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解剖学実習を終えて
 井上 効子
 初めて解剖実習室に入った九月二〇日の事を、私は一生忘れない。
 実習に入る前、「解剖学のすべて」、「解剖学個人授業」といった解剖学に関する本を何冊か読んでみた。しかし、実際に御遺体にメスを入れる時、はたして私は何を感じ、又何を学ぶのか、想像もつかず実習を前に非常に不安を覚えた。
 前期で学んだ知識はその時点では、悪く言えば私にとってテストのためのそれであったと言っても過言ではなかった。それほど、それまでの知識は゛生きた″ものではなかった。
 御遺体の前に実際に立った時、医学の発展を願ってみずからの身体を献げて下さった方々の思いが私を圧倒した。この方々の願いに御応えする為には、その細胞の一つをも決して無駄にできないという思いが胸にこみ上げた。
 医学生や一部の医師でなければ決して御遺体にメスなど入れる事はできない。この時、初めて私は自分が医学生であり゛医学″という、とてつもない巨大な分野に足を踏み入れたのだ、という事を実感した。
 ゛医学″は非常に冷静で正確な頭脳と、人間愛や思いやりといった人間的な心を強く要求される分野である。それは゛解剖学実習″に集約されると私は思う。
 御遺体に対する尊敬と愛情、そして人体の構造を知るという冷静な観察、それを同時に追求してこそ得るものも最大になり、又御遺体の願いの答えにもなる。
 このような気持ちで始まった実習であったが現実はかなり厳しかった。たとえばアトラスなどで見た人体の構造の写真や図などは我々学生に理解させることを目的としている為、非常にわかりやすいが、実際はかなり違っていた。たとえば動脈、静脈、神経などをとっても最初は見分けがつかず、かなりとまどった。又生理学や医化学などとも多くの点がリンクしているという事も痛感した。
 そのため、一つの器官に関しても学ばなければいけない事が多く、他の科目の試験やレポートと重なった時など正直言って、本当に泣きたかった。実習にピンセットを持ったまま、睡眠不足で気が遠くなりそうになった事もあった。そういう時には同じ班の友人達とはげまし合った事が大きな力になったし、連帯感も生まれた。又、毎回実習前に行う黙で御遺体の思いを再確認し、最初の日に感じた感謝の念を思い起こすことができた。
 月に一、二回の特別講義も非常に興味深かった。実際に最先端の現場でどのような治療がなされているのかをかいま見る事ができた事は貴重であったし、それぞれの先生方の強烈な個性も忘れる事ができない。
 全三九回の実習は私に多くの事を教えてくれた。しかし、私の゛解剖学実習″はこれからも続くであろう。つまりこれからここで得た知識を本当の意味で生かす、という作業を行わなければならないからだ。
 御遺体への答もまだ出てはいない。それが出た時に初めて私の解剖学実習は終わり、それと同時にまだ見ぬ患者さん達への答になると思う。その日がいつになるのか想像もできない。しかし、それを知る事ができて私には本当に有意義な四ヶ月であった。
 最後に献体して下さった方々とその御遺族、又いつもはげまし御指導下さった先生方に心から感謝いたしております。
 本当にありがとうございました。








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