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産経新聞朝刊 2002年10月14日
放置された拉致事件 沈黙破った家族の勇気
 
 九月十七日の日朝首脳会談で大きく動き始めた北朝鮮による日本人拉致事件。十五日には被害者五人が帰国することになったが、事件はそれまで二十年以上、事実上“放置”されていたといってもいい。多くの新聞、テレビも長い間、拉致問題を積極的に取り上げようとはしなかった。新聞週間(十五−二十一日)を前に、被害者家族や取材記者の思いを交え、「拉致報道」を検証する。
 【横田めぐみさん家族】
 昭和五十二年に拉致された横田めぐみさん=当時(一三)=の父、滋さん(六九)と母、早紀江さん(六六)は平成九年に大きな決断をした。韓国に亡命した北朝鮮の元工作員の証言などから、「めぐみさんが北朝鮮に拉致されている」という情報が寄せられたときだ。
 マスコミからの取材にどう対応するか。実名を出すか否か…。滋さんらは悩み抜いた末、実名報道を選択した。
 そして同年二月三日、産経新聞と雑誌「アエラ」は、この問題を実名で大きく取り上げた。
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 「『お嬢さんは北朝鮮にいます』と聞いた瞬間、生きている。ああよかった。すぐ帰ってくると思いました」
 滋さんは当時を振り返っていう。
 情報を寄せてくれたのは国会議員秘書(当時)。詳しい話を聞くため東京・永田町の議員会館へ向かった。電車の中、落ち着かない不安な気持ちになった。「本当なのか。どうやって連れて帰るのか」
 情報はマスコミにも流れた。記者とのやりとりの中で、めぐみさんや家族の実名を出すか。大きな問題に直面した。
 滋さんは迷った末、「リスクはあるけど、黙っていても解決しない」と、実名報道を選んだ。
 「名前を出せば世間も関心を持ってくれる。特に新潟の人は(めぐみさんの事件を)よく知ってますからね。半面、北朝鮮はそんな事実はないと、言い張るために(めぐみさんを)殺して証拠を隠してしまうかもしれない。そうも思った」
 ただ実名の方が、「多くの日本人が知っている、この問題を注視している」というメッセージにもなって、逆に安全が図れるのではないか、という考え方もあった。
 だが、早紀江さんは反対だった。やはり、めぐみさんの身の安全を考えたからだ。滋さんの意見で決断はしたものの半分は納得していなかったという。
 「日本人が外国に拉致されたとなれば、本当は、家族がいわなくても、国が交渉して救出するとか、手を尽くさなきゃいけない」と、滋さんは考えている。
 だが、実際には、拉致問題はまったく進展しなかった。
 やはり家族が声を上げなければならない。
 「みんな黙っていたけど、ここでやらなきゃだめだと感じていたんです」(滋さん)。
 全国からほかの拉致被害者の家族が名乗りを上げ「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成された。記者会見してマスコミにも訴えた。その時、滋さんは「暗闇の中に一条の光が差し込んできた思いだった」という。
 政府も世論も少しずつ動き始めた。
 だが、こうした家族の動きに水を差すような発言もあった。
 「政治家の中には日朝交渉が先だ。国交があれば帰ることもできる、という意見の方もいました」(滋さん)。「あまり騒がない方がいい、といわれた家族もいます」(早紀江さん)。
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 小泉純一郎首相の訪朝、そしてめぐみさんの「死亡」通告。だが、早紀江さんは「そんな話は信じていません。生きていると思って、これからも活動します。よほど考えて(死亡宣告書を)出してきたのでしょうから、大変だとは思いますけど」。
 滋さんは、「拉致を認めさせるところまできた。報道の効果も大きかったと思います」と静かに語った。
                   ◇
 【田口八重子さん家族】
 拉致被害者の家族のうち、最近まで沈黙を守り通してきた家族がある。大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元工作員の教育係「李恩恵(リ・ウネ)」とされた、田口八重子さん=当時(二二)=の家族だ。
 六人兄弟の末っ子だった八重子さんが姿を消したのが昭和五十三年六月ごろ。東京・池袋の飲食店に勤務中、三歳の長女と一歳の長男を高田馬場のベビーホテルに預けたまま行方が分からなくなった。手掛かりはなく時は過ぎ、家族は幼い子供を引き取った。
 六十三年一月、事態が急展開する。大韓機事件の実行犯、金元工作員が韓国捜査当局の調べに「日本人の教育係がいた」と答えてからだ。
 警察庁が身体特徴や似顔絵を公表すると、家族からは「八重子じゃないのか」という声が上がった。そして平成三年五月、金元工作員の証言で李恩恵は田口さんであることがほぼ判明した。
 だが、当時は一部の報道機関以外、ほとんどの報道機関が対北朝鮮関係に配慮して拉致の可能性を大きく扱わず、李恩恵についても「拉致被害者」ではなく、「工作員の協力者」と映りがちだった。
 「家族もスパイなんだろう」などと、心ない電話がかかることもあった。ある親族は「被害者なのに、どうしてこんな苦しい目に遭わなければならないのか…」と思ったという。
 家族は公の場に出ることを避け、家族の会にも加わらなかった。長い沈黙の時間が続いた。だが、先月の日朝首脳会談で、拉致問題は大きく動きだす。
 小泉純一郎首相と家族が面会する直前の九月二十六日、田口さんの家族は「真相を知りたい。他の家族と一緒に問題解決を訴えたい」と初めて公の場に姿を見せた。
 記者会見で、八重子さんの長兄、飯塚繁雄さん(六四)は、十一年間の思いを吐露した。
 「ここに出てくるのには、かなり勇気がいった。『教育係』の枕詞(まくらことば)があまりに大きく、加害者として伝えられたイメージに苦しんだ」
 家族のマスコミ不信は今も強い。
 政府の訪朝調査団が帰国した二日、埼玉県庁で会見した繁雄さんは、「今でも報道を見ていると、妹が犯人側にいるというイメージが強いのではないかと思う。そのたびに相当、胸が刺される思いがする」と訴えた。
 そして、「妹も拉致されたわけで、仮に教育係をしていたとしても、それは強制されてやっているに過ぎない。だからあくまで被害者。そういう観点で報道するよう、心がけてほしい」。家族の心の傷は、いまだに癒えていない。
【写真説明】
 横田めぐみさんの生存を信じて活動を続ける両親の滋さんと早紀江さん=川崎市の自宅
 
 
 
 
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