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◆拉致者救出運動の高まり
 横田めぐみさん拉致のニュースが報じられ、横田さんのご両親が活動を決意されると、全国的に拉致者を救出する運動が高まった。一九九七年三月二六日には横田滋氏を会長とする「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会が発足した。そして一〇月四日には「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」が東京で結成され、会長には現代コリア研究所所長佐藤勝巳氏が就任した。九八年四月には各地の団体をあつめた「北朝鮮に拉致された日本人を救出する全国協議会」が生まれており、会長は佐藤勝巳氏、事務局長は現代コリア研究所研究部長荒木和博氏である。『現代コリア』編集長西岡力氏は関東協議会会長である。全国協議会の事務所は現代コリア研究所に置かれた。
 安明進の情報も時とともに進化することをやめない。安は一九九八年三月に『北朝鮮拉致工作員』という手記を徳間書店から公刊した。その中の「えくぼの可愛らしい日本人少女」という章で、あらためて横田めぐみさんについて詳細に語った。彼は、「一九九七年年頭、日本のあるマスコミの記者に新潟で拉致された日本人少女の話をした時は、まだ彼女の名前を知らなかったし、日本でこの事実がどれほど知られているのかもまったく無知だった」と書き出しているが、この最初の書き出しからして事実に反する。横田めぐみさんの拉致という大きな新聞記事を前に出されて、彼女を知っていると言ったのである。ついで、「現在も生々しく記憶しているのは、私たち・・・学生がじっと見つめると、恥ずかしがって顔を赤くして頭を下げていた彼女の姿である。特に彼女が笑うと深く窪んだえくぼは、見る人に心優しい印象を与えていた。」と書いているところは、えくぼの存在を彼が知っていたというので、安の証言の真実性を示すものとされていく個所である。しかし、時が経つにつれて、描写がこまかくなり、ついにえくぼの存在まで発見するというのは、逆に真実味がとぼしい。えくぼが印象的なら、なぜ最初に言わなかったのか。産経新聞の九七年三月インタヴューで語った化粧の濃さなどの話と九八年のえくぼの話は、あまりに異なった印象をあたえるものである。じっさい母親の横田早紀江さんすら、えくぽのことを聞かれて、「めぐみにはえくぼがあったかしら」と考え込んだほど、目立たないものであった。「まん丸の顔をしていますし、ポコンと引っ込むようなえくぼではない」のである。だのに、安は「深く窪んだえくぼ」が強い印象をのこしたと書いているのは、むしろ疑問を生むと言わざるをえない。しかし、逆に、このえくぼの話は、安の証言の信憑性を示すものとして、喧伝された。横田さんのお母さんも、このえくぼのことで、安の話をいっそう信じるようになったという。
 この本では、教官から日本人少女の拉致のことをまず聞き、その少女がこの大学にいると教えられた、その少女に会いたいと思って、機会を待っていたと書いている。これも九七年証言の修正である。
 さらにこの本で付け加えられたのが、拉致後、彼女は船倉に閉じこめられていたとき、「『お母さん、お母さん』と叫んでおり、出入り口や壁などをあちこち引っかいたので、着いてみたら彼女の手は爪が剥がれそうになって血だらけだったという」という話である。これはみてきたようなフィクションであろう。しかし、この話は横田早紀江さんには耐え難い印象をあたえることになった。(注)
 
(注)安明進は九八年七月から八月にかけて、救出運動団体の招待で二度目に訪日したさい、新潟と柏崎を訪問し、「拉致」現場を見たさいに、またまた修正をおこなった。このことは『サンデー毎日』二〇〇〇年一一月一二日号の記事が指摘する点である。安はそのときまでは工作員が海岸から脱出しようとしているところを彼女に見られたので、拉致したと言ってきたのだが、めぐみさんが下校して帰宅するコースは海岸からはなれており、視界も完全に遮られていて、現場を見ると、話がなりたたないのが明らかである。そこで、安は、『現代コリア』側の推測、「すなわちめぐみさんは路上で拉致され、車で連れ去られた」という説を受け入れることになったのである。この点について、荒木和博氏は次のように書いている。「安氏によれば横田さん宅に近い寄居浜は護国神社の林などで陸地側からは視界が遮られ、侵入するには適当だが、失踪当時の捜索で警察犬が止まった場所(現在の新潟大学付属小学校前)から海岸への距離を考えると、その場所で拉致されたと考えるのが適当だ。車を運転したのは、当然ながら北朝鮮工作員ではなく、総聯系在日朝鮮人の協力者であろうとのことだった。・・・安氏の想像では『子供をつかまえてきた』とは言いにくかったので、『見られたのでしかたなく拉致した』と言った可能性もあるとのことだった。」(『現代コリア』一九九八年九月号)。現場を見て、それに合うように、きいた話を修正することによって、伝聞と現場の情況のギャップをなくすのなら、そのような証言者の証言能力に疑問が生じるというべきであろう。
 
 石高氏の方は、一九九八年四月に、九六年の本を朝日新聞社の文庫本にするにあたって、大幅に加筆修正を行った。まず序章「空白の二十年」が置かれ、横田めぐみさんの拉致が語られた。ここには、九七年の本の内容が当然に取り入れられているが、驚くべきことは、安明進の横田めぐみ証言については、一切カットしたことである。横田めぐみさんの両親を安に会わせたことさえ一言も書かれていない。安の九七年以降の証言は石高氏の九六年の本に収められた安明進の九五年証言と明らかに食い違っていることを石高氏としては意識せざるをえなかったのであろう。石高氏は安の横田めぐみ証言は偽りだと思い始めたのだろうか。
 文庫版の第五章は「消えたアベックは平壌にいた」と題され、安明進とのインタヴューを内容としているが、いくつかの修正が加えられている。安が大学で見た日本人の数を「二十人くらいいる」と述べていたのを文庫版では「十一、二人いる」と減らしている。また日本人を見た機会は、原本では、指導者の誕生日や記念日に党から人がきて、講義をした、日本人は彼らだけで会議室で講義をきいた、その折、開いたドアから中をのぞいて、日本人の顔を見たと書いてあったのに、文庫版では、日本人は式典に参加した、「彼らだけ特別の会議室に入れられて講義を受けることもありました」と、式典参加と特別室講義の二本立てで説明している。もっとも大きな違いは、原本にあった「俺は日本へ潜入し、日本人を二人連れてきたことがある」と安に語った教官の言葉をこの文庫本では一切カットしたことである。安の九五年のこの発言の部分は九七年の安の発言と決定的に矛盾するからであろう。石高氏は安の横田めぐみさん発言をこの本にもりこむことはしなかったが、それと矛盾する発言は除去して安を助けているのである。
 
 
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