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(2)「日本人と鯨のかかわり」
講師 長崎県生月町博物館学芸員 中園成生氏
司会 本日は「船の科学館 海・船セミナー2002」後半のテーマであります「鯨の世界をのぞく」の第2回目へ、ようこそお出でくださいました。本日ご講演いただきますのは、長崎県の生月町にあります島の館という博物館で、学芸員を務められて日本人とクジラのかかわりをずっとご研究されている中園成生先生をお迎えしたいと思います。本日はクジラと日本人のかかわりとその歴史についてのお話をお伺いたいと思います。それでは中園成生先生、よろしくお願いいたします。拍手でお迎えいただきたいと思います。
中園 皆様、こんにちは。私はいまご紹介にあずかりましたように、長崎県の生月という島からこちらのほうに呼んでいただきました中園と申します。学芸員をしています。生月という名前は、なかなか皆様お知りではない名前ではないかと思います。長崎では壱岐という島は、皆さんよくお知りではないかと思います。これとよく間違えられるのですが、生きる月と書きまして「生月」という島です。こちらは平戸島のすぐ裏側というか西側のところに浮いています。だいたい人口が8,000ほどの島で、そこにあります博物館、島の館というところで私は働かせていただいています。
 プロフィール等はこちらの資料に載せています。最近は太ったり痩せたりしておりまして、その写真で良かったのかどうか自信がないんです。少し写真のほうが痩せていますか。1年ぐらい前にすごく太って、そのときの写真を載せたらいまと全然違っていると言われるし、なかなか写真選びが難しい体型です。クジラも北のほうで太って、春に南のほうですごした後は痩せているそうなので、クジラをテーマにしている人間だったらこれでもいいかと思っています。
 お手元にいろいろ資料をお配りしていますが、主に使う資料として、こちらのほうにある企画展の解説書としてつくりました「捕鯨法から見た日本の捕鯨」をテキスト代わりに使わせていただきたいと思っています。それから今日のお話の進め方については、皆様のお手元のほうに「日本人と鯨のかかわり」というかたちで、A4の1枚ものでつけています。だいたいこの流れで進めさせていただこうと思っていますので、よろしくお願いいたします。
 まず最初に私がなぜ、捕鯨のほうに興味をもったかということを説明いたします。私が最初に捕鯨に関心をもつようになったのが、私はいま39才ですが、学生の頃熊本大学の民俗学という研究室にいて、卒業してすぐに佐賀に行きました。佐賀県の呼子というところが最初の勤務地でした。この町はイカの刺身や生き造りというのが九州のほうでは有名で、この呼子というのは観光地として栄えていたところです。年間に100万人以上来ているのではないでしょうか。
 その呼子町というところで25歳から30歳ごろにかけての間文化財のほうの仕事をしていました。隣町の鎮西という所には文禄・慶長の役で、豊臣秀吉が朝鮮半島に押し渡ったときに兵站基地にした名護屋城という城がありますが、その周りに武将がずっと陣地を築いていたんです。その陣跡というのが呼子町内にも何カ所もありましたので、それらの陣跡を特別史跡というかたちで指定して、さらに公有化して史跡公園にするという仕事が主でした。
 しかし呼子にいて、いろいろな方とお会いしたりお話したりしているうちに、呼子というのが非常に捕鯨とつながりのある場所だということが、だんだん分ってきました。その中でいくつかの非常におもしろい出会いもありました。
 1つは資料との出会いです。松浦漬といい、クジラの軟骨を独特のいろいろなたれを入れた酒粕に漬け込んだ、特にお酒を飲まれる方がつまみにするような独特な漬物があります。その松浦漬の会社が呼子にありました。その社長さんが山下善市さんという方です。もう亡くなられたのですが、その方が『鯨魚覧笑録』という絵巻物をもっておられました。
 山下さんが、呼子町の文化財保護審議会の委員さんをされた関係もあり、非常に良くしていただきました。そしてよくその絵巻物を見せていただきました。
 ただ、ご本人がもともと持っていたのではなくて、どうも購入されたもののようでした。
 その絵巻の中には呼子の沖合の小川島で行われていた捕鯨、というか実際には小川島の鯨組がほかのところで行った捕鯨という言い方が本当は適当だと思いますが、そういう江戸時代の捕鯨の様子が、それこそプロセスを追ってずっと紹介してあるわけです。さらにとれたクジラの種類、各納屋場の配置、納屋場の中での加工の様子、それから使われる道具なども細かくデータとして絵巻物に載っているわけです。それを見ると、だいたい江戸時代にこういう感じでクジラをとっていたのかというのが、おぼろげながらイメージとしてわかるわけです。
 鯨魚覧笑録は色がついてきれいな絵巻物でした。だいたい10メートル少しのものが2巻本になっていましたが、非常に魅了されたという部分があります。ちょうど私も25から30ぐらいで、興味とか関心が非常に強い年代であったこともありますが、「こんなことをして昔の人はクジラをとっていたのか」という興味を非常にかき立てられました。
 そういう感じで興味をもったところで捕鯨のことも少しずつ調べてみると、たとえば呼子には、お年よりの方の中で山見という仕事に勤務した方が何人かおられました。山見というのは、海の見える岬の上とか小島の上に小屋を建てて、そこで1日中クジラを見張る役です。そのようにクジラを見張って、もしクジラが潮を吹いたのを見つけると、すぐに狼煙を焚いて、捕鯨船のほうに知らせ、捕鯨船が出動してきてクジラを捕獲するということをやっていたわけです。この山見というのは、だいたい江戸時代から明治の中盤ぐらいまで行われていたやり方ですが、ノルウェー式の大砲で打つ捕鯨が始まったときには、全国的にはほとんどやらなくなりました。
 ところが呼子では、その山見の方法をノルウェー式の捕鯨船と組み合わせて行う、非常に珍しいかたちが昭和22〜3年頃ぐらいまで行われていたわけです。それでそのころ山見をされた方が何人かおられるわけですが、そういう方から、いろいろな山見についての話を伺ってみました。そうすると先ほどの『鯨魚覧笑録』あたりで見たり、書かれたりしている情報と、共通するものがたくさんあったわけです。
 高齢の方からそういう話を伺うのは2時間が限度です。それ以上聞くと嫌がられたり、また疲れたりするので、だいたい1日2時間ぐらいで、それをノートにまとめてという感じでやるのですが、非常におもしろくてお互いにいろいろ話を掛け合いながら、「もっとこんなこともあるんだ」とずっと話されたので、その日1日、結局6時間ぐらい連続で伺うこととなりました。それでも足りずにまた翌日に行って、また4時間ほど伺うという非常に無謀なことをやりました。しかし向こうのまたいろいろ教えてくれるという気持ちが非常に強かったということもあり、とにかく夢中で聞いて、「これはこんなことだったんだ」と理解した部分がたくさんありました。
 そういう経験の中で、呼子の捕鯨に非常に興味をもって歴史的な資料も見るようになっていきました。また呼子はそのように捕鯨関係の歴史がありますので、捕鯨のことをいろいろ調べにこられる先生も何人もおられました。たとえば長崎大学におられました柴田惠司先生も、船をいろいろ調べていらっしゃる方で、鯨船あたりにも興味をもっていらっしゃって、何度もお出でになりました。鯨船の特徴などをいろいろ教えていただきました。
 また絵巻物を特に調査しておられました畑中久泰先生という方が、静岡のほうからお出でになりました。この畑中先生も、非常に事細かく絵巻物の内容についての解説や、この絵巻物と、同系統の絵巻物がどこにあって、どういう特徴を持っているかなど、そういったことをいろいろ教えていただいたわけです。そういう先生方のご薫陶がありまして、捕鯨についての関心もだんだん強くしていったようなところがあります。
 そういう中で5年ほど呼子ですごしたのですが、そのうちいま現在の生月町というところから、博物館を建てるけど、誰か捕鯨を調べたりかくれキリシタンを調べたりする人がいないかとお声がかりがありまして、それで生月町のほうに移って現在の博物館「島の館」の建設の段階から携わったということです。
 この生月という島には、呼子とまた違ったかたちで、捕鯨のいろいろな歴史の文化があるところでして、江戸時代の享保の頃から島民が行う捕鯨が始まったわけです。呼子あたりは江戸時代のはじめの17世紀の半ばぐらいには、かなり捕鯨に関与していたのですが、生月の場合は18世紀になってから本格的に関与するようになります。どうしてこんなに遅れたのか。いろいろ諸説がある部分もありますが、おそらく生月というのは、キリシタンが非常に信仰された島です。そのキリシタンが戦国時代から江戸時代の初めにかけて非常に勢力があって、ほとんどの島民がキリシタンになっていたようです。しかし皆さんもご存じのとおり、徳川幕府のほうが禁教政策をとっておりました関係で、非常に厳しい弾圧が加えられまして、かなりたくさんの人たちが殉教したという記録も出てまいります。そういう事件で江戸時代の初めに島民が非常に動揺していたのが大きな背景になっているのではないか。そしてそのへんの動揺を克服して、ある程度また新しい方向性を見出すまでにやはり1世紀ぐらいかかったのではないかと考えています。
 ただしキリシタンの信仰自体はそのままかたちとしては残っていき、明治まで続きました。明治時代に一部はカトリックの教会に戻るのですが、大多数の島民は、かくれキリシタンの信仰のままで今日まで続いているわけです。そういう部分ではかくれキリシタンもこの生月の非常に特徴ある文化でして、博物館のほうでもそういうかくれキリシタンをかなり紹介しています。
 キリシタンとならぶ博物館の展示の柱が捕鯨です。先ほどの享保の頃から捕鯨を始めた「益冨(ますとみ)」という鯨組は、18世紀の間にだんだん勢力を伸ばして、19世紀になった頃には鯨組を五つ経営して、3000人ぐらいの人を雇ってやっていたとされ、古式捕鯨業の段階で最大規模までいった鯨組ではないかと思います。
 その益冨組が、江戸時代の終わりごろに調子が不振になったあと、明治時代になると今度は、銃殺捕鯨という独特なやり方の捕鯨を平戸瀬戸のほうでやりまして、それに生月の人たちがたくさん参加していくわけです。そういう歴史が非常に興味深い部分があり、生月の捕鯨も非常におもしろい要素をたくさん含んでいます。
 ただ呼子の捕鯨や生月の捕鯨をいろいろ調べているうちに、大きな壁にぶちあたってきたところがあります。それが実は今日のテーマにつながっていますが、いままで使われていた捕鯨の時代区分と捕鯨法、つまり捕鯨のやり方の分類が、うまく生月、呼子、平戸瀬戸の事例では使えないという所が出てきました。
 皆様のお手元には、福本和夫さんの5段階の発展段階の表を、打ち直しコピーしたものをお配りしていると思います。「日本捕鯨の発見段階年表」というタイトルになった表です。レジュメの裏につけていると思いますので、裏を見ていただければと思います。縦書きの表になっています。その表が、私が呼子あたりで捕鯨をいろいろ勉強するようになったときの、1つのものさしだったわけです。
 ご覧になっておわかりのとおり、日本捕鯨を五つの発展段階としてとらえ、それぞれ弓取法による捕鯨時代、突取法による捕鯨業時代などという時代区分がなされています。この時代区分は各時代の、捕鯨方法の特徴的なものというかたちの出し方をしているわけです。福本和夫さんが『日本捕鯨史話』という本に書かれたこの5段階の発展段階を表というのが、捕鯨の時代区分の基本として、非常に長くスタンダードとして使われてきました。現在でも捕鯨に関係することを研究している先生方の中には、この5段階の発展段階を1つのものさしとして使われている方がおられます。
 しかし、どうも僕が呼子や生月で地域の捕鯨を見ていく中で、この5段階がうまく合わないということが出てきました。まず第1段階の弓取法というのが、どうもないようなんです。原始古代のやり方ですが、弓でクジラをとるということですが、そういう事例があまりきちんと出てこない。その次(第2段階)の突取法は確認できます。第3段階の網取法による捕鯨業時代は、実際には最初に網を張り、それに向かってクジラを追い立てて、網をかぶせて銛(もり)で突いてとるというやり方です。ただ漁場によってはこれを全然やっていないところがあります。たとえば皆さんのお近くの房総半島の一番南で醍醐組という鯨組が、ツチクジラを銛で突いてとっています。江戸時代から明治時代までかけてとっています。この醍醐組のツチクジラ漁では網はどうも全然使われていないようで、一貫して銛で突き取りだけでとっているようです。それから網を装備した鯨組(網組)でも、たとえばクジラの種類や状況によっては、網を使わずに銛だけでとるという場合もありまして、そういう部分を見てみると、第3段階、1つの時代区分として、網取法による捕鯨業時代という名称に固定されてしまうのはどうかということがあります。もう1つは時代的な区分として、延宝3年から5年という最初の時期はわかりますが、明治20年ないし27年まで至るということで、第3段階の終わりを設定しています。しかし実際には、網を使った網組は30年代の後半ぐらいまで、かなりの場所で存続しています。そういうところから見ると、時代的な幅の問題も出てきます。
 第4段階は銛にボンブランス併用による捕鯨業時代です。このボンブランスというのは簡単に言えば爆発する弾です。大砲の弾を小さくしたものと考えていただいていいと思いますが、それを銃に入れて発射して、クジラの中に打ち込んで爆発させクジラを殺傷する方法です。
 ノルウェー式も同じように銛の最先端に爆発する部分をもって、それをクジラに撃ち込んで爆殺するわけですが、ただノルウェー式の場合は、結局それに爆発する部分と引っかかる部分に、銛のような部分が出ていまして、それでクジラをきちんと確保してウィンチで巻いてとるというやり方をします。しかしボンブランスというのは撃ちっばなしです。つまり爆発する弾をクジラに撃ち込んで爆殺させるだけの機能で、そのあとかその前に銛で突いてすぐに回収できるようにしないと、場合によっては沈んでしまうこともあったらしいです。そういう意味では欧米から入ってきた技術ではありますが、ノルウェー式とは若干違うやり方です。
 しかしこの方法は明治になってある程度入ってきて、特に本格的にやられるようになったのは、おそらく明治15年の平戸瀬戸ではないかと思います。平戸瀬戸では昭和20年頃までこのやり方を取っていたのですが、ほかのところでは実験的にやったり、何年間かやることはあってもあまり長続きしませんでした。というのは先ほど申し上げたようにクジラに撃ち込んで爆殺したあとに、クジラがすぐに沈んでしまうことがよくありましたし、それ以前の問題として弾の大きさが28ミリぐらいで非常に大きいので、その弾を撃ち出す鉄砲が非常に重く、それを小さいボートの上からクジラに向けて構えて撃つ。しかも弾が普通の小銃弾と違って非常に重いので、まっすぐ飛ばずに放物線を描いたように飛ぶので、そのへんのことも含めて命中するのが非常に難しい。
 そのように当てるのが難しかったり、死んだクジラの回収が非常に難しかったりという技術的な難しさが伴い、このやり方はあまりポピュラーにはなりませんでした。効率的にはノルウェー式には太刀打ちできないわけで、事実明治32年ごろからノルウェー式が主流になっていきます。そういう意味でもこのボンブランスによる方法が一時代を画したというのは難しいところです。どちらかと言うと、(ボンブランスというのは)古式捕鯨業の最後の段階で欧米の技術あたりを少し導入して、改良変革を試みたのだけど、結局のところはポピュラーにならなかったという程度の技術ではないかと僕は位置づけています。
 最後の第5段階のノルウェー式の捕鯨法による捕鯨業時代というのは、ある程度成り立つのではないかと思います。しかし福本さんの5段階の発展段階というのは、基本的な部分で問題があるように思います。1つは日本全体の捕鯨というのを、単線的なかたちで見ていいのかという問題があります。単線的に、ある時代はこういう技術、ある時代はこういう技術というかたちで発展していったという見せ方がはたしていいのかどうか。そういう部分が非常に問題としてあると思います。
 それと共通することですが、福本さんは第1段階の弓取法などを出す上で、北海道のオホーツク文化だとか、アイヌ捕鯨というかたちで行われた北方の捕鯨の事例を、単線的な発展段階の中で非常に参考として取り上げておられるようです。しかし実際には北海道の捕鯨と本州以南の捕鯨は流れとして別ではないか。北海道では銛に毒を塗ってクジラを弱らせてとるというやり方をやっていますが、このやり方は本州以南の九州方面や紀州の捕鯨では出て来ないようです。毒を使うやり方は、どちらかと言うとアリューシャン、アラスカという北方諸民族の捕鯨文化に出てくる要素で、そういう意味では北海道のアイヌの捕鯨は、北方諸民族の捕鯨文化圏の中の、番南のほうの事例としての位置づけでいいのではないかと思います。それに比べると、本州以南の捕鯨は、いまのところまだ検討中のところもありますが、私は独自の日本捕鯨文化というとらえ方をしています。
 そういう捕鯨時代区分の問題が私はすごく引っかかっており、何とか使えるような時代区分を書いた人はいないかということで一生懸命探しましが、しっくりくるのがなかったので、一応自分なりに時代区分なり捕鯨の方法を分類してみようと本を書いたりしました。歴史的な流れを、把握する概念図については、皆様にお配りしました資料の1ページの下に表で紹介しています。時代的な流れとその時代に行われた捕鯨法を線で紹介しています。
 ただこれもご批判などをいただいたりしながら、いろいろ検討をしなければいけないこともあるのではないかと思っています。特に近代捕鯨業については、まだまだデータ的によくわからないところがありますので、そういうものをもっと反映させて、どちらかと言うとたくさんの研究者の方々とのいろいろなディスカッションの中で、もっと深められていくものではないかと考えています。
 さて、一応私の立てた時代区分なり捕鯨法の分類にしたがい、日本列島における捕鯨の歴史みたいなものを概観していこうと思います。最初に日本列島の人がクジラをとったのはいつかというのが、考古学の方あたりでも非常に問題になっています。1つは縄文からやっていたという人がいます。それから古墳時代ぐらいからではないかという人もいます。それからさらに下って原始古代にはクジラをとるほどの力はなく、戦国時代ぐらいになってようやく鯨組が出てきますが、それぐらいにならないととてもじゃないけどクジラはとれなかったという人もいます。
 私は縄文時代から、すでにクジラをとっていたのではないかという意見をもっています。
 ましてクジラという大型のものではない小型のイルカをとっていたのは間違いないようです。これについては、能登半島の真脇遺跡という縄文時代の遺跡がありますが、そこにかなりたくさんのカマイルカなどの骨がまとめて出てきています。また、富山湾の奥のほうにも朝日遺跡というのがありますが、そこからもマイルカの骨などが出ています。真脇のほうでは、どうもカマイルカは外の海をずっと泳いでいくイルカだということで、カヌーみたいなものを漕ぎ出して突いてとったのではないかと、平口哲夫先生という向こうで研究されている先生はおっしゃっていました。それに対して、富山湾の奥の朝日遺跡あたりで出てきたものはマイルカで、これは湾の中にときどき群れで入り込んでくるので、それを湾の入口を網でせきってとるということは、明治時代から近年にかけてもけっこうやられているところがあります。そういう感じでとっていますので、朝日遺跡でも入り江を断ち切ってとるというやり方でとったのではないかと言われています。
 しかしもっと大きなクジラを本当にとったかどうかはっきりとはわかりません。わかりませんが、クジラに関係する資料はやはり縄文時代に出ています。1つは九州で縄文土器の中期に出てくる阿高式という縄文土器がありますが、土器の底に妙なデコボコがっいています。このデコボコは何か、考古学の先生方がいろいろ考えておられたのですが、どうもこれはクジラの脊椎骨の間にある円盤形の骨があって、その表面についているデコボコが土器の底についたものだということを、三島格先生という方が発表されました。
 どういうことかと言うと、丸い円盤形の20センチから30センチぐらいの大きさの骨が、脊椎骨の間に入っているのですが、その骨を、土器をつくるときの制作台にして回しながらこねていった。土器の底は椎間板の盤面と接触していますので、粘土にデコボコがスタンプとして残ったというものらしいです。そういう土器が熊本を中心にして九州一円、特に長崎あたりからも出てくるわけです。つまりクジラの脊椎板を、そのように使うという文化があったのだろうと考えられているわけです。そういう文化の背景には、クジラをとったのではないかと考えられている先生方もおられます。ただ脊椎板の場合は、たとえば座礁したクジラでも取れますので、座礁したクジラを使ったのではないかという意見の先生方もたくさんおられます。
 もう1つ、私が住んでいる生月町の隣りの平戸島と本土の間に、平戸瀬戸という狭い海峡があります。一番狭いところが500メートルぐらいの幅です。その海峡に面したところに、縄文遺跡の「つぐめの鼻遺跡」があります。5ページの左下につぐめの鼻遺跡から出ました石銛を紹介しています。サヌカイトという粗削りな感じになる石ですが、そういうものを使った銛先が何百点と出てきたわけです。大きいものでだいたい9センチぐらいですが、ほかの遺跡ではほとんど出土せず、このつぐめの鼻遺跡だけから集中して出たということです。一緒にクジラの骨も出ているようですが、どうも海峡を通るクジラをとったのではないかという説が出ています。私もそれを支持しています。
 縄文時代に、そういう狭い海峡を通るクジラをどうやってとったかという問題がありますが、考古学の先生方の中には、そんな大きなクジラを小さい丸木舟でとれるはずがない。しかも狭い海峡を通るのなら非常に潮の流れが速いので、潮の流れに乗って通ってしまったら、とてもじゃないけど丸木舟は追いつかないだろうということを言われる方もおられます。







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