朝日新聞朝刊 1998年6月7日
北朝鮮の姿勢を憂える 拉致疑惑(社説)
「日本側が求めている人物は、わが国領土内には存在せず、過去に入国もしくは一時滞在したこともない」
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員に拉致された疑いがある、と日本の捜査当局が認定した日本人男女十人の行方について、北朝鮮側の調査結果が伝えられた。疑惑の全面否定である。
行方不明者の身を思う家族はむろんのこと、この回答をそのまま受け入れることができる人はいないのではないか。
ここには、日本側が疑惑の根拠としている、北朝鮮工作員の関与を示す状況証拠や、韓国に亡命した元工作員らの証言などについて、どのような調査が行われたのかが、まったく明らかにされていない。
朝鮮赤十字会の声明にあるのは、疑惑がもたれている事件が集中した一九七〇年代以降、外国から北朝鮮に移住した現在三十歳以上の人々について身元を照会したが、十人の日本人に該当する人はいなかった、というだけである。
拉致の疑惑が日朝間で浮上した大きなきっかけは、大韓航空機の爆破を自供した金賢姫元死刑囚が、日本から拉致された「教育係」の存在を証言したことだった。
それからすでに十年である。北朝鮮当局にしてみれば、この調査結果によって、疑惑を否定し続けてきた主張の正しさを証明したということなのだろう。
認める可能性ははじめからなかったのではないかという悲観論が、日本国内にはある。大韓航空機爆破をはじめ過去の大きなテロ事件についてさえ、北朝鮮はいまなお関与を認めていない。
国際社会から孤立し、個人崇拝の独裁体制のもとで、特異な軍事外交政策をとるこの国が、こうした問題で譲歩するわけはない、という見方も根強くある。
しかし、どうであれ、問題を放置することは許されない。再調査の要請はむろんのこと、政府も各政党も、北朝鮮に疑惑解明を促す努力をさらに強める必要がある。米国や中国を通じて、あるいは国連の場で、問題を一歩でも二歩でも前に進めなければならない。
同時に、恐れなければならないのは、拉致疑惑をめぐる北朝鮮の姿勢が日本の世論を冷え込ませ、日朝関係の悪化や、朝鮮半島の安定に貢献すべき日本の手足をしばってしまうことである。
行方不明となっている人々の家族の間には、日朝間の国交正常化交渉や北朝鮮への支援に賛成できないという声がある。肉親の情としては当然かもしれない。
しかし、朝鮮半島の緊張をやわらげるには、構造的な食糧、経済危機をかかえる北朝鮮に必要な援助を続けつつ、軍事的な暴発を防ぎ、開放を促していくしか道はない。それがもうひとつの現実である。
ワシントンで今週行われる米韓首脳会談では、北朝鮮への経済制裁の緩和が焦点となる。また、調整が難航している北朝鮮への軽水炉供与事業の費用分担も、議題となろう。いずれも、日本の態度がきわめて大きな意味をもつ課題である。
食糧支援への慎重論が永田町に強まっている。日本の厳しい世論を北朝鮮側に伝えることは大切だ。しかし、感情的に対するだけで、事態が前進するわけではない。
拉致疑惑の解明は急がねばならない。朝鮮半島の安定は損なってはならない。
ふたつの目標は、あれかこれかではない。あれもこれもなのだ。
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