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16.最近の大氷河時代の諸現象
 氷河 (glacier) には大陸氷河と山岳氷河があり、山岳氷河には、U字谷を刻む谷氷河と山頂付近でお椀を傾けたような形で刻み込む小規模の圏谷氷河がある。圏谷は「カール」ともいう。従って、圏谷氷河はカール氷河ともいう。
 日本では、日本アルプスや北海道の日高山脈に、幾つかの圏谷の存在が認められるが、U字谷は日高山脈に1、2存在するという説がある程度で、明瞭ではない。
 現在、日本には実際の氷河は存在しない。氷河の芽生えとも言われる万年雪は存在する。
 大陸氷河の氷の量は、山岳氷河の氷の量に比べて比較にならないくらい多い。
 地球の歴史上で大陸氷河が発生した時代を大氷河時代 (Great Ice Age) という。数億年おきに地球の上では、期間の長さは長短いろいろであろうが、大氷河時代が訪れている。過去10億年以前くらいまでは辿れるが、それ以前は判然としない。
 現在は、最後で最近の、といっても、過去250万年程度継続し、さらに継続中であるが「大氷河時代」の真っ只中にある。
 ヨーロッパでは、古くより、付近の地盤とは異なる大小の礫が、地表に転がっていることがあり、その成因については、長らく謎とされ、「迷い子石」と呼ばれてきた。1840年、スイスのJean Agassiz (アガシー) は、種々研究の結果、ヨーロッパでは、過去に、広範な範囲に亘って大陸氷河が発達した時代があり、その氷河が基底や側壁の岩石を削剥して取り込み、流下して、最終的に融解する時に、こうした異種の礫をそこの地表に残したのであろう、と推定し、その考えを発表した。それがきっかけとなって、氷河の研究が進み、今日と違って、ヨーロッパの広範な地域が、大陸氷河に覆われた時期も何回かあったことが、追々と明らかにされていった。それで、大陸氷河が発達した時期を「氷期 (glacial epoch; glacial age)」、その間にあって、大陸氷河が衰退して、気候が温暖になった時期を「間氷期 (interglacial age)」と呼んだ。
 現在は、間氷期的な気候であるが、この後、現状が続くのか、次の氷期が襲ってくるのか、不明であったので、最終氷期の後の時期という意味で、長らく「後氷期 (postglacial age) と呼んだ。
 後述するが、今から10年ほど以前に、今は明らかに、間氷期の一つであることが判明した。「現・間氷期」と呼んでもよいであろう。
 長い年月の研究の末、過去60万年ほどの間に、ヨーロッパでは、少なくとも5回の氷期とその間に4回の間氷期、そして、最終氷期の後、現在に及ぶ後氷期 (実際には現・間氷期) が存在したことが判明した。
 古い方から順に、ドナウ、ギュンツ、ミンデル、リス、ウルム氷期と名付けられた。間氷期は、ギュンツ・ミンデル間氷期、リス・ウルム間氷期、というように呼ばれた。
 少し遅れて、北米大陸でも氷河研究が進み、ほぼ、ヨーロッパの氷期、間氷期に対応する時期に同様の氷期、間氷期が存在したことが判明した。
 北米大陸では、大陸氷河の南限がどこまで張り出していたか、ということを指標として固有の名称が与えられた。また、間氷期にも、それぞれ、固有の名称が与えられた。表−2に、両大陸の氷期、間氷期の名称をまとめて示す。
 北米大陸の最終氷期は、ウィスコンシン氷期と呼ばれる。ヨーロッパのウルム氷期とともに、しばしば用いられる。
 以上、判明している氷期、間氷期の期間は、50−60万年程度であろう、との見当がつけられた。しかし、それ以前にも、多くの氷期、間氷期の存在があったらしいこと、最近かつ最後である大氷河時代の長さは恐らく数百万年のオーダーであろう、との見当がつけられたが、正確なことは分らなかった。
 色々な残留物から、氷期の最盛期、どの程度大陸氷河が広がっていたか、という点については、早くから見当がつけられた。図−16下図は、最終氷期であるウルム氷期最盛期における大陸氷河分布を示したものである。上図は現在の氷河分布を示したものである。
 氷期最盛期には、ニューヨークもロンドンもシカゴも、厚い大陸氷河の下に埋もれていたのが事実である。
 ただ、ミンデル氷期、ウルム氷期、後氷期、などの期間の長さに関する数値的データがなく、科学的研究の過程としては、もどかしさがあった。
 海岸から沖合に向って平坦な地形が汎世界的に存在することは早くから知られていた。この部分を「大陸棚」と呼んだ。資料がまだ少なかった頃、水深200m付近まで大陸棚は広がっているものと解釈され、長い間、水深 200mまでを大陸棚の範囲と定義された。
 氷河は水の固相である。従って、斜面に沿って下がるにしても、流下速度は年間数m から数百m程度で、河川の水の流下速度と比べると、動いていないに等しいくらいである。
 氷河の氷の元は海水である。海面から蒸発した水分が上空で雨や氷片となり、大陸上に移動して、寒い環境で雪として降り積って、万年雪から氷に転化したものが氷河である。氷河の水分は、陸上に閉じ込められて、母体である海へはなかなか戻らない。従って、氷河が発達すると海水の絶対量は減少する。そのため、海面の位置は下がる。氷期には海面の位置は下がり、間氷期には氷河が大量に溶けるので、海面の位置は上る。このような長期に亘る海面の変動を「海水準変動」という。
 氷期、間氷期の存在が判明してから、海水準変動をともなったことが理解され、それにつれて海岸線が往復移動したことが理解された。
 その場合の波浪の営力で、削剥・堆積が行われて平坦な大陸棚が形成されたのではないか、というところまで、研究者たちの思考は到達した。
 それで、大陸棚外縁の水深調査があらためて行われた。行ったのはR. Dietz (ディーツ) とW. Menard (メナード) である。結果を1951年に発表した。
 その結果、大陸棚外縁の水深は200mではなく、120m程度であることが判明した。ただ場所によって、20m程度の±があるので、水深ではなく、海底傾斜が急に増して大陸斜面に転換する場所を以て、大陸棚の外縁とする、というように大陸棚の定義は改正された。
 米国のJ. Curray (カリー) とF. P. Shepard (シェパード・筆者の米国における恩師) は、1959年、ニューヨークにおける国際海洋学会議で、大陸氷河の量の変動に伴う海水準変動に関する数値的な測定結果を発表した。図−17に示す。
 テキサス沖の大陸棚表面の堆積物ならび露出岩盤を採取し、含まれている貝殻破片などのうち、波打際に生息するものを選別し、放射性同位体・炭素14 (14C) 法を用いて、年代を測定した。他の大陸周辺の試料も集めた。その結果が図−17である。水深80mで得られた試料は、約18,000年前、という古さを示した。
 カリー・シェパードは、これら測定点を、後氷期の海水準上昇、ならびに、5〜6千年前頃から今日に至る海水準安定の軌跡と断じた。ここで始めて、海水準変動に関する数値的な提示がなされたのである。
 二人は研究を続行し、数年後、図−18に示すように、2万年前の海水準は現在より、約120m低下していた、というデータを示した (F. P. Shepard, 1963)。
 この研究成果の発表がきっかけとなって、その後、氷期、間氷期、後氷期に関する期間的研究は急速に進展した。
 酸素元素の大部分は16Oである。がやや重たい安定同位体18Oも少量含む。
 冷たい海水や湖水は18Oをやや多く含み、暖かい海水や湖水は、18Oの含有量が少ない。従って、18O/16Oの値は、現在はもとより、古水温を測る寒暖計として使えることが分っていた。
 1959年の国際海洋学会議では、この方法を用いた化石などの古水温測定の結果が多く発表された。その中で、現在の地表・海面近くのレベルに生息した動植物の環境温度測定の結果も多く発表された。そのいずれもが、約1万年前から温暖化した、という事実を示していた。従って、発表者たちは、後氷期を、過去1万年、と定義した。その後の深海掘削試料の、この酸素同位体比による研究で、最終氷期であるウルム (ウィスコンシン) 氷期の最盛期は約2万年前であったことが、明らかになった。
 カリー・シェパードの研究から、当時の海水準は、現在の海面より約 120m低かったことが分っている。
 最終氷期に大陸氷河が最も発達したのは、僅か2万年前で、当時の海面は世界的に今より 120mほども低かった事実が判明したのである。
 話は遡るが、ユーゴスラビアのM. Milankovitch (ミランコビッチ) は、他の惑星の引力などの影響を受けて、太陽の周囲を公転する地球の軌道には周期的なゆらぎがあることを計算の結果、算出して1941年に発表した。
 表−3に、その5つのサイクルの数値を示す。これを「ミランコビッチ・サイクル」という。この表は、発表された後、長らく研究者たちの注意を引かなかった。
 インド洋をはじめとして、世界各海域からの深海掘削試料が集まるにつれ、海表面の古水温に反映された過去の氷期・間氷期の実態が判明してきた。
 その中に、ミランコビッチ・サイクルに対応する小変化が表れたので、このサイクルは大きな注目を浴びるようになった。
 ただ、サイクルの中では十万年サイクルが最も弱い。にもかかわらず、後述するように、実際の寒暖の差は十万年サイクルが際立って強い。
 それで、最近の1998年末まで、ミランコビッチの計算が、このサイクルについては間違っていたのではないか、という疑いが持たれてきた。事実は、間違いではなかったのである。
 図−19は、北大西洋の深海掘削試料から復元された、過去 250万年ほどの最近であり最後の大氷河時代の氷期・間氷期の寒暖のサイクルを示す図である。1990年のRaymo (ライモ) らの資料を、1991年、Crowley (クローリー)、North (ノース) が単純化したものである。
 その他、とくにインド洋の深海掘削試料も併せて、次のような経緯が明らかになった。
 インド亜大陸は北上してユーラシア大陸に衝突し、古地中海を潰した。衝突の圧迫は続き、インド亜大陸はいくらかユーラシア大陸の下へ沈み込みつつ、チベット・ヒマラヤ山塊の4千mほどの隆起をもたらした。2百数十万年前頃のことである。
 これで、地球上の気候に大きな変化を引き起し、新しい「大氷河時代」を招いた。
 圧迫はなお続き、60万年前頃にさらに、ヒマラヤ山系を5000mほど隆起させた。そのため、氷期・間氷期の気温差はより激しくなった。図−19からも、その事実は読み取れる。
 アガシーが、大陸氷河が存在したことに気付いた後、比較的早い時期に、過去50〜60万年間の氷期・間氷期の存在が明らかになったのは、この寒暖の差の増幅があったので、認識しやすかったのであろう。
 米国のW. S. Broecker (ブロッカー) とG. H. Denton (デントン) は、深海掘削試料などを詳細に解析して、1990年、今から10年前に、普及雑誌・SCIENTIFIC AMERICANに、図−20を発表した。図の右側に、過去60万年間の大陸氷床の盛衰の様子を示している。ミランコビッチ・サイクルが表れているが、弱いはずの10万年サイクルが際立って強く表れている。
 氷期に氷床は除々に増加し、最盛期に達すると、突然、気候は温暖化に転じ、氷床の量は激減する。間氷期の期間は短い。数千年から長くて3万年のオーダーであろう。
 従って、自然の現在の動向としては、現在は、間氷期の只中で、やがて次の氷期が襲ってくると見る方が自然であろう。
 現在は、「後氷期」ではなく、最近の「現・間氷期」、と理解すべきであろう。
 図−21に、本図の右側を抜粋した。
 図−22は、グリーンランドの大陸氷床の最高点から氷を掘削し、含有する18Oの量から、付近の気候変化の様子を調べたものである。W. Dansgaard (ダンスガード) らの研究結果で、1993年に発表された。
 寒い時期には、重たい18Oは、早く海に落ちるので、氷河まで辿り着いた18Oの量は逆に少なくなる事実がある。これが寒暖の指標になる。
 この氷床ボーリングは3000m下で岩盤に達した。そこの氷の古さは、26万年ほど前であった。左のコラムは、頂点から1500m下までで、そこでの氷は1万年の古さであった。寒暖の差は、26万年前から1万年前までは、激しく変動している。が、1万年前以降は、温暖で、殆ど変化せず、安定している。
 空気はよく流動するので、この場所での気候は全球的な気候を反映している、と解釈しても差支えないであろう。生物の種類から、過去1万年を「後氷期」という温暖な時期とした1959年の国際海洋学会議の大勢は、それなりの根拠が存在したのである。
 12,000年ほど前を挟む13,000〜11,000年前に、ヤンガー・ドリアス小寒冷期があったことは、よく知られている事実である。図−22にもよく表れている。
 図−3のブロッカーの「コンベアー・ベルト」という一大還流系については既述した。1989年、ブロッカー・ケネットらは、ウィスコンシン氷期の最盛期を過ぎて、北米大陸の氷床が縮小する段階で、生じた「アガシー湖」という氷河湖の水が、メキシコ湾に注いでいたものが、水位が上がり過ぎて、図−23のように、東の氷と礫で固化していた堤を破り、冷たい氷河湖の水が一挙に北大西洋に流出した。ために、冷たいが軽い淡水は、コンベア・ベルトの動きを一時的に止めた。それで、北大西洋は寒冷な気候に見舞われて、それが、ヤンガー・ドリアス小寒冷期を招いた、と説明した。それも長くは続かず、堤は復活し、原状に戻った、と想定した。
 ブロッカー・デントンの1990年の論文でもこのことを再記している。
 図−22の右側の柱を見ると、現在から見て一つ前の間氷期の中心は約12万年前である。図−24は、そのことを支持する別の研究結果である。過去14万年間の海水準変動の在り方を示す。J. Chappell (チャペル)、大村明雄、太田陽子らの研究で、1996年に発表された。
 これで見ると、リス=ウルム間氷期に海水準が比較的安定していた期間は数千年である。
 現在、世界の陸上の氷について見ると、南極大陸の上の氷床が90%、グリーンランドの上の氷床が9%を占め,残りが山岳氷河や、北極海の氷である。
 南極大陸やグリーンランドは、高緯度にあり、かつ高まりの上に氷床が載る。
 過去1万年間、継続した安定した気温では、北米、シベリアなどの低地の氷河をすべて溶かすには十分であったが、南極大陸やグリーンランドの氷床を溶かすほどには高温ではなかったのである。
 それで、5〜6千年ほど前に、溶けるべき氷の元が絶え、海水準が安定したのであろう、と筆者は解釈している。人類が過去5〜6千年ほどの間に、文明を発達させ得た原因は、偶然にも生起したこの海水準安定にあった、と解釈し、1963年以来、折々に発表している。
 それ以前にも文明の芽生えが、当時の海岸付近に生じた可能性はあるが、今は水没して大陸棚のどこかに眠っているはずである。
 国際深海掘削計画の Leg164航海は、フロリダ半島の東の大陸斜面で、氷状のガスハイドレートが崩壊して、その結果、生起した大規模な海底地滑りの跡と推定される場所を発見した。その結果は、1996年に発表された。図−25に示す。船上首席研究員はCharles K. Paulと松本 良の2人である。
 この航海の掘削点994,995,997をつなぐ音波探査記録と掘削孔の深さを次の図−26に示す。ここでは海底崩壊は起こっていない。ここで、ガスハイドレート試料が得られたし、これから述べるガスハイドレート層の基底であるBSRの音波反射面が明瞭に見てとれた。
 10数年前から、大陸斜面の下、500mほどの所に、海底面と平行する音波の反射面が存在することが知られていた。これをBSR (bottom seismic reflector) と呼んだ。当初は、地層面と判断された。が、掘削して得られたこの面の物質は、メタンガスなどを大量に溶かし込んで水と混じったシャーペット状の氷であることが判明した。
 常温・常圧の下では、大量のガスと少量の水に分離する。「ガスハイドレート層」という。主構成分はメタンであろうと推定された。BSRはこうした層の下限の面だったのである。将来の地下資源としても注目を浴びるようになった。
 また、この層の下に、生の石油や天然ガスが多くの場所で存在する事実も最近発見されつつある。大陸斜面下の資源はがぜん、注目を浴びるようになった。
 こういう下地があった。
 1998年、米国地質学会のニュースレターに当る GSA TODAYの11月号で、今回の講演者のお一人である米国のBilal U. Haq (ハク)博士は、極めて重要な発表を行った。大陸氷床が発達して、氷期が最盛期に達して、海水準がマイナス120m付近まで低下すると、物理的条件で、ガスハイドレート層は大量に崩壊する。汎世界的に海底地滑りが多発し、メタンなどのガスはフリーになって、何百倍にも膨れて海中を泡だって上昇し、海面から大気中に放出上昇される。
 メタンガスは、二酸化炭素の十数倍の温室効果を持つ。大気は急速に高温になり、大陸氷床の氷は急速に溶け、大陸氷床は急速に縮小する。そして短い間氷期が訪れる。 なぜ、間もなく氷床が除々に発達する氷期に入ってゆくのか、という点については、ハク博士は明白な説明をしておられない。研究課題として残しておられる。
 恐らく、雲量が増え、太陽エネルギーの地表・海面への直接入射の量が減るので、寒冷化が進むのであろう。氷期はその最盛期に向かってミランコヴィッチ・サイクルによる増減を交えながら進行する。
 この一連の経過に10万年かかる、ということであろう。10万年サイクルの原因は、地球軌道のゆらぎもあるが、それをはるかに超える起因が、実は、地球内部の大陸斜面の下に存在していたのである。これは大きな発見であった。放置しておけば、自然の摂理で、数千年先には、再び十万年サイクルの次の氷期に固体地球の表層は入るであろう。
 このことは、世界の多数の自然科学者や、そう多数ではないかも知れないが産業界や官界、政界の人々が知っていると考えた方がよい。まだ3年前の発表であるから、これから急速にこの知見は拡散して行くであろう。
 これが、二酸化炭素の増加による地球温暖化に対して、世界各国が、オゾンホール防止について、敏速に対応したことに比べて、何となく熱意の欠如が存在する背景となっている一因のように筆者には感じられる。
 ここで筆者が強調しておきたいことは、地球温暖化は全力を尽くして防止すべきである、という点である。
 過去1万年間続いた安定した地球上の平均気温では、大陸氷床分布の不連続である事実が幸して、極圏の高地の上に載る南極氷床とグリーンランド氷床はまだ溶けてはいない。一方、5〜6千年前までに、例えば北極海周辺のシベリア、アラスカ、カナダなどの高緯度でも低地の氷すら全て溶け去ってしまった。
 海水準は数千年の安定期に入った。文明の発達と人口の急激な増加は、このしばしの海水準安定に負うところが大であると考えられる。
 過去250万年ほどの現・大氷河時代にあっては、海水準は絶えず変動する方が常態であった。これは事実である。海水準が安定した期間はせいぜい数千年のオーダーであった。
 これからも、この自然のリズムは続くであろう。
 地球温暖化が進み、平均気温が上昇して、南極氷床やグリーンランド氷床の氷を溶かすところまでいったら大変である。かりに全部溶ければ、海水準は70数m上昇するという計算もある。数mの上昇は容易に起こり得る。そうなれば、沿岸都市・港湾・耕地などは放棄するか、防壁を築いて対応せざるを得なくなる。河川も水はけが悪くなるので、堤防の嵩上げが必要になる。港湾施設は浮体構造が主力になるであろう。
 当面、人為的二酸化炭素の排出量規制を行う。加えて、自然エネルギーを利用して、気候の現状維持を計る研究も推進すべきであろう。これには天才の出現が望まれる。 こうして、かりに、温暖化防止が成功して、南極氷床、グリーンランド氷床の溶融を食い止めたにしても、自然のリズムは、数千年先から始まる次期の氷期の来襲を我々に予告している。やがて、ロンドンもハンブルグも、シカゴもニューヨークも、2万年前、そうであったように氷の下に埋もれる。これは是非食い止めたいものである。そこで、一昨年から、筆者は、現在の間氷期的温暖な気候を、維持、あるいは、より好ましい状態に導くために、「新・万里の長城」を低緯度海域に構築することの提案を始めた。
 海底から索でつないだ太陽エネルギーの吸収板と反射板を、低緯度海域に、図−27のように、適宜並べる。そうして適当に温暖な気候を創出するのである。
 結果として、寒冷化防止と温暖化防止の役目を果たすことになる。
 膨大な費用がかかるであろうが、今、計画されているような、他の惑星に人工地球を構築する経費よりは少額で済むであろう。
 赤道上、静止衛星ではなく、太陽に対する静止衛星を打ち上げて、太陽エネルギーを地球表面に集中輸送する補助手段も使えよう。
 千年をかけて地球の真の姿を追及する。次の1000年をかけて新・万里の長城のデザインをする。さらに次の1000年か2000年をかけて建設する。
 そうすれば、次の氷期の来襲を防止できるであろう。共存する生物を含めて、我々の子孫のために、この程度の努力は尽くすべきであろう。
 図−28は、やや概念的な図であるが、大氷河時代の中にあって、日本海の存在が、日本列島に住む人々にとって、いかばかりの大きな恵みをもたらしたか、という立地条件を説明するためのものである。
 現在は間氷期的な気候である。海水準は上昇している。南方からは対馬暖流が対馬海峡を通って、コリオリの力で右寄りに押されつつ、列島の海岸寄りを北上して、大部は、津軽海峡を東流して太平洋へ抜ける。残部はさらに北上して宗谷海峡を東流して、オホーツク海に抜ける。暖流なので多量の水蒸気を海面上の大気中に放出する。
 冬には、シベリア高気圧から吹き出す乾燥した寒冷な北西季節風が吹く。これが対馬暖流に由来する水蒸気に当り、大量の雪を作り、脊稜の日本海側の斜面や平野にもたらし、世界一といわれる豪雪地帯を形成する。しかし、高緯度ではなく、夏にはその多くが溶けるので、山岳氷河の形成までには至らない。
 水源の涵養としては貴重な水分となる。
 他方、氷期になって、海水準が低下すると、狭隘で浅い間宮海峡がまず陸化し、次いで、宗谷海峡、津軽海峡も殆ど陸化する。対馬海峡の水路も著しく狭まる。従って、対馬暖流の流入は衰え、日本海は殆ど閉じた海となる。そして冷える。水蒸気は上らない。そのため、寒冷な風が列島に向って吹いても、雪は殆どできない。
 日本列島は、氷期、氷の堆積が殆どなく、間氷期に氷にまでは転化しない豪雪が日本海側に降る恵まれた土地なのである。
 日本は、氷に覆われて、人々が土地を奪われることのない所である。今、繁栄を極めているが、ニューヨーク、ロンドン、シカゴ、ハンブルグなどは、数万年後には、手段を講ずることがなければ、大陸氷河に覆われて、人や生物が住める場所ではなくなる可能性が強い。
 氷に土地を奪われることのない、日本の人々が、やがては氷に土地を奪われる恐れのある、ニューヨーク、ロンドン、シカゴ、ハンブルグの人々に、共存手段の模索を訴えてもよいほど、世界は、グローバル化した時代に入った、と考えたい。
17.黒部川扇状地沖の海底林
 1980年、日本海側の富山湾に注ぐ黒部川扇状地の入善町吉原の沖合、20mから40mの水深の場所で写真−2に示すような、立ち枯れの樹幹を、地元のプロダイバー・下田喬士氏らが発見した。下田氏は直ちに、富山大学の藤井昭二教授に連絡した。藤井教授から連絡を受けた筆者らも現地調査に参加した。文部省から臨時の科研費を頂戴した。
 調査範囲も拡大したが、やはり、水深 20m〜40mの範囲に存在した。
 図−29および30に存在海域を示す。
 樹種は、生存期間が短くて50年ほどの、ハンノキとヤナギが主であった。小川のほとり、海面上5m程度のところに生えていたものであろう。
 炭素14法によって得られた年代を図−31に示す。
 7500年前から10000年前ほどの古さである。
 立ち枯れであるから、根は地盤に入っている。転送されてきて埋没したものではない。また、現在の海岸線付近で埋没したものでもない。
 これは、広義の埋没林ではあるが、狭義の埋没林ではない。それで、「海底林」という新しい術語を作った。これは、大陸棚が、海水準低下時、陸上に露呈していた時期に、そこに林や森が存在したことを示す、世界で唯一の場所である。
 水深と年代の関係は、カリー・シェパードの海水準上昇の軌跡とほぼ一致する。
 筆者らは、図−32に示すような保存経過を考えた。
 かつて、大陸棚が陸化していた頃、海岸近くの低地にも林や森や草原があった。
 海岸沿いに砂堤ができ、付近は潟湖 (セキコ・lagoon) となり、木々は立ち枯れた。黒部川の洪水が土砂を運び、潟湖を埋め、幹の上部は切りさられた。後に、根と幹が高さ50cmほど残った。
 今、富山湾では海底の谷が、時折、海底地滑りで、陸に向って侵食している。谷頭の付近では、埋まっていた立ち枯れの樹幹が、海底に露出した。
 これも50年ほどの間に舟食虫が食べ尽くすであろうが、付近には、露出していない海底林がまだ多数、埋まっているものと推定される。以上である。
 筆者らは、1983年と1986年に、北欧の雑誌・BOREASに発表した。また、1988年、東大出版会から、「海底林」と題して出版した。
 1998年、富山湾とは能登半島を挟んで西側の石川県松任市の沖合、水深20m付近の海底で、同様に、立ち枯れの、ハンノキやヤナギの木の樹幹が発見された。
 炭素14法による年代は約8000年前後を示し、入善沖のものとよく合う。
 藤 則雄・金沢大名誉教授を中心とし、藤井昭二・富山大名誉教授、筆者らが参加して調査を実施した。
 この場所は、手取川扇状地沖に当る。従って、図−32と同様な経過を辿って海底林が保存されたものと推察される。
 通常の場所では、海水準上昇時、ゆるやかに進む海岸線付近で、波浪の営力により、木々や草は全て洗い流されるのであろう。
 海岸に直面する扇状地の沖合こそ、海底林の保存に適した場所であり、汎世界的に、そう多く存在する場でもないことが見えてきた。
 松任沖の成果の第一報は、2000年3月、松任市教育委員会の報告書として出版された。
 
 以上で小論を一応閉じる。








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