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海の救命ボランティア
 目の前で、溺れかけている人を見たとき、難破船にしがみついて漂流している人を見つけたとき、あなたならどうしますかと聞かれたら?恐らく人々の多くは、何とかしてあげたいと思い、また、勇気ある人々は、直ちに救命のために行動すると答えるだろう。
 太古の昔から、人々はお互いに助け合い、ある時は、無事救助に喜び合い、またある時は、救助のために命を落とし、悲しみ合いながら生きてきた。
 やがて人々は、救命のための組織を作り、常時、救助のための体制を確立しておくことを考えた。明治22年に発足した大日本帝国水難救済会がまさにそれである。多くの遭難船や人命を救助して今日の日本水難救済会に引き継がれている。
 海上保安庁ができた戦後においても、日本水難救済会は津々浦々にボランティア組織を展開し、海上保安庁の救難活動を補完している。
 また、海水浴場の水難者救助のためにライフセービングの組織が立ち上がり、ライフセーバーたちがボランティアで監視と救助の活動にあたっている。
 ここでは、これら救命のために活動する団体やその特徴などを取り上げてみた。
 
特定非営利活動法人 救助長 遠藤 勇(えんどう いさむ)
遠藤勇さん
 
能登水難救済会穴水救難所 部長 松村 正揮 (まつむら せいき)
松村正輝さん
 
穴水救難所の誕生まで
 私たちの穴水(あなみず)では、およそ20年ほど前に中居マリン協会として発足したものが、穴水救難所の前身でした。マリン協会は、ほとんどがプレジャーボートの人たちでした。遠藤と村松は専業の漁業者でしたが、たまに釣客を乗せて遊漁をすることもあるので親睦を図る意味からもマリン協会に参加しました。
 中居マリン協会は、勉強会で地元の海上保安部から講師を呼ぶようになり、その内、小型船安全協会に入会することになりました。現在は七尾に事務局がある能登支部所属団体として活動しています。河端現穴水救難所長である、中居マリン協会会長の熱意もあって、平成11年3月に七尾で決起集会を開いて、日本水難救済会能登救難所が立ちあがりました。さらに、翌12年2月には能登水難救済会に発展、合わせて穴水救難所が河端所長のもと所員40人で発足しました。また、平成13年7月にNPO(特定非営利活動法人)として認定されました。
 能登半島の沿岸市町村では、門前町(もんぜんちょう)と富来町(とぎちょう)にはまだ救難所ができていませんが、能登半島は大体カバーできたといってよいと思います。
 われわれの河端所長は、本業の建設業の傍ら、地元の議員をつとめ、趣味のプレジャーボートにも熱心な人で、所員一同をよくまとめてくれています。なお、中居マリン協会としての会費は、1人年間2,000円ですが、この活動は、ほとんどボランティア活動でやっています。
 
年に一度の訓練
 救難所としての訓練は、1年に一度、七尾海上保安部の保安官が、主として、座礁や転覆を想定した救助のやり方を指導してくれます。具体的にいろいろと教えてくれますので大変参考になる訓練です。
 後から述べる転覆船の5人を救助したときは、事故の1週間前に穴水救難所と中島救難所との防災訓練が穴水であり、私たちは、七尾海上保安部の保安官から救助訓練の指導を受けたばかりでした。その救助ははじめての経験でしたが、訓練を受けたばかりの救助活動でしたので、あわてることもなく要領よく救助できたと思います。
 
転覆事故発生
 平成13年9月16日、午前8時00分ごろ、穴水町中居入の入口海域において、穴水町日詰川の係留地に向けて帰港中のプレジャーボート豊信英康司丸(和船型、長さ6.4m、幅1.2m5人乗組)が横からの大波を受け転覆、5人が海中に投げ出されました。5人は転覆した同船の船底につかまり、防水型携帯電話で118番通報しました。
 
松揮丸に曳航された豊信英康司丸
 
救助に成功
 118番通報は、先ず、新潟の第九管区海上保安本部に入り、直ちに現場に近い七尾海上保安部に伝達され、そこから穴水救難所に知らされました。本来、七尾保安部からは、河端所長のところへ電話があるところ、この日は河端所長不在のため、遠藤救助長の家に電話で、転覆船の救助に出てもらいたいとの依頼がありました。遠藤救助長は、直ちに松村部長に連絡、遠藤所有の山岸丸、松村所有の松揮丸にそれぞれが乗り込み、救助に向かいました。
 このとき、南西から1Omの強風が吹く中、約10分で現場に到着、同プレジャーボートにつかまり救助を求めている5人を発見しました。まず、これで全員かと聞いて、5人の他にはだれもいないことを確認しました。ただちに、松揮丸を同船に横付けすると、元気な5人は自力で飛び乗ってきました。救助されたのは、船長千田豊(54歳)、乗客柳下英生(57歳)、同吉本信行(57歳)、同松川康治(57歳)、同福田武司(57歳)の5人でした。なお、転覆した同プレジャーボートは松揮丸が岸壁まで曳航しました。救助に出動して救助、帰港するまでは約30分ぐらいだったと思います。
 
船底を見せる事故船豊信英康司丸
 
岸壁まで曳航された事故船
 
 なお、事故現場は、暗礁のため水深が浅く波立っており、自分たちの船も転覆や乗揚げの危険にさらされていましたし、救助が遅れると、転覆船の船体が護岸テトラポットに打ち付けられて破壊する恐れがありました。また、漂流を長く続けると転覆船に掴っている5人も次第に力尽きて行方不明になることも心配しました。
 七尾海上保安部からは、巡視艇「はまゆき」が出動しましたが、現場までの距離が結構あったため、私たちが救助を終えて岸壁にもどったころ到着しました。それでも巡視艇の到着は早いと思いました。もし、穴水に私たちのような水難救済の組織がなかったらと思うと、胸をなでおろしたものでした。
 
経験を振り返って
 われわれは、今回の経験を振り返って考えさせられたことがあります。まず、日ごろの訓練の大切さを痛感しました。今後とも関係した訓練には積極的に参加していくことにしました。それから、外に目が向くようになりました。穴水付近の海では昔から事故がほとんどなかったのですが、まさかと思うような事故が現実に起きたのですから、風に対する関心が強くなりました。漁に出ているときでも小さな船を見ると気になるようになりましたし、風が強くなるとあの船は大丈夫かなあと心配するようになりました。
 
問題点と幸運だった点
 次にこの体験で問題と思ったこと、幸運だったと思ったことを述べてみます。
(問題点)
(1) 同船は、この日午前5時に出船したというが、この日の風からみて無理な出船ではなかったか。専業のわれわれは操業を見合わせていた。
(2) この付近は山かげの静かな海域があるので、そこで釣をしようと考えたと推察されるが、その辺に判断の甘さがありはしないか。ブイに掴って釣るつもりだったといっていた。
(3) 助かった後も、エンジンを入れ替えて、われわれ漁師が休んでいる日にまたまた海の荒いときに出船しているので心配だ。
(4) 和船式のプレジャーボートは、船体が細くて長いので安定が悪いのではなかろうか。ローリングも大きいと思うし、海と船の知識が乏しい人たちのようで、波をかぶるとみなが片舷に寄って乗っているらしい。これでは船の安定がわるい。
(5) ブイに掴ろうとしたとき大波がきたので、エンジンを急にふかして急舵を切ったともいっていた。船のことがよく分かっていないようだ。
(6) 5人のうち、1人だけ救命胴衣を着用していたが、あとはカッパだけだった。救助後に調べたら、救命胴衣は船尾のハッチの中に入っていた。
 
事故船を調べる海上保安官(帽子の人)
 
(幸運だった点)
(1) 事故の前日が祭りだったことと、当日は風が強く休漁していたので、幸い私たちが家におり、救助の対応が早くできた。
(2) 5人の中の1人が防水の携帯電話を持っていたので転覆後118番通報に成功した。
(3) われわれが救助訓練から1週間しか経っていなかったので、救助活動が自信をもってスムーズにできた。
(4) 9月で水温が比較的高かった。
(5) 当時の風向きが南西でよかった。もし南なら転覆船が護岸テトラポットにぶつかって大破する恐れがあった。
 
功労表彰・・・この項、編集者記
 この海難事故の救助に当たられ、遭難した5人全員を無事救助された穴水救難所の遠藤救助長ならびに松村部長には、後日、七尾海上保安部長および日本水難救済会会長から功労表彰が贈られました。
 表彰の文面はご両人ともまったく同じでありますので、救助長の遠藤さんが受けられた表彰状を紹介します。
 
 







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