使う特別豪華な「屋形船」や、大型の「高瀬船(たかせぶね)」や「ひらた船」、水上のタクシーともいえる「猪牙船(ちょきぶね)」などを復元・制作したものです。移動式銭湯ともいえる「湯船(ゆぶね)」もあったんですよ!
 
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 展示場の中央に置かれたこの大きなものは、江戸時代に活躍し、俗に「千石船(せんごくぶね)」と呼ばれた「弁才船(べざいせん)」の船体中央部の横断面(よこだんめん)の実物大模型です。「弁才船」の特徴は、このように厚い「航(かわら)」と呼ばれた船底(せんてい)の板の上に、根棚(ねだな)、中棚(なかだな)、上棚(うわだな)と呼ばれる幅広い板を継ぎ合わせ、これを横に渡した太い梁(はり)で補強するいわゆる「棚板(たないた)造り」と呼ばれた独特の構造でした。
 こんなに厚い板を加工するなんてすごいですね!
 
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 これは、江戸時代に大坂から江戸へ木綿や油などの日用雑貨を運んだ、「菱垣廻船(ひがきかいせん)」と呼ばれた弁才船(べざいせん)です。船の側面に菱形の装飾が施されていることからこの名がつきました。
 弁才船は、縦長の大きな1枚帆が特徴で、多数の帆をもつ洋式帆船(はんせん)に比べて帆走(はんそう)能力が劣ると誤解されてきましたが、近年の研究で洋式帆船に負けない、優れた帆走性能があることが証明されています。
 
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 これは、日本海で18世紀中期頃生まれ、「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれた弁才船です。「北前」とは北国(ほっこく)のことで、「北前船」とは弁才船の一地方形式をさす名称でした。
 「北前船」は物だけでなく、民謡や方言など文化の伝播にも重要な働きをしました。良く見ると、大量の荷物を積み込むため、「菱垣廻船(ひがきかいせん)」などの「弁才船」と比較して前後のそりが大きくなっているのが特徴です。
 
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 これは、1887年1月以降、500石以上の日本型船(にほんがたせん)の製造が禁止されるため、日本型船の記録保存を目的として、東京の「緒明(おあき)造船所」で作られた弁才船です。記録保存を目的としただけあって、細部まで非常によくできています。
 
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 これは、明治後期の「弁才船」です。スクーナー式の帆、船尾中央に固定された舵など、洋式船の長所を取り入れた和船は、俗に「合の子船(あいのこぶね)」と呼ばれました。この「合の子船」は、さまざまに変化を遂げてきた「弁才船」の最後の姿と言えるでしょう。
 
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 これは、太い杉の丸太をくりぬいて造った秋田県男鹿(おが)半島の「丸木船」の実物です。「エグリブネ」ともいわれ、長らく磯漁に使われて来ました。近年になってFRP船(せん)に取って代わられ、ほとんど姿を消したとはいえ、つい最近まで現役で使われつづけてきました。
 船の興味深いところは、「テクノスーパーライナー」のような科学技術の粋を集めた最新鋭の船が登場するかとおもえば、こうした4,000年以上前の縄文時代から使われつづけた「丸木船」が今日まで生き残っているという点でしょう。
 
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 ここでは、縄文時代の「丸木舟」に始まるわが国独自の和船の歴史を、各時代を代表する復元模型で、展示・紹介しています。
 まず、最初は朱色の手すりが美しい「遣唐使船(けんとうしせん)」です。7世紀から9世紀にかけて、当時「唐」と呼ばれた中国に使節を送るために大陸の造船技術を導入して建造した大型船でした。
 「遣唐使船」は、唐の進んだ文化や制度をわが国に伝える上で大きな役割を果たしました。しかし、残念なことに造船の記録が残されておらず船の詳細が分からないため、これは推定を加えて復元したものです。
 
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 「遣唐使船」は大陸の技術を用いて作られた特別な船で、わが国独自の技術ではまだ大型の構造船の建造は不可能でした。
 これは、その後12世紀から13世紀頃の鎌倉時代の大型船です。刳(く)り船構造の船体に棚板を二段に重ねて船を大きくした準構造船です。船の幅が狭いためセガイと呼ばれる漕ぎ手の乗る板が側面に張り出しています。
 
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 これは、室町幕府が、当時「明」と呼ばれた中国に使者を送るために用いた「遣明船(けんみんせん)」です。このころになると、船底の刳り船部材を板材に替えて、わが国独自の棚板(たないた)構造の船が登場します。
 「遣明船」は、14世紀から16世紀までに19回派遣され、わが国からは銅、刀、工芸品などが輸出され、「明」からは銅銭、絹織物、陶磁器などが輸入されました。
 
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 これは、江戸時代初期、幕府から交付された朱印状と呼ばれた海外渡航許可証を持って、東南アジア一帯で交易を行った「朱印船(しゅいんせん)」です。「朱印船」は、中国式のジャンク構造の船体に、西欧式のガレオン船の帆装と舵、そして日本式の船首の作りを取り入れていました。
 海外へ渡った「朱印船」の総数は350隻を上回るほどでしたが、江戸時代初期の寛永年間から徳川幕府は、キリスト教が国内に広がり西欧諸国の植民地になることを恐れて日本人の海外渡行を止めたため、以降「朱印船」による交易も途絶えてしまいました。
 
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 わが国では、古来より海上の戦(いくさ)が行われてきましたが、これは戦国時代から安土桃山時代頃の「軍船(ぐんせん)」、つまり戦う船です。大きい方が、「海上の城」と称えられた「安宅船(あたけぶね)」、小型の方は機動性に優れた「関船(せきぶね)」で、近代の船に例えれば「安宅船」は「戦艦」、「関船」は「巡洋艦」に相当すると言えましょう。
 
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 江戸時代を迎え、徳川幕府の各大名に対する水軍の抑制策も功をそうし、太平の世の中になると「関船(せきぶね)」は、次第に豪華な装飾を施した「御座船(ござぶね)」へと移り変わって行きます。こうした御座船は、川で用いる「川御座船(かわござぶね)」に対し、「海御座船(うみござぶね)」と呼ばれました。
 この、朱の漆塗りに多数の金銅(こんどう)金具で装飾された、華麗な海御座船“天地(てんち)丸”は、天下にその権勢を誇示すため将軍用に建造された幕府の海御座船です。
 1630年に完成して以来、隅田川に面した幕府の御船蔵(おふなぐら)に置かれ、廃船になるまで実に233年間、修理を重ねて使われつづけました。
 
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 幕藩体制(ばくはんたいせい)が確立し、大名の参勤交代(さんきんこうたい)が制度化されると、四国・九州など西国(さいごく)の大名は、船団を組んで瀬戸内海を行き来するようになりました。
 この黒漆塗りの立派な海御座船は、熊本藩の御召替(おめしかえ)御座船“泰宝(たいほう)丸”です。御召替とは、正規の御座船に替わる、予備の船という意味です。
 総数100隻以上にも及ぶ参勤交代の船団が航海する様子はまことに壮観だったようで、船唄に合わせて鐘(かね)や太鼓が打ち鳴らされ、音からだけでもどの大名の船団か分かったとのことでした。
 
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 今から150年ほど前、江戸時代末期の1853年、浦賀奉行所は沖合いに黒い煙をはく見慣れぬ巨大な黒船(くろふね)を発見しました。この日、ついに蒸気軍艦“サスケハナ”以下3隻を従えたアメリカの提督ペリーが、開国を求めて浦賀に来航したのです。
 このジオラマは、そのペリー艦隊の黒船が浦賀に来航した時を再現したものです。当時最大級の「弁才船」と比べても、ペリー艦隊の軍艦がいかに大きかったのかが分かりますね。
 ところで、ペリー艦隊の黒船というと、すべて蒸気船だったと思われがちですが、最初に来航した4隻のうち蒸気船は2隻だけ、残り2隻は帆船で蒸気船に引かれて浦賀に入ってきました。また、船体が黒いため鉄の船と思われがちですが、腐食防止のためタールで黒く塗られていただけで、木造船でした。
 わが国は、これを機にアメリカと「日米和親条約」を結び、永い鎖国の眠りからさめて、一挙に西欧化、近代化への道を駆け進むことになりました。
 
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 ペリー艦隊の来航に驚き、近代的な軍艦と海軍力の必要性を感じた幕府は、オランダからわが国初の蒸気軍艦“観光(かんこう)丸”の寄贈を受け、続いてスクリュープロペラを装備した蒸気軍艦“咸臨(かんりん)丸”を10万ドルで購入しました。この一見帆船のような黒い船が、その蒸気軍艦“咸臨丸”です。
 その後、1860年遣米使節の随伴艦(ずいはんかん)に選ばれ、軍艦奉行 木村摂津守(きむらせっつのかみ)、艦長 勝 海舟(かつかいしゅう)らが乗り込み、アメリカの測量船“クーパー”の船長ブルックの指導を受けて、太平洋の往復航海に成功し、新たな一歩を踏み出しました。
 この模型は、当館がオランダの「プリンス・ヘンドリック海事博物館」に依頼して、現存する当時の図面から忠実に復元制作したもので、“咸臨丸”の姿を伝える貴重な資料です。
 なお、“咸臨丸”の蒸気機関はまだ補助的な性格が強く、帆で走る場合はスクリュープロペラを引上げ、煙突を縮めていました。
 
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 ずいぶん館内を歩いて、さぞお疲れのことでしょう。
 ここ、マリタイムサルーンで、練習帆船“日本(にっぽん)丸”や“海王丸”などの絵画や、壁面を飾る「船の歴史絵巻」などをご覧いただきながら、一休みされてはいかがでしょうか。
 ご休息の後、エレベーターで「展望塔」へお進み下さい。
 
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 ここ、船の科学館のマストの先にある「展望塔」は、2階建て、地上70メートルの高さがあり、東京港のほぼ中央に位置し、360度全周を見て回ることができます。
 白い船の科学館と並んで、係留されているオレンジ色の鮮やかな船が、わが国初の南極観測船として活躍した“宗谷”、そしてその向こう側には、本州と北海道を結ぶ青函連絡船だった“羊蹄(ようてい)丸”が、白とブルーに塗られて「フローティングパビリオン」として、保存・展示されています。
 快晴の日には、西のほうに富士山も遠望することが出来ますが、本日はいかがでしょうか?しばらく「展望塔」からの眺めをお楽しみください。
 展望塔からの眺めをお楽しみいただいた後は、エレベーターで5階に降り、再び階段を上がって6階へお進み下さい。
 
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 6階は、「海をわたる」と題した「船と航海」のコーナーです。
 航海とは、ある地点から目的の地点まで、船を安全に効率よく動かすことをいいます。古来より、目標のない広い海の上で自分の位置が地球上のどこになるのか?そしてどこに向っているのかを模索し、そのために長い年月を要したのです。
 この「方向」を知る装置が、ここに置かれている金色の帽子をかぶった円柱型の、「コンパス」(羅針盤 らしんばん)と呼ばれるものです。
 正確には、「磁気コンパス」といって、磁石が北を指す性質を応用したもので古来より使われてきましたが、揺れる船の上で目盛りが読み取り易いように封入された液の中に置かれています。
 より正確な、「ジャイロ・コンパス」もありますが、故障もほとんどなく電気を使う必要もない「磁気コンパス」は、今でも方角を知ることのできる航海の必需品として装備が義務付けられています。
 
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 目標のない広い海にあって、古来より船乗りは太陽や星など天体の観測から自分の船の位置が分かることを知っていました。
 ここに展示されている、変わった黒い計測器は「六分儀(ろくぶんぎ)」と呼ばれる太陽や星などの高度を測る器具です。計測した高度からは緯度を知ることができ、また正確な時計であるクロノメーターと天測暦(てんそくれき)を用いて経度を求めれば、地球上の位置を把握できるというわけです。
 現在では、カーナビゲーションなどにも応用されている、人工衛星を用いたGPSなどで即座に極めて正確な地球上の位置を知ることができますが、「六分儀」は今でも船に積まれています。
 
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 船の速力や移動した距離は、「ログ」と呼ばれる計器で測ります。昔は、ここに展示されている「ハンドログ」と呼ばれた扇状(おおぎじょう)の板の付いたロープを流し、砂時計で時間を区切ってくり出されたロープの長さから、速力や移動した距離を測りました。
 この、ロープの長さを測るために目印として付けられた「結び目」(ノット)が、船のスピードの単位ノットになりました。1ノットは、1時間に1カイリ進む速度のことで、時速に直すと1.852キロメートルになります。
 現代では、「電磁ログ」や「人工衛星」などにより正確に速度を測ることが出来ます。
 このように移動した距離と方角が分かれば、船の位置を知ることが出来ます。そのため、古来より速度と進む方角を正確に知る事は大変重要だったのです。
 
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 この、機械の並んだ広い場所が船の操舵室、ブリッジと呼ばれるところです。約6万トンの客船を操船するのに必要な機器類を、実物の船同様に配置して再現してあります。
 中央をご覧ください。昔は、ここに大きな舵綸(だりん)が置かれて船のシンボルになっていましたが、今ではこんなに小さなハンドルになってしまいました。左側に置かれているのがエンジンの指令を機関室へ伝えるエンジンテレグラフ、右側にはレーダーと衝突事故を防ぐための「衝突予防援助装置」が置かれています。
 また、手前中央の大きなテーブルは、「海図」を見るチャートテーブルと呼ばれるものです。「海図」には、海の深さや、海底の地質、灯台や航路など、航海になくてはならない情報がたくさん記入されています。海図上の、赤い丸印が船の科学館の位置になります。
 
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 船乗り、つまり船員(せんいん)になるには専門の学校に学び、国家資格を得なければなりません。こうした公立商船学校の学生の養成に使われるのが、航海訓練所に所属する「練習船」です。
 この美しい白い帆を張った船は、練習船の中でも最も有名な練習帆船“日本丸”です。1930年に建造され、55年の永きにわたって多数の船員の養成に活躍しました。現在は老朽化にともない引退し、横浜に保存・展示され静かな余生を過ごしていますが、使命は新“日本丸”に引き継がれ、帆船による船員教育は現在でも受け継がれています。
 
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 いかがでしたでしょうか?
 船の科学館の展示場をご一緒してまいりましたが、お楽しみいただけたでしょうか?
 最後にもう一度、日本は世界有数の「造船国」であると同時に、世界有数の「海運国」でもあります。そして、船なくしてわが国は成り立ちません。
 普段あまり見かけることが少ない船ですが、どうかこうした多くの船達の活躍が私たちの生活を支えてくれていることを忘れないで下さいね。
 
 音声ガイドはここで終了となります。長時間お付き合いいただき本当にありがとうございました。
 階段で5階におり、さらにエレベーターを使って1階までおりて、音声ガイドをフロントにご返却ください。
 
 本日は、船の科学館にご来館いただきまことにありがとうございました。
 
2002.09.17







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