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船の科学館 資料ガイド3 南極観測船 宗谷

 事業名 海事科学知識の普及啓蒙活動
 団体名 日本海事科学振興財団 注目度注目度5


“地領丸”の時代
 昭和13年(1938)7月15日、船体を鮮やかな若草色に再塗装し、黒い煙突の中央に白赤白の辰南商船の煙突(ファンネル)マークを描いた“地領丸”は、誕生の地である香焼島を静かに離れ、長崎に向け初航海に旅立ちました。
 荷を積んで初めて外国へ向かった先は、中国でした。日清(にっしん)汽船にチャーターされて大連を基地に、天津、青島、上海など中国を回り、主に雑貨を運びました。
 続いて、栗林(くりばやし)汽船のチャーターとなって函館を基地とし、今度は遠く占守(しむしゅ)島(カムチャツカ半島近くにある島、当時はここまで日本の領土でした)のカニ工場を結ぶ航路に就くことになりました。
 行きは、カニ工場で使う機材や資材、そして工場で働く女工さんも運びました。島に近づくといつも霧が深く、操船は慎重(しんちょう)に行わなければなりませんでした。幸い、他の貨物船にはない英国製の音響測深儀を装備していたので助かりましたが、レッドと呼ばれる測深鉛(そくしんえん)(ロープの先に鉛のおもりが付いた深さを測る道具)を使って水深を測りながらゆっくり進むこともありました。帰りは、カニ、サケ、マスそして缶詰などの水産加工品を満載して函館に戻って来ました。
 ところで、進水直後から耐氷型の“地領丸”に注目していた海軍は、12センチ単装高角砲(たんそうこうかくほう)2門を装備した「新砕氷艦」への改造も極秘に検討していましたが諸般の事情で見送られた後、別の目的で買い上げを具体化して来ました。
 
昭和14年7月頃、栗林汽船にチャーターされ北洋で活躍中に小樽に寄港した“地領丸”
 
後に改装され、前後のマストも門型に改めた“天領丸”
 
ソ連向け耐氷型貨物船3隻の概要
製造番号 船 名 進水時船名 船舶番号 船名符字 総トン数 起 工 進 水 竣 工
第106番 天領丸 ボルシェビキ 44566 JIJL 2,231.0 S11.10.31 S12.08.10 S13.04.15
第107番 地領丸 ボロチャエベツ 44577 JIKL 2,224.1 S11.10.31 S13.02.16 S13.06.10
第108番 民領丸 コムソモーレツ 44567 JILL 2,224.1 S11.12.07 S12.10.20 S13.05.30
 
 船の運航には、港や水路が詳しく記された正確な海図が欠かせません。海図の作成には測量が必要になります。わが国では、近代海軍が誕生した明治2年(1869)より、こうした水路(すいろ)測量を行ってきましたが、使用する船は旧式艦を用いてきました。海軍は、これら旧式艦が相次いで除籍(じょせき)となるこの時期、測量艦として“宗谷”を購入することとしたのです。但し、表向きは運送艦としてでした。
 そして、昭和14年(1939)11月に買い上げが決まり、横浜で現場調査を受けて、下旬には改造工事を請け負うことになった東京石川島造船所(現:石川島播磨重工業)深川第一工場のドックに入りました。
 
海軍に買収され、艦首に8センチ高角砲を装備し、特務艦として完成した直後の“宗谷”。艦尾の25ミリ連装機銃が未装備なことに注意
 
特務艦“宗谷”の誕生
 海軍籍になった“地領丸”は、測量業務に従事する特務艦(とくむかん)となるように、海軍艦政本部(かいぐんかんせいほんぶ)で改造要領書が作られました。
 改造個所は、武装として8センチ単装高角砲1門と25ミリ連装機銃1基を装備、測量用に海軍制式の音響測深儀や10メートル測量艇2隻(定数4隻)、測深儀室、製図室、測量作業室なども設けられることとなりました。
 改造工事は順調に進み、昭和15年(1940)2月20日、“地領丸”は名前を“宗谷(そうや)”と変更することとなりました。海軍所属の艦艇の名前に「丸」は付けないこと、特務艦の名称には海峡名を用いる習わしになっていたことから、北海道最北端の宗谷岬の宗谷海峡にちなんでこの名前が選ばれたのです。
 そして、昭和15年(1940)6月4日、全体を灰色に塗装し、艦尾に軍艦旗を掲揚(けいよう)して、特務艦“宗谷”が東京で完成しました。“宗谷”は一般商船ではなく海軍に所属する艦艇となり、この日ただちに整備と補給のため横須賀へ入港、未設置だった25ミリ連装機銃1基を数日の内に装備し、燃料や資材を補給の後に、青森県の大湊(おおみなと)へと向かいました。
 新しい仕事は、耐氷構造を生かして北方での測量業務に従事することでした。そして大湊を母港に、なつかしい千島列島、樺太(からふと)(サハリン)周辺の測量業務を9月までの短い夏の間、休む間も惜しんで行いました。
 北方の測量業務が一段落すると、“宗谷”は再び横須賀に呼び戻されて9月15日より、横須賀鎮守府(よこすかちんじゅふ)附属となります。
 そして10月11日、御召艦(おめしかん)となった戦艦“比叡(ひえい)”他艦艇98隻、航空機527機が参加して横浜沖で行われた「紀元2600年記念特別観艦式(かんかんしき)」に、見学の人々を乗せる拝観艦(はいかんせん)の一隻として参加できたのは、“宗谷”の晴れ舞台でした。
 観艦式のお祭り気分も抜けきらない10月下旬、今度は今まで経験のない南洋諸島の測量業務をすることとなりました。
 11月横須賀を出航した“宗谷”は、一路穏やかな(おだやかな)南太平洋を南下、目的地のマリアナ諸島にあるサイパン島に到着し第1回の南方測量業務を行いました。
 翌、昭和16年(1941)1〜4月まで“宗谷”は、第2回の南方測量業務を行い、続いて5〜11月まで第3回の南方測量業務に、今度は同じ南洋の東カロリン諸島ポナペ島へと向かいました。このころ、名も知らぬ小島も訪ねましたが、はるばる日本から来た“宗谷”は、どこでも島民達の大歓迎を受けたのです。
 昭和16年(1941)12月8日ついに運命の日がやってきました。この日未明、海軍の空母機動部隊がハワイの真珠湾(しんじゅわん)を奇襲攻撃(きしゅうこうげき)、アメリカとイギリスに宣戦(せんせん)を布告(ふこく)したとの知らせが入ります。長く苦しい太平洋戦争(当時わが国では大東亜戦争(だいとうあせんそう)と呼んでいました)の始まりでした。
 横須賀に在泊し、知らせを受けた“宗谷”は、ただちに戦地に運ぶ多数の燃料や食料などの物資を満載、戦時下の南洋へとあわただしく出港しました。
 明けて昭和17年(1942)1月、アメリカ軍の潜水艦発見の報が次々入る中、前線基地のトラック島に無事入港、測量器材や輸送物資を荷揚げ中のある夜のことです。アメリカ軍の大型爆撃機が飛来して爆弾を落としていったのです。幸いにも爆弾は外れましたが“宗谷”が体験した初めての空襲(くうしゅう)でした。
 トラック島より横須賀に戻ると、“宗谷”は1月21日付で南洋方面を守る連合艦隊の第四艦隊に編入され、第四測量隊として測量業務を行うことになりました。水路部から派遣された測量隊員11名も乗艦し、新しい測量器材や測量艇2隻も搭載して、2月戦時下第2回目の南方測量業務に出動しました。トラック島を経て、ポナペ島、そしてはじめて赤道を通過し、占領したばかりの激戦地ニューブリテン島のラバウルに3月に到着しました。今後はここを基地として最前線の島々の測量業務を行うこととなり、時には作戦のため陸戦部隊の輸送を行うこともありました。
 
“宗谷”が基地としたラバウルの第四測量隊の隊舎
 
 昭和17年(1942)6月、太平洋戦争の分岐点(ぶんきてん)となった「ミッドウェー海戦」が起こります。日本は、この海戦で多数の空母や艦艇、航空機を失って大敗を喫します(きっします)。“宗谷”は、ミッドウェー攻略後、ただちに周辺港湾の測量業務を行うため付近に待機していましたが、作戦失敗の報に接して、やむなく北方に退避(たいひ)しました。この「ミッドウェー海戦」を契機に、戦いは日を追って日本の負け戦が続くようになっていきます。
 続く8月、滑走路の建設をほぼ終わった南方の島ガダルカナルに突如アメリカ軍の大部隊が上陸、日本の守備隊は全滅して同島は占領されてしまいます。「ガダルカナル戦」の始まりです。
 “宗谷”は陸戦隊員と上陸用舟艇(じょうりくようしゅうてい)2隻を積んで逆上陸作戦に参加すべく出港しましたが、同じく陸戦隊員を乗せた海軍徴用の“明陽(めいよう)丸”がラバウル沖でアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、作戦は中止となってしまいました。
 “宗谷”は帰国命令を受け、8月横須賀に帰着、所属が第四艦隊から新しく編成された第八艦隊に移り、9月再びラバウルに戻りました。このころになると、ラバウルは昼夜を問わずアメリカ軍の大型爆撃機の空襲を受けるようになり、連日対空砲火や迎撃(げいげき)する戦闘機との間に死闘が繰り広げられました。“宗谷”も、ソロモン群島やショートランドの測量業務中に爆撃や機銃掃射(きじゅうそうしゃ)を受けることが多くあったのですが、付近の他の艦船が大きな被害を受ける中、不思議に被害を受けることはありませんでした。
 しかし、ついに最初の大きな試練がやってきました。昭和18年(1943)1月28日早朝、ブカ島のクイーンカロラインという泊地で測量中の時です、背後から忍び寄ってきたアメリカ軍の潜水艦に魚雷攻撃を受けたのです。発射された4本の魚雷は白い航跡(こうせき)を引いて猛烈な勢いで“宗谷”に突き進みます。
 「右舷(うげん)後方に魚雷!」悲痛な叫び声があがります。
 「戦闘配置につけ! 魚雷回避、前進強速、取り舵いっぱい!」
 ブリッジでは次々に号令が発せられ、艦が左に旋回を始めた瞬間でした。ゴツンという鈍い衝撃音が後方にあり、数秒後に付近で魚雷の爆発する大音響が立て続けに3回響きわたりました。しかし、不思議なことに“宗谷”は被害を受けていません。奇跡的にも、不発弾(ふはつだん)だったのです! すぐに周囲を捜索(そうさく)すると、戦果を確認する潜水艦の潜望鏡(せんぼうきょう)が、後方の水面から顔を出しています。
 「戦闘配置、爆雷戦(ばくらいせん)用意!」
 足の遅い“宗谷”は、自分の艦を傷つけないよう、水中をゆっくり沈むパラシュート付きの爆雷を投下しました。しばらくして、鈍い爆発音とともに周辺に油や空気が浮き上がってきました。これは、潜水艦が撃沈されたことを示すものでした。
 一段落して、突き刺さった不発の魚雷を戦利品として甲板に引上げ、記念写真を撮りました。“宗谷”は、魚雷の攻撃をかわし、逆に潜水艦を撃沈するという離れ業(はなれわざ)を成し遂げたのです。その夜は、艦長以下飲めや歌えの大騒ぎ! しばし時を忘れる宴会が船上で繰り広げられました。
 
昭和18年1月、命中するも不発だった魚雷を甲板に引上げての記念写真
 
 昭和19年(1944)に入ると戦況(せんきょう)は一段と不利になり、“宗谷”は2月1日付で第八艦隊の任を解かれ連合艦隊附属となります。このころ、連合艦隊の司令部が置かれていたトラック島が次第にアメリカ軍の空襲などにより脅かされるようになってきました。
 2月17日、トラック島はアメリカ軍の艦上機約100機による早朝からの空襲を皮切りに、以降午後5時過ぎまでに合計9回、延べ450機による大空襲に襲われます。“宗谷”は、早朝より激しい攻撃にさらされましたが、他の多くの艦船が目の前で撃沈されていく中、回避行動中に座礁(ざしょう)して行動の自由を奪われたにもかかわらず、奇跡的にも大きな被害を受けませんでした。
 翌18日も再び大編隊が飛来し空襲が始まりました。座礁したままの“宗谷”は再び激しい機銃掃射(きじゅうそうしゃ)と爆撃を受け、艦長は重傷、砲術長(ほうじゅつちょう)以下10名が戦死するという壮絶な戦いとなり、離礁(りしょう)作業も困難を極めて銃弾も打ち尽くし総員陸上に退避することになりました。
 この2日間のトラック島大空襲で同島は壊滅(かいめつ)的な打撃を受け、その被害は艦船50隻(沈没41、損傷9)、航空機270機、燃料タンク3基等地上施設、そして死者は600人(沈没艦船の乗組員を含まず)にも及んだのです。
 翌19日、2日間の壮絶な空襲が過ぎて静けさを取り戻したトラック島の泊地に、たった1隻生き残った船が静かに浮かんでいました。“宗谷”です! 艦の状態を調べてみると損傷は軽微で航行に支障がないことが分かり、準備を整え内地に向けて錨(いかり)を上げました。4月に横須賀に戻った“宗谷”は、まず機関を整備し、トラック島大空襲の苦い経験から25ミリ連装機銃を4基も増設、もはや守勢に回った戦局から測量業務も必要がなくなり、測量艇も下ろして運送艦としての改装も施されました。
 昭和20年(1945)に入り、戦局(せんきょく)はますます悪くなっていきます。“宗谷”はこのころ、日本近海に多数出没するアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃や艦載機(かんさいき)による空襲をかわしながら、室蘭(むろらん)や八戸(はちのへ)と横須賀を往復し石炭や軍需品の輸送に従事していました。
 6月“宗谷”は、飛行機の部品など重要資材を満載して、海防艦“四阪(しさか)”の護衛のもと特設運送艦“神津(こうづ)丸”、“永観(えいかん)丸”と船団を組んで、満州(まんしゅう)(現在の中国北東部)へ向け横須賀を後にしました。2日後、岩手県の三陸沖(さんりくおき)を大陸に向け北上していた時です。アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けたのです。“宗谷”は潜水艦を発見するや後続の僚船(りょうせん)に危険を知らせましたが、直後に“神津丸”、“永観丸”ともに魚雷が命中、“宗谷”のみ、雷撃をかわして無事に満州にたどり着き、任務を果たすことができたのでした。
 その後も、共に行動する船は魚雷攻撃で沈没したり、銃撃や爆撃で擱座(かくざ)してしまうことがたびたび起こるのですが、不思議に“宗谷”だけは難を逃れ無事に任務を果たすことができるのです。
 そして、ついに昭和20年(1945)8月15日がやってきました。この日、日本はアメリカをはじめとする連合国の「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏をしました。戦いに敗れ、長く苦しい戦争が終結した暑い夏の日でした。
 太平洋戦争の全期間を通じて常に最前線で戦い続けた“宗谷”は、奇跡的にも生き残って室蘭で終戦を迎え、その後8月23日に横須賀に帰り着き、進駐してきたアメリカ軍に接収されたのは30日のことでした。







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