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 なぜこのやり方が始まったかと言うと、先ほどの網掛突取という方法では、だいたい1組で40艘ぐらいの船を使って、500人以上の人間がかかってやるという漁です。1シーズンで20頭、30頭、50頭ぐらいとれることもあったのですが、それぐらいたくさんとれればいいのですが、場合によってとれない場合は人件費、機材の出費が非常に大きな負担になりました。何とか少ない人数でクジラをとる方法がないかということで、こういう方法が発明されたようです。江戸時代の19世紀の初めぐらいにできたのですが、主にこれが流行してくるのは幕末から明治にかけて、あまりクジラがとれなくなった時期です。
 江戸時代の終わり頃の時期になると、いままでとれていたセミクジラなどがほとんどとれない時期がやってきます。その時期になると、何とかどうにかしてクジラをとる効率を上げられないかと工夫されます。1つは経費削減の方向で、もう1つはいままでとれなかったシロナガスやナガスクジラが何とかとれないかという方向で、いろいろな工夫が出てくるわけです。
 いままでの網掛突取の中でナガスクジラがとれなかった理由は、動きが速くて音にあまり反応しないためですが、そのために網を改良して、定置網と同じように網のほうに誘導する縄網を使うようになります。
 それからまったく違うかたちで、欧米で使われていた技術を何とか導入できないかということで、16ページに紹介している銃殺捕鯨も使われるようになります。爆発する弾をクジラに撃ち込んで捕獲するというやり方です。その撃ち込む道具は大きく2種類、日本国内に入ってきています。左側の手元で撃つ捕鯨銃と、右側にある銛の先に小さい短筒をつけたポスカンという独自の銃です。ただこのポスカンはあまり使われずに終わってしまいます。
 それから18ページに紹介している、いろいろな大砲でクジラをとる方法が入ってきています。ノルウェー式以外の主なものとしてグリーナー式や前田式があり、私が申し上げる銃殺と砲殺の違いは、弾の違いではありません。弾は銛を撃ち込む場合もあるし、それから爆発する弾を撃ち込む場合、それから銛と弾が一緒になったものを撃ち込む場合もあります。私の銃殺と砲殺の区分の仕方は、手持ちの火器か、甲板に火器を固定して撃ち出しているかの違いで分けています。
 しかし、中には銃殺の中にノルウェー式まで含められている先生方もおられるし、また前田式という小さな口径のものは銃殺の範囲で扱っている先生方もおられます。しかし私は手持ちか砲架にすえているかというのが一番大きな問題ではないかと思いまして、そういうかたちで分けています。
 その砲殺捕鯨はいろいろ入ってきているわけですが、その中で特にやはり効果的だったのが、ノルウェー式というやり方でした。それが明治32年から入り、最初は朝鮮海域で行われて、明治39年頃から日本国内でも盛んに行われるようになり、それ以降、日本捕鯨の主流になっていきます。私はそれ以前の時代を、古式捕鯨業の時代と位置づけまして、ノルウェー式が盛んになった後の時代を近代捕鯨業の時代と大きく分けているわけです。
 ノルウェー式が導入された近代捕鯨業時代の流れについては、皆さんもいろいろご存じのことと思いますが、昭和9年以降は母船式捕鯨というかたちで、南氷洋のほうまで出て行き盛んに捕鯨を行うわけですが、昭和63年で一部のものを除いた商業捕鯨からの撤退を余儀なくされて、今日に至っています。
 江戸時代の網掛突取捕鯨の様子をつぶさに紹介する資料として、私のほうで『勇魚取絵詞』をもってきましたので、それを皆さんにご覧になっていただきながら解説をしていこうと思っています。
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 天保3年に印刷された絵巻ですが、西海の捕鯨絵巻の中でも非常に内容が精緻な絵ものとして評価されています。これは生月島の絵です。
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 生月の御崎というところにありました納屋場です。クジラの解体加工をする施設です。この納屋場を見ておわかりのとおり、左右に大きな突堤が出ています。この突堤の上に轆轤と言われる人力のウィンチが乗っています。こういうウィンチを巧みに使いながらクジラの解体を行ったわけです。大納屋とか小納屋というそれぞれの部位を解体する施設がここに並んでいます。
 こちらのほうには前作事場といいまして船の建造修理、それからいろいろな道具の製造修理を行うセクションです。ここに沖で操業する人たちが暮らす小屋である加子納屋と羽指納屋もあります。だいたい冬から春にかけて、各地から集まってきた鯨捕りの人たちがこの小屋で住み込んで働いていました。
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 生月の壱部浦というところで、網をつくる最初の下ごしらえをしているところです。網をつくるときには「苧」という材料を使いまして、それを叩いてほぐすところから始まります。これをやったのも生月では瀬戸内海の田島という島の人たちで、その人たちが双海船に乗り込んで網を張る作業も行っていたわけです。
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 これは網をつくっているところです。
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 これは船をつくっているところです。勢子船と言われているクジラを追いかける船は、だいたい材料は規格化されていたようです。いまの兵庫あたりから、まとめてその材料で購入して組み立てるということをやっていたようです。
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 左側では桶をつくっています。右のほうでほ銛を鍛冶屋が打っているところです。
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 準備を済ませて、いよいよ冬の初めに鯨組が一部浦から出漁しているところです。出漁して港を出て行き納屋場にこもり、半年近くの間鯨漁に専念するわけです。
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 これは生月の北部のほうの海を紹介したものです。だいたい右上のほうに島が点在していますが、冬の初めにはそちらのほうからクジラがやって来るような感じです。このように前の入り江に入ってくるわけです。そのクジラをずっと追い立てて、ここに網を張って待ち受けるような感じになっています。
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 クジラが三方から追い立てられています。こちらのほうには弓なりに網を張っている網船が待機しています。そしてここに鞍馬の山見があり、クジラを見張っているわけです。ここの人は旗をもってクジラがこちらにいることを合図しているようです。呼子の山見経験者の方が、そういうことをやっていたとお話をされていました。
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 これは網にかかったクジラを追いかけて銛を撃とうとしている場面です。網船はここにいてクジラが網をすでに突破しています。泳ぎが遅くなったクジラに向かって勢子船が追いかけているところです。
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 これは銛を打っているところです。ここに銛を上に向かって立てている姿があります。上に向かって投げるそうです。そのようなお話をされていました。クジラ自体はこのように網にからまってしまって、泳ぎが非常に遅くなっているわけです。
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 これは銛をある程度打ちまして、今度は剣という道具を打っているところです。剣は銛と違って、先端が槍のように尖った道具です。これもやはり上に向かって投げて突き落とすような感じで突いたそうです。ここには子供のクジラがいます。実は子供のクジラがいるほうがクジラはとりやすいので、子持ちのクジラは最上の獲物とされていました。場合によっては子供のクジラを小さい銛で先に突いて、逃げられなくして親を突くということもやられていたようです。
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 これはとれたクジラに人がよじ登っているところです。ここに羽指さんがよじ登って鼻を切っているところです。この後ろにすでにクジラを運ぼうとして、柱を渡した持双船が待機しています。
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 これはクジラを運ぶ船が先ほどの納屋場に帰っているところです。この2艘の船の間にクジラが下がっているわけです。その持双船を曳航するかたちで何艘かの勢子船が引っ張っているような状態です。ここでわかりにくいのですが、包丁を立てた人たちがたくさん待機しています。たぶんこの人たちは、クジラに沖合のうちから傷をたくさん入れて、血抜きの作業を行うための人たちではないかと思います。
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 これはクジラを納屋場の前につけたところです。ここに大型の帆船がありますが、このような船に鯨油や尾羽毛(おばいけ)とか、いろいろなものを乗せて関西方面まで出していたわけです。クジラは頭からつけているところに注目してください。
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 これは解体しているところです。轆轤を巻いて皮を引っ張ってさばくというやり方です。ここにあとの加工を行う大納屋の入り口があります。
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 これはその大納屋の中です。たくさんの人が働いているのがおわかりいただけると思いますが、ここは赤身をさばくセクションです。この赤身は塩漬けにして食用に出しているわけです。こちらは皮をさばいて、皮はかまどに入れて炒って油にします。そのように油が出やすいように皮を細かく切るという作業を、ここの並んだ人たちが行っています。
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 これは小納屋という施設です。こちらでは主な仕事として内臓関係をかまで炒って、そこから油を取るということと、もう1つ骨についている肉をそいで落としていく作業をしています。骨についた肉は油分もあり美味しい肉だったそうです。
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 ここが骨納屋という施設の中です。先ほどの肉をそぎ落とした骨を、のこぎりで引いたり、細かく包丁で割って木端にして、それをなべに入れて、茹でて上に浮いてくる油をすくい取ったそうです。
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 これは操業が始まるとき、それから操業が終わったとき、正月に行われました羽指踊という踊りです。羽指というのは各船の指揮官で、先ほど言いましたような西海のほうでは鼻切りの作業を行う非常に勇敢な人たちでした。だいたい潜水漁をやっていた方々、っまり夏場にアワビなどをとっていた方々が羽指になったわけですが、そういう人たちが、このようなセレモニーのときに太鼓を叩いて踊りました。生月もそうですが、いまでも各地の旧捕鯨地には唄が残っています。
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 これはクジラの種類です。この前に1枚、実はセミクジラとザトウクジラの図がありますが、スライドを別に使っていまして、これだけ紹介いたします。
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 これは解体したクジラの各部位です。
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 これはセミクジラの解剖図になります。骨格のかたちなど紹介した図です。
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 これも各身体の部位を紹介しています。
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 これは骨の各部位です。
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 内蔵、ひれ、尾びれ、胸びれを紹介しています。それから生殖器を紹介しています。
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 これは頭の骨です。
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 これは内臓です。このへんの情報を見ていると「いさな」というのは「さかな」という扱いですが、哺乳類というのはだいたいわかっていたのだろうという感じです。
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 これは筋を製造しているところです。最近ではテニスのガットに使われていたのですが、江戸時代に綿を打つ弓のつるによく使われていたそうです。
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 これはクジラを追いかける勢子船と持双船です。勢子船の特徴としては水押の先端がとんがった部分をもっています。8丁の櫓をたてて漕ぎます。持双船も同じです。
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 こちらは双海船という網を積む船です。そして西海では双海船に必ず付船というのがありまして、この船が双海船を引っ張って曳航していくようなかたちになっています。和歌山の双海船はこれよりもひと回り小さい船です。
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 これはクジラの網です。非常に網目が大きな網で、二尺八寸と書いてありますのでだいたい網の1つの目が80センチぐらいでしょうか。
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 これは捕獲に使ったり、解体加工に使う道具です。銛の主なものがこの萬銛(よろずもり)というものです。それから止めを刺していくのが剣、鼻を切るときに使う包丁がこれです。このジャラジャラしたものは指揮に使うものでザイと言います。
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 これは萬銛の詳細です。これは早銛の詳細です。これが剣の一番先端の部分を紹介しています。
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 包丁です。上が羽指包丁、下が大切包丁です。
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 クジラを炒ったりする釜など、いろいろな道具の紹介です。
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 これはクジラの肉を運んだり、クジラを解体するときに使う轆轤という道具の紹介です。以上です。
 最後に最近興味をもっていることを3番にいくつか書いてあります。1つはクジラについての伝説というのがあります。「紋九郎鯨」という伝説です。クジラが夢の中に現れて、自分はいまからお寺にお参りに行くから、行くときにはとってくれるな、お参りを終えて帰ってくるときにとる分にはいいけど、と言うわけです。しかしいろいろな手違いがあったり、または最初から組主さんがとるつもりでいて、とってしまう。とってしまった後に大嵐で結局船団が全滅するという伝説が、西海方面にいくつか伝わっています。この伝説のもつ意味がいったい何かということをいま検討しているところです。ただ1つ重要な部分として、これは実際にあった出来事によっているようだということは、間違いないようです。正徳年間に五島の宇久島の山田組というのが、冬の海で操業して、船団が突風に襲われて70人ほどが亡くなったという悲劇的な事故があったわけです。どうもその事故がモチーフになってそういう伝説ができたようなのですが、伝説のいろいろな伝播の中で、やはりクジラの殺生への問題が取り上げられて、因果応報であると言われたりします。
 そのへんの流れの中で、やはり鯨組というのが、その後鯨を頭数でどんどんとればいいという状態ではなくて、とったクジラに対しての思い入れとか、逆に言えば後ろめたさももちながら、それをきちんと供養したということが、古式捕鯨業の特徴ではないかと思います。そういう部分がまったくなくなって、クジラを物として見るようになってしまうと、とり尽くしていくような状態になってしまったのではないかと考えるところがあります。
 もう1つ明治30年代の捕鯨は、先ほども言いましたように日本の捕鯨の伝統が、古式捕鯨業の時代から近代にそのまま連続的に継承されたのではなくて、少し断絶的な部分があるのではないか。どちらかと言えば古いやり方の捕鯨を、新しい捕鯨会社が押しつぶしていくような部分があったのではないかと、いま調べているところです。ただそういう流れの中でも、継承されたものがあるようなので、断絶的にいった部分と、継承された部分の両方をきちんと出していかなければいけないのではないかと考えています。
 それから最初に申し上げたように、日本列島ではいつからクジラをとるようになったかという大きな問題があります。これについては、日本伝統捕鯨地域サミットが、今度生月で開かれることになっています。来年5月ですが、原始古代の捕鯨がテーマになっていて、その中でクジラをとるようになったのは縄文か、それとも古墳か、それとももっと後なのか。そのへんについての活発な議論が行われるのではないかと思い、非常に楽しみにしているところです。
 ご質問の時間を残しておかなければならなかったのですが、いっぱいいっぱいになってしまって申しわけございません。私のほうからの話はこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
司会 中園先生、ありがとうございました。「日本人と鯨のかかわり」ということで、捕鯨の歴史のいままでに聞いたことがなかった興味深いお話をお聞かせいただきました。本当にありがとうございました。お時間もないので、手短に1つ、2つご質問を承りたいと思います。
質問 今日は大変興味深い、日本の古式捕鯨の話を聞きまして感銘しました。現在でもインドネシアのレンバタというところで、古式豊かな突取捕鯨をやっています。日本は捕鯨国としてはちょんまげ時代からすばらしいマニュファクチャーで、軍事力に匹敵するようなことをやっていた。大組織な漁法です。いまのIWCの関係で調査捕鯨をやっていますが、先生のクジラに対する情熱が、率直なところ、21世紀に入ってこれからの日本と世界的な先生の捕鯨に対する夢、先生の将来の研究のつながりはどのようにお考えでしょうか。
 アイスランドもノルウェーも調査は独自でやっています。今年はアイスランドが脱退しました。そういうところから端的に言って、将来に向けての捕鯨の夢、先生のお考えをお聞かせいただいたら大変ありがたいと思います。
司会 将来への夢ということですが、いかがでしょか。
中園 重大な部分をお話ししなければならないかと思います。私自体、クジラとりを見ていると、人間が生きるために行わなければならない殺生という部分に、きちんと向き合ってきたのではないかとすごく感じます。しかし昨今のいろいろな状況を見ていると、どうもそういう殺生にかかわる部分を、「かわいそう」みたいなことに転化してしまって、本当にそういう見方だけでいいのかどうか疑問に感じます。
 うち(生月)は捕鯨からは直接的な関係がなくなったのですが、漁業をやっている漁業者の島なので、そういう意味では生業の中で魚を殺して売っているようなところがありますが、そういう殺生という部分をやることに対しての見方が、最近浅くなってきているのではないかという恐れがあります。牛でも豚でもまったく同じ問題だと思いますが、それが見えるところで行われているクジラが、非常に軽薄に問題にされてしまうということに対しての憤りは感じています。
 クジラの問題も含めて、過去にこういうかたちの文化があったことをもっと皆さんに知っていただいて、その中で考えていただくことが大事だと思っています。自分たちが食べることにつながっている殺生の問題を、もっとたくさんの人によく考えてもらわなければ、これからの子供たちが大変なことになっていくのではないかと思います。
司会 あと1つだけご質問を承りたいと思います。もう一方お手を挙げた方がいらっしゃいましたが。
質問 さっきの方が言われたことに似通っていますが、強いて言うと下関会議で、パンフレットも見たのですが、日本は賛成だけど数多くは反対です。これから先、捕鯨の行く末はどうなるかという質問をしようとしました。私はクジラの肉が好きですが、いまは見当たりません。缶詰も見当たりません。先だって通信販売で三越がやっていましたが、問い合わせましたら普通では手に入らないと。そういうことを聞いているとこれからどうなるのかと思っています。
中園 私もクジラの缶詰が大好きでした。子供ころから必ず遠足のときはあれでした。生月あたりではいまでも、すき焼きにクジラの肉を入れるという文化があります。生月の人たちもクジラは絶対に必要なものだと考えています。
 たとえば先ほどのIWCの問題でも日本と対アメリカ、イギリスという国の構図になっていますが、僕がいろいろ考えている中で大事なのが、実際の漁業者、実際にクジラの文化をもっている人たちと、同じ国の中でもそうではない、クジラを愛玩動物みたいに見るグループがありますが、そのへんでの意見の相違が大きいのではないかと思います。おそらくアメリカでもそうではないかと思います。
 捕鯨というものに対して賛成、少数民族の方々もそうですが捕鯨をしなければならないグループもあれば、クジラというのは絶対にとってはいけないと固まっている人たちもいる。それぞれの生活環境とかいろいろなものでの意見の違いが、それぞれの国で出てきていることではないかと思います。
 しかし基本的なところで人間と生き物のかかわり合いや、人間が生きるために生き物を殺すことに対するいろいろな意識を直接的に感じないで、ただ肉を買っているような、魚を買っているような人たちにも、もっと理解してもらいたいと思います。ある程度ご年配の方はお客さんが来た時などに、鶏をつぶして解体したというご経験、ご記憶をおもちだと思いますが、いまの若い人、子供たちはまったくそういう経験がありません。
 そういうことが、将来歪んだかたちでいくのではないかという危惧を非常にもっています。そのへんは何とかしなければいけないのではないかと思います。もちろん残酷だと思う心はみんなあると思います。しかしそれを超えて、もっと考えていかなければいけないことがあるのではないでしょうか。
司会 ありがとうございました。大変貴重なお話でした。ご質問はこれで失礼させていただこうと思います。「日本人と鯨のかかわり」、大変興味深いお話を聞かせていただきました中園先生にいま一度拍手をお願いいたします。(拍手)
 
平成14年10月13日(日)
於:フローティングパビリオン“羊蹄丸”
 

講師プロフィール
中園 成生(なかぞの しげお)
 
昭和38年(1963)   福岡市に生まれる。
昭和56年(1981)   福岡県立城南高校卒業。在学中、郷土研究部に在籍。五島宇久島で調査を行う。
昭和61年(1986)   熊本大学文学部地域科学科民俗学研究室卒業。
    卒論調査を長崎県北松浦郡的山大島で行う。
昭和62年(1987)   福岡県春日市・筑紫野市の埋蔵文化財調査補助員採用。
昭和63年(1988)   佐賀県文化課嘱託採用。
 同7月   佐賀県東松浦郡呼子町教育委員会採用。
    発掘調査や史跡指定業務の傍ら、捕鯨の資料に接し研究者と交る
平成5年(1993)   生月町教育委員会採用。博物館開館準備に携わる。
    捕鯨とかくれキリシタン等についての研究を本格的に進める。
平成7年(1995)   生月町博物館・島の館(学芸員)
 
<主な論文・著作>
「捕鯨活動」『考古学による日本歴史』16 雄山閣 1996
「鯨の民俗」『日本民俗文化資料集成(鯨・イルカの民俗)』第18巻 三一書房 1997
「平戸瀬戸の銃殺捕鯨」『民具マンスリー』第32巻4号 1999
『くじら取りの系譜』長崎新聞社 2001
「日本における捕鯨法と、捕鯨の歴史的展開の体系的研究についての考察」
『島の館だより』Vo1.5 生月町博物館・島の館 2001
「平戸瀬戸における最後の銃殺捕鯨の聞き書き」『島の館だより』Vol.15 2001
「山見の話」『島の館だより』Vol.16 生月町博物館・島の館 2002
『捕鯨法からみた日本の捕鯨』生月町博物館・島の館 2002







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