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空想主義的芸術家宣言・・・森村 泰昌
 後半は森村さんに話していただきたいと思います。
 森村さんは、私が所属した高津高校の美術部の先輩です。わが美術部は、美術部の甲子園とでもいうべき真夏の全国コンクールを目指してひたすら絵を描き続けるという体育会系の美術部でした。作家の藤原伊織さんや、今からお話いただきます森村さんなどの才能を輩出しています。そこに居たということを私としては誇りに思うしだいです。
 森村さんは、JR鶴橋のガード下にアトリエがありまして、一度寄せてもらったことがあるんです。森村さんの作品世界が凝縮されたようなアトリエであります。そのような場所から、世界的に評価されているような活動をなされているわけです。今年は巡回展をされてまして、十二月からは大阪で展覧会も行います。最近は芸術家としての活躍だけじゃなくて、舞台で女優業もされてます。あと映画にも出演されていて春に公開されるそうです。非常に多才な人です。あとは著作がこの二、三年相次いでおります。様々な文章を書いておられます。特に、「まあええがなの心」という本がありまして、これはお父さんの口癖なんだそうですが、すばらしい随想集兼都市文化論になっています。
 大阪にこだわらずそれでも大阪の文化を踏まえつつ、独自の価値を世界に発信していこうとされています。その辺りの話なども聞かせていただけるかと思います。ではご紹介いたします。森村泰昌さんです。〈橋爪紳也〉
◎ニューヨークの芸術のメッカ[ソーホーとチェルシー]◎
 「大阪からの発信――芸能・芸術と都市文化」でですね、このタイトルは最初に芸能が来てるんですね、そして次に芸術が来てるんです。これは明らかに差別ですよね。(笑)ところがですね、もし京都でこういう催し物をするとしたら芸術・芸能、と、先に芸術が来るだろうなと思うんです。これもまた大阪の芸能のもてはやされる土地柄ゆえかな、と思うわけです。こんな状況の中で私は芸術ッをやっているわけです。(笑)
 先ほど橋爪さんが仰いましたけれども展覧会をやります。私は大阪生まれで、ずうっと大阪に住んでるんですが、本格的な展覧会というものを大阪でやったことはないんです。一九八九年に大阪で一度やったんですが、それ以来ぜんぜんやっていないんです。私が大阪で催し物に参加するのは十三年ぶりです。大阪での大きな催し物となりますと、今年二〇〇一年が初めてということになるんです。やっぱりこれは芸能が重視される大阪での芸術に対する差別のようなものがあるからですね。あんまり深く考えてなかったんですが、林さんと田中さんのお話を聞いていると大阪の文化にはそういった一面もあるのかもしれない、とつくづく思ったりもします。
 今度の大阪でやる展覧会ですが、まず東京でやって、ニューヨーク・パリをまわって、最後に大阪でやる、そういう展覧会です。オープニングセレモニーをニューヨークで九月に開いた。その一日半後にあのテロ事件がありました。しばらくギャラリーは音信が途絶えましたが、一週間後に再開、おかげさまで成功のうちに終了しました。
 ニューヨークの芸術のメッカは、中心地はかつてどこにあったかと言いますと、ニューヨークのダウンタウン辺りなんです。そこにソーホー地区があります。昔ここに沢山の芸術家が安い家賃でアパートを借りて仕事をしていたんです。アメリカのというより世界の芸術の中心の場所だ、と言われてました。たくさん人が来るんです。もちろん海外からというのもありますが、アメリカの各地からも沢山の観光客がニューヨーク見物に来るんです。ニューヨーク見物にきましたらまずとりあえずソーホーを見に行くんです。芸術をやっている画廊にも見物客は来るんです。すると九〇年代になると、ソーホーは狭い町なのに人でいっぱいになってしまったんです。ところが、九〇年代後半になったら主なギャラリーがどんどんソーホーから撤退していってしまうんです。そして、西のチェルシーというところへ移動してしまうんです。昔自動車工場だった場所で、広大な土地があるわけなんですね。自動車工場を改装して、日本で言うならば美術館みたいなギャラリーがそこにいくつもできあがったわけです。そのチェルシーには食べ物屋さんさえろくにない、そんなところが美術の中心なんですね。これって、普通の、先ほどから聞いているような大阪的な商いのタイプとは全く違うんですね。大体集客っていうのは多くの人に来てもらいたいと思うからするんですよね、今の美術館も広告したり特別展をやったりして、来てほしい来てほしいと言うんですが、チェルシーに居てる芸術家やギャラリーは、あんまり人に来て欲しくないんですね。私の展覧会もそこでやったんです。ニューヨークというかアメリカでは芸術が文化の窓口のポジションにしっかりとなっている、だからすごい自信があるんです。芸術が文化の一角を担っているということが彼らのよりどころとして存在しているんです。
 今日のおふた方のお話を聞いて大阪やっぱりええわと思った、という方多いと思うんですねぇ。私もいささかそんな気になりました。やっぱり大阪ってこんなに面白いもんだ、というのはあったと思うんです。一般的に私は大阪にずっと住んでいますが、別にすごく好きだからそこに住んでいるわけじゃないんですね。何故か知らないけれども、まあ、とりあえず大阪でもええかな、と思うから住んでるていうことありますよね。少なくとも私はそうです。大阪に住んでいてもしょうがないかなと思ったこともありましたが、結局私は出てゆく機会を逸してしまった。それで今大阪にいます。鶴橋の高架の下にアトリエを構えました。鶴橋で芸術をやっている芸術家は実は私一人なんです。やっぱり焼肉屋さんがありますしね、それから洋服屋さんがあって、ときおり電車が上を通ります。非常に珍しいんですね、珍動物みたいなものですね。(笑)こういう珍しいケースは結構大事なんですね。この珍しいライフスタイルを維持していこうかと思っています。だけども、やはり大阪の人間ですから最近では、やはり、先ほどの田中さんのお話にもありましたけれども、やっぱりストーリーが欲しいというようなことを思っていました。パリのドゥ・マゴにサルトルが居たというストーリーは人を惹きつけるんです。私は芸術をやっているわけですが、芸術というのもやはりそういう人を惹きつけるところがあると思うんです。
◎小出楢重の温気と佐伯祐三◎
 今日は「小出楢重随想集」という岩波文庫から出ている本を一冊持ってきたんです。小出楢重と言う人は、一八八七年から一九三一年まで生きておられた人で、その没後七〇周年記念の展覧会があり、そんな機会もあって小出さんの文章を読む機会がありまして、今日はそれを持ってきたわけです。小出さんの文章の中にですね「春眠雑談」があります。小出さんは大阪の人です。芸術家が見た大阪ということになりますが、小出さん「温気」ということを書いている。大阪の街は空気が違うんですよ、わたくしなどもしばしば思います。空気というか心の状態の温気、温度が違うんですね。さしずめ今でいうとホットな街なんですね。もう少し本文を読みますね。
 「この温気というものは、何も暑くて堪らないという暑気のことをいうのではない、その温気のため寒暖計が何度上がるというわけのものでもないところの、ただ人間の心を妙にだるくさせるところの、多少とも阿呆にするかも知れないところの温気なのである。」と書いてあって、大阪の空気っていうのはそういう感じがありますね。
 「私は、大阪市の真中に生れたがために、この温気を十分に吸いつくし、この温気なしでは生活が淋しくてやり切れないまでに中毒してしまっている。しかし、かなり鼻について困ってもいる。そしてよほど阿呆にされている。」
 これは自分のことを言われているんちゃうかって思ってしまうんですよ。(笑)確かにこの温気っていうものは商いといったものや歌舞音曲といった芸能の世界に向かって吹いているように感じられるんです。この空気はビジネスと結び付くものにはいいんですが、芸術っていうものは成り立たないんです。芸術家っていうものはどこか高尚な呼び名のように聞こえますよね。(笑)
 それで、アトリエで一人になって、芸術について深く考えてみたりする時に焼肉の匂いがしてくるわけなんですよね。(笑)ここにも書いてあるように、思索をしようとすると歌舞音曲がどこからか流れてくるんです。考えたいんだけれどもそっちにも惹かれてしまって何を考えようとしていたのか忘れてしまう。(笑)小出は温気なしでは生活が寂しくてやりきれない成り立たない中毒してしまっている、と正直に書いてます。確かに私もそうです。でもやっぱりね、考えるということは私の使命ですからこれをやらなきゃいけないんです。
 「大体温気は、悪くいえばものを腐らせ、退屈させ、あくびさせ、間のびさせ、物事をはっきりと考えることを邪魔臭がらせる傾きがあるものである。大阪では、まあその辺のところで何分よろしく頼んますという風の言葉によって、かなり重大な事件が進められて行く様子がある。」「従って頗るあてにならない人物をついでながらに養成してしまうことが多い。よたな人物などというものは関西の特産であるかも知れない。」
 これはかなり現代の日本をいいあててるような気がする。
 「しかしながら、このぬるま湯の温気が常に悪くばかり役立っているとは思えない。温気なればこそ育つべきものがあるだろうと思う。例えば関東の音曲や芝居と、関西の音曲、芝居とにおいてその温気の非常な有無を感じている。」
 ここでまた芸能の話になって芸術は一体どこにいってんのか、という感じですよね。(笑)小出は関西の特に大阪の資質がある特殊な文化を生み出しつつあるに違いないとか生み出しつつあるに違いないだろうとか思っているのでしょう。引用した部分が、小出楢重のその部分に他ならないんです。だけど身を削るような思いで絵を描いていたわけで、にもかかわらずその作品というのは非常に豊かな色彩でその画風には非常に暖かいものが感じられる。厳しい芸術の中に大阪らしい特色を反映した温かい画風を生み出したのが小出楢重なんです。
 もう一人いるんですが、佐伯祐三という人です。この人は一八九八年に生れ一九二八年に死んでいるんです。佐伯祐三は大阪府に生まれ、東京美術学校を出てから、パリに留学するんです。佐伯の姿勢は私に言わせますと、いかに自分から温気を切り捨てていくかだと思うんですね。日本っていう国はよくも悪くも温かいところがあるらしくて、大阪などはその温気がそのままある街なんです。その温気を切り捨ててその後、東京にでているんです。パリという街も、佐伯にとっては日本での東京のような、暖かい温気を持たないような街なんです。佐伯祐三という人が東京やパリに行くということにはそういう意味があるんです。これは今私たちがパリに行くということよりももっと厳しい意味を持っているんです。私たちが都会を離れて大きな険しい山で厳しい修行を積む、その感覚に近かったのです。一方小出さんの方は、大阪に残っていたんです。佐伯は悩んだあげくに出て行く道を選んだ。小出と佐伯は芸術家の姿勢の二つのあり方を私たちに教えています。けれども、佐伯とおなじようなことをしても佐伯には勝てないということでしょう、自分の道を行くということが大事なんだ、と思ったのでしょう。








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