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 明けて15日12時30分、小雪がちらつくなか“宗谷”は、西堀越冬隊長以下11名の第1次越冬隊員、雪上車4台、カラフト犬19頭、ネコ1ぴきを冷たい氷上に残し、来年の再会を約して長い汽笛(きてき)を鳴らしながら南極を離岸しました。
 しかし、離岸の翌16日より天候は悪化、“宗谷”の周りをパックアイスが取り巻きます。18日状況はさらに悪化、19日に至って「現状では、いかなる機械力をもっても脱出不可能」と本国に打電、いよいよの時は氷海の外で待機する“海鷹丸”に観測隊員をヘリコプターで移送することとし、“宗谷”は氷の中で越冬を覚悟して準備に入りました。
 27日海上保安庁は、ついに外務省を通じてアメリカ及びソ運に“宗谷”の救援を依頼します。28日氷状がわずかに好転し外洋まで2.5海里に達した所で、ソ連砕氷船“オビ”が“海鷹丸”の誘導で救援に到着、厚い氷を割りながら“宗谷”の前に進み出て脱出の水路を開いてくれました。“宗谷”のマストには、「救援を感謝する」との信号旗が掲揚され、両船のデッキは互いに健闘を祝しあう人々でいっぱいになりました。
 
昭和32年2月15日、11人の越冬隊を氷上に残して南極を離れる“宗谷”
 
南極を離れた直後、氷に阻まれ身動きできなくなった“宗谷”
 
“宗谷”の前に進み出て、力強く砕氷前進し脱出の水路を開く砕氷船“オビ”
 
 “宗谷”と“海鷹丸”は合流して共に、3月10〜15日ケープタウンに寄港した後、4月5〜13日シンガポール寄港、24日ついに東京に帰りつきました。
 このように予備観測は、幾多の苦難を乗り越えて奇跡的に大成功をおさめましたが、南極大陸の本当の厳しさは翌年思い知らされることになるのでした。
 東京に戻ってきた“宗谷”は、あわただしく浅野船渠に回航され、さまざまな試験と補修工事がただちに行われました。
 まず、砕氷能力を若干でも大きくするためスピードを犠牲(ぎせい)にして、プロペラのピッチ(取り付け角度)を変え推力を増大させました。また、搭載予定の貨物が400トンから500トンに増大したため、船首のウェルデッキ(中央が一段低くなった甲板)を廃止して、全通のフラッシュデッキとして船倉(せんそう)の容積及び居住区画の増大を図り、前部のマストも門型(もんかた)に改造し、横揺れを少しでも解消するため特別なビルジキールも取り付けられました。
 こうして、本観測に向け再び準備を整えた“宗谷”は、昭和32年(1957)10月21日、松本船長以下80名の乗組員と永田隊長以下50名の観測隊員を乗せて前回より半月早く東京の日の出桟橋を出港しました。今回は、随伴船を伴わず単独で南極を目指します。
 しかし、この年の南極の気象状況は極めて悪く、12月23日氷海に突入しましたが、すぐにパックアイスに囲まれ身動きできなくなります。たび重なる氷の爆破、チャージング、はては竹竿(たけさお)で氷を押しのける人海(じんかい)戦術まで繰り広げ、前進を試みますが、12月31日来襲した強力なブリザードにより“宗谷”は完全に氷に締め付けられ周囲の氷盤が圧力で盛り上がってきます。“宗谷”は身動き取れないまま、約1ヶ月大氷原とともに西方にゆっくりと押し流されて行きます。もはや、自力では航海することができず、完全に漂流状態になってしまいました。海上保安庁は、ついに外務省を通じて付近にいるアメリカ海軍の砕氷艦“バートンアイランド”に“宗谷”の救援を要請します。
 “宗谷”は救援を待たずしてからくも氷海から脱出するのですが、2月1日密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラの翼の1枚を折ってしまうという大事故に見まわれました。
 
東京日の出桟橋にて行われた第2次南極観測(本観測)の出港式
 
氷の中に完全にビセットされた“宗谷”、周辺の氷が盛り上がってくる
 
“宗谷”の救援に駆けつけた、アメリカ海軍の砕氷鑑“バートンアイランド
 
氷の爆破作業も何度となく行われた
 
総出で行われた、氷塊を竹竿で押しやる人海戦術
 
無残に折れた左スクリュー・プロペラの翼







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