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◆「並行解決」方式の挫折
 すでに指摘したように、いわゆる「拉致疑惑」が重要な外交課題として登場したのは一九九七年以後のことである。それを「遅い」と批判するのは容易だが、それ以後、日本政府が当該問題を日朝国交交渉と連結させ、外交懸案として解決しようとしたのは当然のことであった。なぜならば、日朝国交正常化こそは、それに付随する大規模な経済協力とともに、日本側が持つほとんど唯一の外交カードであったからである。事実、「拉致疑惑」問題が存在しなければ、あるいはそれが国交正常化後に解決可能な問題であれば、日朝交渉はいま少し容易に進展したはずである。
 また、それ以上に本質的な問題として、金正日政権が存続する限り、日本側の強硬ないし対決的な政策によって「拉致疑惑」の被害者たちを容易に救済できるとは考え難かった。このような場合、通常取りうる最も強硬な手段は相手国との国交断絶であるが、そもそも、日本と北朝鮮の間には国交が存在しないのである。日本国憲法に違反して、かりに自衛艦隊を平壌沖に派遣して砲艦外交を展開してみても、北朝鮮政府が日本側の要求に応じたとは思えない。われわれが相手にしているのは、植民統治の歴史が清算されないまま、日本に敵愾心を燃やしている旧植民地政権なのである。さらに、朝鮮戦争当時の経験から考えて、金正日政権の崩壊時に、被害者の安全が保障されると考えるのもナイーブである。
 事実、テポドン以後に試された「抑止」政策でさえも、国際的には、それを継続することが困難であった。例えば、テポドン以後まもない十月に韓国の金大中大統領が日本を訪問し、北朝鮮政策に関する「日韓協調」を要請したし、十二月には、ペリー元国防長官の日韓両国訪問を通じて、日米韓三国の政策協調が合意された。それにもかかわらず、日本政府がKEDOへの資金協力を凍結し続けることは不可能であった。その結果、翌年一月の施政方針演説で、小渕首相が北朝鮮に「建設的な対応」を呼びかけ、二月の日韓外相会談で、高村外相が日本の政策を「対話と抑止」と再定義せざるをえなかったのである。
 したがって、一九九九年九月に金倉里の地下施設をめぐる米朝交渉が妥結し、北朝鮮外務省がミサイル発射の一時停止を声明した後、十月に日朝両国の外交当局者がシンガポールで非公式に接触し、テポドン以前の双方の立場を確認し合ったのは当然のことであった。また、十二月には、村山元首相を団長とする各政党代表団が北朝鮮を訪問した。代表団は民主党や共産党を含む七党派と無所属議員から構成され、自民党の野中広務・前内閣官房長官が幹事長になった。村山代表団の目的は「政府間の国交正常化交渉を円滑に行うための環境を整備する」ことであるとされた。
 懸案の「拉致疑惑」について、村山団長は交渉再開と人道問題を「並行的に話し合って解決する」ことを提案し、金容淳書記がそれに同意した。両者の討議が順調に進展したのは、「前提条件なし」の交渉再開で意見が一致したためだけでなく、拉致疑惑、日本人妻の故郷訪問、食糧支援などが、いずれも「人道問題」として一括されたからである。その過程で、金容淳は「拉致」という言葉を不適切として、赤十字による「行方不明者」の再調査を約束した。これらの合意を整理して、翌年一月の施政方針演説で、小渕首相は日朝交渉の目標を国交正常化、人道および安全保障の三点に要約したのである。
 こうして、二〇〇〇年四月、日朝国交正常化交渉の第九回本会談が七年五ヵ月ぶりに平壌で開催された。しかし、その直後の四月十日、ソウルと平壌の双方で南北首脳会談開催の合意が発表され、日本政府は再び新しい状況に直面した。それまでの日米韓の三国協調とは異なる南北対話のベクトルが発生し、国交正常化を後押しし始めたからである。もはや後退することは不可能であった。事実、森首相は平壌を訪問する金大中大統領に託して、金正日総書記に日本側の「強い意欲」を伝えたのである。問題は北朝鮮側が本当に「並行解決」に応じるかどうかであった。
 しかし、交渉の停滞を恐れた日本政府が五十万トンのコメ追加支援を決定したにもかかわらず、南北首脳会談後に開かれた第一〇回本会談においても、北朝鮮側の主張に大きな変化はなかった。「徹底した謝罪と十分な補償」を含む過去清算がなされれば、他の問題は容易に解決できるとの主張を繰り返したのである。それどころか、十月末に北京で開催された第一一回本会談で、北朝鮮側はついに交渉を決裂させてしまった。金正日総書記の右腕である趙明禄・国防委員会第一副委員長(人民軍総政治局長・次師)のワシントン訪問とオルブライト国務長官の平壌訪問に勇気づけられて、日本外交の孤立を演出した上で、拉致疑惑の棚上げとより大きな代償を獲得しようとしたのだろう。
 
 
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