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(2)「変わり行く日本海運の姿」
〜永遠のテーマ、商船の安全運航〜
講師 社団法人日本船長協会顧問 菊地剛氏
司会 今回は「変わり行く日本海運の姿」〜永遠のテーマ、商船の安全運航〜と題して、現在、社団法人日本船長協会の顧問をお務めになっております菊地剛先生のお話を伺いたいと思います。菊地先生はお手元のレジュメにもご紹介しておりますが、日本郵船の船長を長年務められ、またコンテナターミナルのオペレーター、そして現役を退いたあとには日本船長協会の会長を昨年まで務められて、いろいろとご活躍されていました。まさに現場の第一線での現場のご活躍の経験を本日は伺えるかと思います。
 それでは菊地先生をご紹介します。どうぞ拍手でお迎えください。
菊地 皆さんこんにちは。元船長の菊地でございます。本日は、船の科学館並びにフローティングパビリオン“羊蹄丸”まで足を運んでくださいまして、ありがとうございました。船や海や海運のことに非常に関心の深い方々を前にお話しさせていただけるということで、今日は大変心強く思っております。前回は土井先生の行き届いたわかりやすいお話を楽しく聞かせていただきましたが、今回は海の現場に視点を移してお話をさせていただきたいと思います。
 海上輸送の仕事といいますのは、普段、世間の目に触れないところで行われていますので、一般の方にとっては未知の部分が大変多い世界だと認識しています。なるべく情報公開の意味も含めて、わかりやすく広く浅くお話を進めさせていただきたいと思います。
 このたびのセミナーのテーマですが、大変センセーショナルな表現となっています。いまにも日本商船隊は壊滅してしまうのではないかという感じを受けますが、大手外航海運会社はいろいろと対策を進めており、収益も維持して配当もしています。当面は大丈夫です。でも例によって不安材料はたくさんあります。何が危機なのか、なぜそうなったのか、どうすればいいのか、肝心なことは何かなどについて、私なりに感じていることを申し上げて、現実の状況をご理解いただいて、一緒に考えていただければありがたいと思っております。
 最初に50年間の変化を簡単に振り返ってみたいと思います。私が社会人になったのは昭和27年春、日本国民がようやく終戦後の混乱から抜け出して、やる気を起こし始めたころだと思います。当時は終戦間もないころで、日本海運は文字通り壊滅状態でした。船といえば戦時標準型と称するお尻が三角に切れた、さびだらけで、船全体がへの字にへたっていたようなものばかりがしょぼしょぼと動いていた時代です。
 日本郵船に就職がかなって最初に乗った船は、“阿蘇丸”という貨物船でした。この船はこの年の初めに長崎の造船所で建造されたばかりの新造船です。ニューヨーク航路に配属されて、処女航海を終えて帰ってきたばかりでした。次席三等航海士という辞令をいただいて乗りました。総トン数は約7,600トン、長さ140メートル、速力16ノット、約30キロです。当時は船客も12名ほど乗せていて、乗組員は60名余いました。もちろん全部日本人で、船籍は日本です。日の丸の旗を掲げて走っていました。外観は大変すてきで、海に浮かんだ姿は大変スマートで、豪華なお城のように思えたものです。
 胸を躍らせながら乗ったのですが、外で見るのと中に入って仕事をするのでは大違いでした。何しろ学校を出たての新米航海士ですから、どちらを向いてもわからないことばかりです。商船学校を出て、ちゃんと海技免状をもらっているのにと、しばし呆然としていました。皆さん忙しく働いている中で、役に立つどころか先輩たちの足手まといの毎日が続いたわけです。
 上司である船長、航海士たちは戦前の誇り高き日本商船隊の経験豊富な士官で、ときには厳しく、あるときはやさしく・・・はないのです。ずっと厳しく、手を尽くしてみんなで育ててくれました。そんなかいもあって、3カ月を過ぎた8月ごろには何とか役に立つ航海士に仕上がっていました。でも私の睡眠時間は平均1日4時間足らずだったと記憶しています。
 8月末、航海を終えて神戸に帰着したとたん、転船命令が待っていました。長崎で次の新造船、“粟田丸”が竣工間近だから、次席三等航海士として乗りなさいというもので、意気揚々と長崎に向かったものです。新造船の受け取りというのは、船乗りにとって大変名誉なことで、みんなの憧れの的になっていました。何はともあれ社会人としては大変華々しい出発をしたと、いま感謝しています。
 たぶんそのころから日本海運は国の繁栄のため、外貨獲得の掛け声とともに加速度をつけながら拡大発展の道を歩き始めたのだと思っています。以来、半世紀が過ぎました。その間、私が乗った船は、練習船を含めて大小26隻、寄港した港の数は日本以外で160港くらいです。国の数は70カ国になりました。これは船乗りとしては決して多いほうではありません。
 私の自己紹介はだいたい終えて本論に入りますが、この50年間にどんな変化があったか、皆さんと一緒に復習をしてみたいと思います。1つは、船腹量の増加です。先日50周年を記念する同窓会がありました。そのときのおみやげに、昔の海運経済新聞社がつくったグラビアを見たのですが、27年7月1日現在で外航船腹量は910隻、総トン数は240万トンくらいという記事が載っていました。最近はどうかといいますと、皆さんもご存じと思いますが、日本の海運会社が支配している2,000総トン以上の外国航路に従事する外航船は、2,000隻、6,900万総トン、何と往時の30倍になっています。世界全体の船腹量は5億2,000万総トンと言われていますので、日本の商船隊は世界の13%を占めていまして、いまや大海運国であると思うべきです。
 なぜかといいますと、日本の人口は1.2億です。船だけは13%です。いま世界の人口が50億とか53億と言われていますから、人口から言えば2%くらいです。それなのに船だけは13%持っています。それから日本を中心に動いている貨物の量は、50億トンくらいのうち9億トンですから20%近いわけです。
 日本はなぜこのように船が多いかといいますと、物資の自給率が非常に低い。世界でも最低の自給率です。日本で完全に自給できるのはお米と水くらいだと言われています。あとはみんな輸入に頼らないといけない。輸入してものをつくってお金を稼ぐ。そのお金で原料を買う。こういう国なわけです。
 いま船腹量の増加を申し上げましたが、船舶の大型化と専用船化ということでお話ししたいと思います。私が航海士だったころの貨物船は、積めるものならば何でも積もうというものでした。ニューヨーク航路の行きの航海は、フィリピンまで南下して、クローム鉱石とか砂糖、コプラと言ってヤシの実のペロペロしたところを乾かしたものを底荷として積んだものです。
 底荷を積んで日本に帰ってきて、神戸、名古屋、清水、横浜と大きな港に寄って、積んだ輸出荷物は皆さんご存じのように、絹製品、綿製品、缶詰や冷凍マグロ、ゆりの根、生きた金魚、陶器など、いわゆる雑貨を満載していました。帰りの航海は、アメリカから石炭、燐鉱石などを底荷として積んで、その上に綿花、ウシの生皮とか、ドラム缶入りの石油化学製品、自動車やテレビのブラウン管まで積みました。要するに原油以外は何でも積んだわけです。積みつけをどう按配するかというのは、当時の一等航海士の腕の奮いどころでした。
 ところが石炭専用船、鉄鉱石専用船、自動車専用船などなど、いろいろな専用船が出現してきまして、その最たるものが雑貨専用船とでも言うべきコンテナ船です。全世界を巻き込んだ輸送革命になりました。日本で最初のコンテナ船が就航したのは、1968年8月、いまから34年前のことです。750個積みでスタートしたコンテナ船はどんどん大型化していって、いまや船の長さ300メートル、6,690個積みというのが主流です。
 2010年には1万5,000個積のコンテナ船が現れるだろうとさえ言われていまして、どんな船か推測してみました。長さはおそらく400メートル、船の幅は65メートル、喫水は15メートル、速力はいまと同じ24.5ノット(45キロ)くらい。9万馬力二つ、総トン数は18万トンくらいと、大変大きなものになります。これはパナマ運河は通れません。スエズしか通れません。
 航海士や船員全体の生活も大きく変わってきました。荷役能率がコンテナ船はものすごくよいので、港の停泊時間がだいぶ短くなりました。1万トンくらいの荷物を積んでいたら、いままで3日や4日は横浜で泊まって家にも帰れたのですが、コンテナ1個分で容積はだいたい30トンですが、これをガチャンとやれば積んだり降ろしたりできるので、ものすごい荷役能率です。単純に計算すると、25倍から30倍になったと言われています。上陸して楽しむ時間も制限されて、エンジンの手入れの時間もままならないようなことになっていました。
 その代わり積み取り計画や船体強度の計算、船の安定性の確認のための計算などは、全部コンテナターミナルにいる航海士、船長が代わってやってくれたものです。私もそのコンテナターミナルで監督として働いたことがありますが、船の船長さん以下、みんなわれわれに任せてくれて、「終わったよ」と言えば安心して出ていくという姿に変わったわけです。
 先ほどちょっと申し上げた鉱石専用船の鉄鉱石の積み取りの状況を、今日はサービスとして物語としてお話ししたいと思います。私が鉱石船に船長として乗ったのは、昭和45年12月でした。新鋭鉱石船“ボリバー丸”、“カリフォルニア丸”が相次いで野島崎東方海上で荒天のため沈没した翌年でした。私が乗ったのは“富秀丸”という6万トン積みですが、真冬の北太平洋航海ということで、いささかぶるっていました。でも後ろを見せるわけにはいかず、覚悟を決めて出発しました。
 行き先は南米チリのウワスコというところです。鉱石積み出し専門の港で、ウワスコヘ行くには世界で最も長い航海をするわけです。片道1万海里、だいたい1カ月、30日たっぷりかかります。速力14ノット、約25キロの船でトコトコと太平洋を下がっていくと言うと叱られるのですが、南へ降りていきます。途中、何も見ません。イルカとクジラくらいです。島影1つ、ヤシの木1本見ないでチリヘ行きます。これは地球上で考えられる最も長い航海だと思っています。往復すればほぼ地球1周に相当します。
 皆さんご存じでしょうか。人間の生理を研究しているある学者さんの説によりますと、正常な男性は毎日平均300人くらいの女性の姿を見ていないと性的なバランスは取れないという説を発表しています。ではわれわれはどうなるのか。全然女性はいないわけですから、ゼロです。でもかえって女性が介在しないほうがいろいろな煩わしいことから逃れられて、精神的には大変平和な世界を楽しみました。不思議ですが、そう言っていいと思います。なまじっか1、2名女性が乗っているとかえってトラブルが多いということだと思います。
 このころから日本の粗鋼の生産量が世界1位になりました。1億トンを超えたというニュースが飛び交っていました。当時、鉄鋼メーカーのオーナーが次のようなことを言っていました。「日本の繁栄にとってげに感謝すべきは、低賃金で勤勉に働く日本人船員の存在である。」世の中はすっかり変わって、いまや日本人船員はコストの塊のように言われています。世の中変われば変わるものです。
 ハワイの沖を通過するまではラジオ放送が聞けますが、毎日が先ほど申し上げたように海また海です。日本を出てからずっと時化続きで、北西の強い風と大きな波、うねりに船はぐらぐら揺れどおしです。12月半ばに出たわけですから、間もなく正月になります。「これではおちおち酒も飲めないじゃないか。キャプテン何とかならないの」と、乗組員は口には出しませんが、顔にそう書いてあります。
 思い切って、南に落とせば少しは静かになるだろうと、ちょっと遠回りになりますがコースを変えてみましたが、北緯15度くらいではほとんど変わりなく風が吹いていました。ようやく静かになったのは大晦日です。北緯7度30分、赤道無風帯と呼ばれているあたりです。南半球に入りますと快適な航海が続きますが、真冬の低気圧、われわれは旋風と呼んでいますが、これはたった1つで北太平洋全部を覆ってしまうほど勢力が強いわけです。帰りが思いやられるのですが、南半球に入れば快適に過ごしていきます。
 やがて南米の山々が見えてきます。西日を受けた山肌は、ところによってはいろいろな色になっています。緑色がかった山は胴がたくさん含まれているだろう。赤茶けているのは鉄に違いない。いろいろ想像するのは楽しいです。金色に光った山もあります。これはきっと金山だろう。これは嘘です。
 久し振りの陸地にまみえて南米西岸の海図に目をやりますと、日本人にはとても親しみやすい地名が多いのに気がつきます。大きな声では言いにくいのですが、南米東岸のベネズエラには、マラカイボという港があります。ペルーにはチンボテとかサマンコ湾というのがあります。きわめつけはチリにあります「Iquique」です。どう読もうと勝手ですが、われわれはこれは「イクイク」ではないかと言って笑ったものです。現地に行ったら、これは「イキケ」と読むそうです。立派な港です。私も雑貨船で行ったことがありますが、そういうところを通って1月半ばごろに1カ月の航海を終えてウワスコの港に着きました。
 港といっても簡単な繋留施設と鉱石積み込み装置があるだけの岸辺です。上陸設備はいまにも沈みそうなポンツーンが2つばかりです。ポンツーンというのは浮き桟橋のことですが、これで船と陸をつないでいるだけです。町はどこかと見ますと、遠くのほうにホコリのなかにかすんでいて、とても訪れてみようという気にはなりません。離れ小島そのものです。荷役が始まる前にやるべき大きな作業があります。これはハウスの出入り口1カ所を残して、すべてのドアの隙間に目張りをすることです。鉄鉱石を積んでいる間に粉塵が入ってこないようにするためです。
 6万トンの鉱石を積み終えるのに約1週間かかりました。前、後ろ、真ん中とバランスよく積まないと、船体に危険な応力がかかります。マニュアルに従って慎重に計画し、荷役業者と打ち合わせしながら荷役を開始します。南米東岸のある港での出来事ですが、鉱石積み荷中、船長ほか幹部乗組員は上陸して一杯飲んできたのでしょう。夜帰って見たら、船は折れて沈没していたという笑い話があります。おそらく積みつけをマニュアルどおりやらなかったために船が折れたのだろうと思います。もちろん船も古かったのだと思いますが、そういうことで鉱石積みというのはばかにできません。
 ですから鉱石を満載して走る北太平洋のしけは恐いです。風が強くなりだすと、間もなく波が高くなってきます。船が大きく揺れ出します。波の高さはすぐに10メートルとか15メートルくらいになります。
 この写真は沖のほうを見ると白波がないので、わりと静かなとき、しけの始まりでしょう。うねりがだんだん回数を増やして船のほうに寄ってきます。たまたまタイミングが合うと、船でうねりを切るわけです。こういう状態が時化てくると連続で起きてきます。これはまだいいほうです。20から25メートルくらいに達します。嘘ではないかと言いますが、ハワイの北西海岸では25メートルの波が必ず出ます。サーファーはそれを楽しみに静かになるので、また頭を戻して日本に帰ってくる。こういう航海をやっているわけです。
 次は、専用船がどんどん出てきたあとは、便宜置籍船というのが出てきました。これはコンテナ船の出現と同じくらいの大変革とも言うべきもので、コストセーブの観点からは大変メリットがあります。これをやらないと世界との競争上太刀打ちできないというものです。いま日本海運が事実上支配している外航船、約2,000隻のうち、日本籍船はわずか5%の100隻です。あとの1,900隻はパナマとかリベリアに籍が置かれています。
 越境入学などをするときに住民登録を変更しますが、あれと同じです。税金の安いところへ船の本籍を置くわけです。そうするとパナマとかリベリアは安いので費用がかからない。そのほか日本の船員法の適用がありませんので、自由にコストの安い外国人船員を使うことができます。
 調べてみると、コンテナ船も便宜置籍船も実はアメリカの発明です。両方ともいま世界に蔓延していますが、歴史的に見ても決して海運国ではない国の発想であるということにちょっと戸惑いを感じています。ニューヨークのハドソン川の上流につながれた太平洋戦争の遺物であります数百隻の戦時標準型船、“ビクトリー”とか“リバティー”と言うのですが、これの処理に頭を悩ませたアメリカが考えた末、便宜置籍ということになったと聞いています。
 これはどういう仕組みかといいますと、パナマとかリベリアに仮にABCという名前のペーパーカンパニーを私がつくるとします。申請書にわずかなドルを添えて申請すれば、いたって簡単に会社を設立できます。ABCという会社は日本とか韓国の造船所に船を発注します。できあがった船はパナマ籍なので、パナマの国に登録税を払い、毎年固定資産税を払います。30万トン積みのタンカーの場合、初年度約250万円ほどの支出です。これを日本籍にすると、何と2200万円かかります。これは船主協会が調べて、国会討議の場にも出した数字ですから、間違いないと思います。
 それだけではなく、国土交通省、いま大蔵省は財務省と言うのですか、それから通産省、法務省など、たくさんの省庁が船1隻のためにいろいろな手続きを要求してきます。煩雑きわまりない。ということで日本籍にするとよいことは何もないわけです。ですからみんなこぞってパナマとかリベリアに籍を置きたがります。
 船ができますと、事実上のオーナーである私はすぐにその船を借り受けて商売をします。
 そして事実上は日本の会社がつくって、日本の産業のためにものを運んでいる船でありながら、日本籍ではないために船名から「丸」の字が消えました。日の丸の旗さえ掲げられなくなっているわけです。
 最近ではオーナーは、船の運航に関することを別の会社に一定額で任せるようになりました。船舶管理会社と言います。乗組員の採用から教育、船の運航に必要な費用の負担、安全運航管理、船舶資産管理、保船整備、競争力維持のためのコスト管理、すべてやるわけです。そういうわけで、たとえば6,000個積みのコンテナ船、または30万トン積みのVLCCの乗組員構成は、全員が外国人のこともあるし、2〜5人の日本人キーマンを乗せたうえで、あとは外国人、合計22名から24名というのが標準になっています。
 これに関連して、国際船舶制度というのがあります。これはそういった便宜置籍船になっていくことを、国旗が外へ出ていくという字を書いてフラッグアウトと言いますが、これを少しでも防ごうということで、国がいろいろ考えてくれた結果の制度です。外国航路に従事する日本籍船を国際船舶と呼んで、10%くらいの税制上の優遇措置を設けて、外国人船員、部員との混乗を認めています。外航船2,000隻中5%に当たる約100隻が国際船舶と呼ばれている日本籍船です。







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