朝日新聞朝刊 1988年01月16日
天声人語
「蜂谷真由美」の記者会見があった。これほど陰陰滅滅たる記者会見というのも、めったにないだろう。暗くて、重苦しくて、そのくせテレビの画面から目を離すことができない、という雰囲気があった▼大韓民国の捜査陣の発表では、真由美は、朝鮮民主主義人民共和国の金賢姫(キム・ヒョンヒ)だという。女性工作員は、テレビの画面で見る限りでは、会見中、終始うつむき、顔を上げなかった▼質問されると、しばらくいいよどむ。それがくせなのか、あるいは緊張のせいか、唇の両端を時々きゅっとひきしめる。やや厚めの形のいい下唇が動き、低い声で、つぶやくように語りだす。一筋なわでゆかぬ闘士というよりも、その表情には、少女の硬さが残っている▼ソウルに来て車で市内を見、テレビを見ているうちに、北朝鮮で考えていた現実と正反対のものであることがわかった。欺かれて生きてきたことがわかり、裏切られた感じがした、と金賢姫はいう▼この発言が本気なら、彼女は、欺かれて115人の命を奪ったことのおろかさを、命を奪った後に悟ったことになる。恐ろしい話だ。ソウル支局から届いた長文の会見内容を読むと、初めは「記者会見はやめてくれ。静かに死なせてくれ」といっていたらしい。「私は100回死んでも当然です」ともいっている。会見内容にはなお虚実があるだろうが、それを読み、むざんだという思いが消えない▼五輪開催を混乱させる、というおろかしい指令があったとすれば、そのために命を奪われた人びとがむざんである。身をさらして罪をわびる工作員もむざんだ。金賢姫がうつむき続けたのは、彼女がとりえた唯一の拒否の姿勢であったのかもしれないし、罪の意識のためであったのかもしれない▼会見の最後に、今度の事件は「無意味でむなしいこと」だったと彼女はいった。無意味でむなしい事件の筋書きを書き続けるのはなにものか。
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