朝日新聞朝刊 1997年09月10日
里帰りを静かに迎えよう(社説)
在日朝鮮人の夫や家族とともに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に渡った、いわゆる日本人妻の里帰りが、初めて実現することが決まった。
日朝両国赤十字の交渉で、北朝鮮側は里帰り希望者全員の調査を約束し、その「故郷訪問」を実現させるために必要な「すべての措置」をとると表明した。
日本側は、彼女たちの安全を確保し、里帰り終了後確実に北朝鮮に帰国させるための政府の「あらゆる努力」を約束した。
第一陣は来月にもそれぞれの出身地を訪れ、肉親らとの再会や墓参を果たす。
里帰りの規模は「訪問団」ごとに十数人とされた。約千八百人と推定される女性たちのうちどれだけが健在で、一時帰国の希望者となるかは、北朝鮮側の調査による。希望者全員の里帰りが実現するにしても、相当の時間がかかるだろう。
自由往来への道はなお遠い。この事業の行方も、朝鮮半島をめぐる国際政治の荒波に、もまれ続けるかもしれない。
しかし、合意の意義は損なわれないし、評価されなければならない。
ひとつには、在日朝鮮人の大量帰国が始まってから四十年近くもの間、一度も認められなかった里帰りに、とにもかくにも風穴があいたことである。
みずからの意思で北朝鮮に移住したとはいえ、かくも長い歳月、大部分の女性たちが日本国内の肉親や親族との面会はおろか、満足な音信さえ許されないできた。まさしく人道問題だった。
もうひとつは、今回の合意が国交正常化交渉のための雰囲気を改善し、日本政府が目下の急務である北朝鮮への食糧支援を実施しやすくなるということだ。
名実ともに金正日体制の確立を控えた北朝鮮側が、国交正常化交渉を急ぎ、日本人妻問題で態度をやわらげたのは、日本からの食糧と経済支援の取り付けという政治的な理由からに違いない。
また、日朝間には日本人の拉致疑惑をはじめとする難題が横たわっている。
だからといって、国際社会が北朝鮮の破局を避けながら開放体制への移行を促そうと努めるなかで、北朝鮮の深刻な状況にひとり背を向け続けることは、日本のとるべき選択肢ではない。
同時に、今後の日朝交渉は、あくまでも韓国、北朝鮮、米中両国による四者会談や、南北の関係改善と十分歩調を合わせながら進められるべきである。
朝鮮半島には南北に引き裂かれた膨大な数の離散家族が存在する。日本人女性の里帰りを歓迎しつつ、この実態を日本人はどこまで知っているのか、という声が韓国内にあることも忘れてはなるまい。
里帰りを迎えるために何より大切なのは静かな環境だ。政治的な動機や、なお根深い民族差別の意識から、この事業を妨害し、人権を傷つけることは許されない。
そして、日本人妻問題がなぜ生まれたかをあらためて考えてみたい。北朝鮮に渡った在日朝鮮人の多くは、戦前日本に徴用され、戦後は生活不安と差別に苦しむ人々だった。そうした背景を改善することに十分目を向けないで、希望者は帰国する方がむしろ彼らのしあわせにつながる、というのが当時の空気だったのではないか。
本紙も当時、自発的な意思に基づくのであれば、その帰国を妨げるべきではないという論調を掲げた。
時代の制約はある。だが、こうした経緯と現実を見つめ直すことなしに、朝鮮半島との確かな関係は展望できまい。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。