朝日新聞夕刊 1971年11月27日
チュチェの国 北朝鮮:8
ミジェ
「米帝」に激しい憎悪 動乱時の悲惨、いまも忘れず
平壌で、人民学校生の人形劇を見た。森の小動物が集まって、オオカミをやっつける話。オオカミはなにをさすのか、きいてみた。十歳前後の女生徒の答えは「もちろん、ミジェです」。
幼児も抗米教育
ミジェ。日本語にすれば、さしずめ「米帝」。託児所の壁には、子どもたちの遊動円木であごを打砕かれた米兵の漫画があった。幼稚園の遊戯には「アメリ力帝国主義をバラバラにしよう」というのがあった。アジア、アフリカ、ラテンアメリカの衣装を着た子どもたちが、米兵の人形を文字通りバラバラにした。そして、“朝鮮人民軍”がとどめを刺す。
革命途上でたおれた闘士たちの遺児を集めて教育している、といわれた平壌の万景台革命学院で、射撃練習の標的は米兵の模型だった。工場には「ミジェを追出そう」のスローガンがあった。放送で「アメリカ帝国主義者ども」ときかない日はなかった。「アメリカ」はまったくいいとこなし、だった。
「ミジェ」には、単なる「米帝」の意味だけでなく、憎悪がこもっていた。祖国解放戦争戦勝記念館には、「抗美援助」をかかげて支援した中国人民義勇軍の記念とともに、捕虜となった米海軍の情報収集艦プエブロ乗組員の軍服、そして戦争中に投下されたナパーム爆弾、細菌爆弾の破片が展示されていた。「アメリカ帝国主義者は、百余年前からチョソン(朝鮮)にたいして侵略と略奪の野蛮行為をしてきた」と説明された。百余年前の侵略は、一八六六年大同江をさかのぼって侵入、朝鮮人に焼払われた武装米船シャーマン号をさしていた。
軍事境界線に近い西海岸寄り、黄海南道の信川には博物館があった。「米帝の蛮行博物館」。パク・インチェク館長(四七)は「一九五〇年十月十七日から十二月七日までの五十二日間にわたるわれわれの一時的後退期、米軍は郡の人口の四分の一に当る三万五千三百八十三人を虐殺した」といった。
一九五〇年十月十八日から二十一日まで、地下ごうに九百余人を次々に押しこめ、ガソリンをまいて焼き殺した、と防空ごうを見せられた。コンクリートの天井に、壁に、無数にこびりついた黒いかたまりは「血とあぶらが焼きついたのです」と説明された。
同年十一月五日には、ソウォン貯水池で千人、七日にはポクウ貯水池で六百人の女性たちが殺された。ソクタン里では、十二歳の少女が、三歳の弟を背負ったまま生埋めにされた。タバコ工場の女性同盟員パク・ヨンギョ同志は拷問のすえ、ナイフで瓜をはがれ、両眼をえぐられ、乳房を切取られて殺された、と説明は際限なかった。
博物館の裏手に、二つの火薬庫の跡が保存されていた。案内嬢のリ・ジョンギルさん(二四)の説明によると、米軍が徹退する直前、ヘディスンと名乗る指揮官が「共産主義の芽も出さすな」と女子どもを手当り次第に集め、母子を引離して別々に監禁した。ひもじがる子どもたちには、水の代りにガソリンを与えた。そして、一九五〇年十二月七日、鉄格子のついた二つの高窓しかない二つの火薬庫にガソリンをまき、手投け弾をほうり込んで逃げた。
「九百十人の婦女子のうち、生残ったのは五歳のチュ・サンウォン少年と九歳のキム・ミョンジャ少女の二人だけだったのです」と語りながら、リさんは目に涙をあふれさせた。ソンミの芽はすでに朝鮮にあった。「力におごるものが敗れた時、その本来もつ蛮性はむきだしになるものです」とパク館長はいった。
“諸悪の根源”視
映画でも、テレビでも、反米ものをよく見た。米兵役は、スラブ系の俳優が演じていた。「ミジェは南朝鮮を占領、あらたな戦争準備に狂い立っている」と、どこでもきいた。それに備えて、全人民の武装化が叫ばれていた。ホテルのしとやかなウエートレスの顔が、人民軍の写真の中にあった。元山のキャンプ場では、銃剣をもった少年が歩しょうに立っていた。
十月に開かれた第三百二十三回軍事停戦委では、アメリカの超高々度戦略偵察機SR71の共和国領空侵犯がとりあげられていた。同委員会の北側首席であるハン・ヨンオク少将は、“米帝国主義侵略者”とその“手先”どもの挑発で、軍事境界線付近は戦争が明日にでも起りかねない情勢だ、とのべた。そして、ためいきを混じえて、「アメリカは白を黒といいくるめる卑劣なやつだ」。
この国で、諸悪の根源は「ミジェ」であった。
(宮田前特派員)
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