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◆戦争シナリオと軍重視思想
 今回公表された黄書記の陳述書や書簡のなかで、私が最も注目したのは、黄書記が北朝鮮の危機的な状況を食糧や経済困難から説明しており、自らの亡命申請にもかかわらず、「内部崩壊」シナリオを否定しつつ、むしろ「戦争」シナリオに強い懸念を表明している点である。例えば、黄書記は「封建社会でも、これほど状況が悪くなれば農民暴動も起きそうだが、独裁体制があまりに厳しく、弾圧があまりに無慈悲なため、人民が自らの力で苦しみから抜け出すのはほとんど期待できない」と指摘しつつ、「共和国は今、若干の経済的困難に直面しているが、政治的にはよく団結しているため、共和国が崩壊する危険性はない」と断言している。
 また、そのうえで、黄書記は食糧援助の必要性を力説し、それを戦争を防止するための手段として位置付けている。例えば「現在の状況では、戦争のほかに出口はない」とか、「(食糧)援助をしたからといって、北が豊かになり、軍隊が強くなるわけではない。ただ糊口をしのぐだけだ……だが、援助をしてもらえばいくら秘密にしても庶民には(韓国からの)援助がわかるようになる。これだけが戦争を防止する道だ」と指摘している。
 もちろん、北朝鮮内部の「政治的な団結」がそれほど強固なものであるかについては、異論がないわけではない。黄書記の亡命やそれに続く粛清が「経済危機から政治危機への転換」の第一歩であるというのが、筆者の見解でもある。
 しかし、それにしても、農民暴動が不可能であり、指導部の「政治的な団結」が維持されるからこそ、食糧危機がさらに深刻化して危険な段階に到達すれば、暴動、暗殺、クーデターなどの「内部崩壊」シナリオよりも、北朝鮮主導の「戦争」シナリオが動き出すとの黄書記の主張には、明確な論理的一貫性が存在する。いいかえれば、国民に対するイデオロギー教化が進展すればするほど、また金正日書記を中心に北朝鮮指導部が団結し、軍部の比重が高まれば高まるほど、「内部崩壊」よりも「戦争」の可能性が高まるのである。
 その意味で注目されるのは、金正日誕生五十五周年(二月十六日)慶祝行事の報告において、金己男書記が「わが党の赤旗思想は偉大な領導者金正日同志に対する絶対的な崇拝心であり、透徹した領袖決死擁護精神である」と指摘し、さらに「全社会を赤旗思想で一色化する闘争」を呼び掛けたことである。また、「赤旗思想」の強調以上に重要であるのが、党・軍・人民の「三大一致」ないし「偉大な渾然一体」の要求である。金永南副首相兼外相が読み上げた労働党中央委員会、同党中央軍事委員会、政務院(政府)の共同祝賀文において、それは「革命軍隊が革命の主体の核心勢力、主勢力をなし、軍隊が正に人民であり、国家であり、党だ」という「(金正日同志の)独創的な軍重視思想」として定義された。
 北朝鮮では、二月十六日の金正日書記の五十五歳の誕生日を機会に、黄長Y亡命事件があろうとなかろうと、最高指導者の絶対視だけでなく、軍隊の役割の異常なほどの強調、すなわち金正日書記の「軍重視思想」(軍=党)が公式化されたようである。そうだとすれば、亡命事件を契機として南北関係が再び険悪化し、その結果、国際的な食糧支援が不可能になり、北朝鮮の食糧危機がさらに深刻化するというような事態は、金正日政権を戦争に追い込む危険な道であるということになる。当面の最大の問題は戦争を回避することができるかどうか、そのために何をなすべきかということであり、「軟着陸」が可能かどうかというような議論は十年後でも遅くない。
 
 
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