朝日新聞朝刊 1985年05月21日
'85春・北朝鮮から:6
昼寝廃止
早まった帰宅時間 毎週金曜には労働奉仕
平壌市の中心部を北から南に流れる大同江。その東側にそびえる高層アパートの2階に、大学職員、崔準沢さん(47)一家は住んでいる。美容師の妻、朴慶林さん(46)、大学1年の長男(18)、高等中学4年の次男(15)、女子高等中学1年の長女(12)の5人家族。「普通のサラリーマンの暮らしを見たい」と申し入れたら紹介された家族だ。妻の姓が夫と違うのは、結婚しても改姓する習慣がないためだ。
10畳、8畳の2K
日曜日の夕方、ドアをノックすると、ポロシャツにグレーのズボンというくつろいだ姿の準沢さんと、ピンクのブラウスに紺のスカートをはいた慶林さんがにこやかに迎えてくれた。
アパートは10畳と8畳ほどの2間に、4畳ほどの台所、浴室。日本でいう2K。つやつやとした茶色の床は、モルタル塗りの上に黄色い油紙を張ったもの。下に温水パイプが通っていて、4月下旬でもほんのり温かかった。
広い方の居間には、衣装ダンス、カラーテレビ、鏡台などがある。折りたたみ式の食卓を出して食事や勉強をし、夜は薄いフトンを敷いて寝る。準沢さんが「学習室」と呼ぶもう1つの部屋には、百科事典や金日成主席の著作のはいった本棚と、腰かけ机があった。壁には、主席と金正日書記の写真が3枚。勤め先の大学で撮った記念写真が2枚かけてあったが、その真ん中にも主席が座っていた。
「昨年4月に新しい勤務時間になってから、平日でも家族そろって夕食ができるようになりました。食後にテレビを見たり、おしゃべりをしている時、しみじみ幸せを感じます」。慶林さんが言った。
政府や企業の管理部門で働くサラリーマンはそれまで、昼休みが昼寝時間を含めて毎日3時間とされていた。そのため、帰宅は夜の9時、10時になることもしばしば。新制度では昼休みが1時間になり、準沢さんの勤め先では終業は4月から9月までが夜7時、10月から3月までは6時半になった。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では職住近接が原則。準沢さんの通勤は、バスと地下鉄を乗り継いで30分ほどだから、夕食に間に合うわけだ。
抗日戦以来の習慣
ホワイトカラーが、夜遅くまで働くかわりに昼寝をするという習慣は、抗日ゲリラ戦や朝鮮戦争のころ生まれた。それが制度化され、昼間活動しても危険のなくなった最近まで続いてきた。それをきっぱり変えたところに、この国の新しい息吹が感じられる。この改革は「健康に良い」「父子の会話が増えた」とおおむね好評である。
勤務時間は西欧並みになったが、何しろ、すべての国民は社会主義建設のための「戦士」というお国柄だ。サラリーマンの勤務にも独特の制度がある。
土曜日は終日学習
その1つが、毎週土曜日の「学習」。準沢さんは4月のある土曜日、平常通り出勤したものの仕事はせず、午前中を経営技術と金正日書記の著作についての自習と討論にあてた。午後は、朝鮮統一を支持するアジア人民の連帯の動きについて講演を聴き、「革命家」という映画を見た。土曜日に働かない分は、金曜日までの勤務時間を8時間以上にして補っている。
「金曜労働」という制度もある。毎週金曜の午後は事務所を出て労力奉仕をするもので、職員の健康増進と国づくりへの手助けが狙いだ。田植え時期には大臣までが援農に出かけ、国内の事務部門がカラになるという。「先週は大学牧場の整地に行った。1週間に一度汗を流し、休憩時間に歌とフォークダンスを楽しむ。みんな金曜日を待っていますよ」と準沢さん。パチンコ屋もマージャン荘もないこの国では、フォークダンスは数少ない娯楽の1つだ。
慶林さんは市内の美容院に勤務している。朝8時から午後4時までの早番と、午後3時から10時までの遅番を繰り返す日々だ。こうした職種や工場労働者には、金曜労働も土曜学習もない。勤務の合間に学習することになっている。
「日ごろの暮らしで、うれしいことは」と尋ねると、準沢さんは「子どもたちが学校で満点を取ったり、良いことをしてほめられた時です」と教育パパぶりを発揮した。
(岡田 幹治記者)
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