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◎摩梭人たちの民宿街―落水村の経験◎
 濾沽湖の湖畔には摩梭人たちの集落が十数力所ある(図[2])。なかでも雲南側の落水村は、摩梭人たちが四合院住宅を増改築して民宿経営に乗り出し、民族文化が体験できる観光地として成長を遂げ、この村自体が観光対象ともなっている。人口五〇〇人あまりの落水村は、寧から永寧鎮への道路沿いの貧しい村に過ぎなかったが、近年数万人から十数万人もの観光客が訪れるようになり、観光収入による「万元戸」が続出し、麗江地区で最も裕福な村の一つとなった。落水村は今や濾沽湖周辺の村々から羨望のまなざしで見られ、行政側も民族観光開発のモデルケースとして注目する存在となっている。筆者は八八年夏と二〇〇一年九月にこの村を訪れたことがあり、その時の記憶と聞き取り調査をもとに、民族観光開発の過程を簡単に述べたい。
図[2]濾沽湖周辺の概略図
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図[3]落水村の観光施設の配置(2001年9月1日現地調査により筆者が作成)
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 中国では外国人旅行者が訪問できる地域(対外開放都市)を国務院が認可することになっている。雲南側の寧は九二年一一月に対外開放された。実のところ、対外開放される以前の八○年代後半から、麗江(八五年六月対外開放)経由で、濾沽湖を訪れる「不法」外国人旅行者は、数こそ少ないもののあとを絶たなかった(註4)。これまた数こそ少ないが、八○年代後半には国内観光客も濾沽湖へ来るようになっていた。当時雲南側の濾沽湖周辺の宿泊施設は永寧鎮だけにあったが、永寧鎮は濾沽湖から二〇キロほど離れており、濾沽湖観光には不便であった。一方、落水村は濾沽湖のほとりにあり、村はずれには「猪槽船」と呼ばれる丸木舟の集まる小さな船着き場があった。落水村の直ぐ対岸はチベット寺院のある里務比島で、旅行者のなかには当時漁船として使用されていた猪槽船に直接交渉して、里務比島へ渡り濾沽湖遊覧を楽しむものもいた。漕ぎ手の摩梭人と仲良くなった旅行者は、しばしば自宅に招かれ、時には泊めてもらうこともあった。こうした良好な立地条件が落水村観光の発展基盤となり、旅行者との気長な相互作用のなかで、摩梭人たちは民族観光のホストとしての素地を育んでいった。
湖のほとりに建つ民宿「摩梭風情園」
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 寧が対外開放された九二年末、落水村には摩梭人の経営する民宿が数件開業し、民族観光地として本格的に歩みだす。これ以降、行政側の支援も得て、落水村は数々の好機に恵まれる。雲南省政府は九四年一〇月に濾沽湖を省クラスの観光開発区に指定し、観光投資に対する優遇政策を整備するとともに、観光産業に参入する地元民への資金貸付支援も行い、観光インフラ・観光スポット・観光ルートなどの整備にも積極的に投資した。
 九○年代中ばには多くの人々が、「濾沽湖は雲南省の観光地」と認識するようになり(註5)、それを決定付けたのが冒頭に述べた昆明世博であった。昆明世博に先立って麗江から濾沽湖(永寧鎮)までの道路整備が行われた。昆明世博に合わせてオープンした・民族テーマパーク・昆明海民族村には、海南側濾沽湖の摩梭人を展示する「摩梭之家」が「パイ族村」・「ナシ族村」と並んで建設された。昆明世博と海民族付は国内メディアで頻繁に報道され、中国国民に大埋(パイ族)・麗江(ナシ族)・濾沽湖(摩梭人)といった観光ルートを強烈に印象付け、濾沽湖と摩梭人は一躍全国区の知名度を得る。なお、麗江は九七年にユネスコ世界遺産に登録され、集客力を高めていた。雲南側濾沽湖は九九年に全国レベルの重点観光発展項目に列せられ、沿海部からの観光投資も続々と誘致され(註6)、雲南省第十次五ヵ年計画にも濾沽湖周辺の観光インフラに総額三億元を超える投資が盛り込まれた。二一世紀の観光開発戦略となる[雲南省旅游発展規劃総体規劃」によると、濾沽湖を含めた七観光スポットは潜在力と国際競争力があると最高の評価がなされ、数ある観光資源のなかでも優先して資金投入されることが決まった(註7)。
 二〇〇一年九月現在、落水村には三〇軒を超える摩梭人経営の民宿が軒を並べ、観光客相手のレストランや土産物屋なども立地している(図[3])。山側の幹線道路沿いは民家も残っているが、湖畔側はほぼ観光関連施設で埋め尽くされている。
 民宿の看板を見ると、「摩梭風情園」・「湖畔摩梭人家」や、「女児国阿夏園」・「摩梭母系文化園」といったものがほとんどで、「摩梭人」イメージが利用されている。民宿の多くは、観光客の増加しだした九七年から九九年あたりに開業したものである。大規模なものはベット数にして七○ほど、小規模なものでも二〇ほど、平均すると四〇程度で、村全体での収容可能人数は千人を超える。バスやトイレもない質素な客室であるが、一泊一人あたり数元から十数元で宿泊でき、何よりも摩梭人と同じ生活空間を共有して伝統文化と接触できるため、観光客の人気を集めている。
 九〇年代初め、落水村への観光客は麗江経由の外国人旅行者が多かった。九〇年代半ばから国内観光客が増えだし、近年では圧倒的に国内観光客の方が多くなった。なかでも四川からの団体観光客が多いそうである。中国の大型連休(春節・五一・十一)はもちろん、週末になるとどの民宿もほぼ満杯になり、平日でも観光客が全く来ない日はない。麗江には外国人の団体観光客が訪れるようになっているが、落水村にはまだ来たことがないという。しかしながら、村内のレストランにはピザなどの西洋料理を提供する店や酒落たバーもあり、英語の看板や観光案内も散見でき、大理や麗江のように外国人旅行者が滞在しやすい環境が着実に整いつつある。
外国人向けのピザ屋(上)と文化展示も兼ねる喫茶レストラン(下)
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 落水村に来る観光客は摩稜人経営の民宿に泊まり、村はずれの船着き場から濾沽湖遊覧に出かける。宿泊客が多い夜には、かがり火の焚かれた民宿の中庭で「歓迎の宴」が開かれる。一〇元の参加費を取られるものの、宿泊客はこれを楽しみにしている。歓迎する側は地元の摩梭人たちで、各民宿から少なくとも一人はでることになっている。開催される場所は各民宿が持ち回りで提供し、宿泊客は自分の宿泊先の人に誘われて宴に参加する。
 筆者も二〇〇一年九月、この宴に参加した。都会の民族レストランや民族テーマパークで見る洗練されたものと違い、一本の笛のみでリードされる踊りや歌は、素朴ながらも場の雰囲気ともあいまって盛り上がり、歓迎する側とされる側が一緒になって楽しめるものであった。「走婚制」イメージが浸透した昨今、ガイドに色々とあらぬことを吹き込まれた宿泊客たちは、男女を問わず、「宴のあとは…」と想いをはせる。宴のしめくくりは、相思相愛の走婚カップルが互いを想う心情を歌った「濾沽湖情歌」の大合唱で、宿泊客のほとんどがこの歌を知っていた。宴で集まった参加費は、場所を提供した民宿に場代を払って、残りは歓迎する側全員に頭割りで分配される。
 落水村の民宿の主要な観光収入源は、民宿の宿泊代・飲食代、歓迎の宴の場代・分配金、遊覧船・遊覧馬の運賃・ガイド代、民宿の門並びに併設したレストランや土産物屋の賃貸料(註8)などで、少ないところでも年収は数千元、多いところだと数万元から十数万元にも達する。民宿開業に際して、四合院住宅の増改築などに数万元から十数万元の投資が必要であったが、行政側の支援のもと銀行から借り入れて行い、ほとんどの民宿がその債務を二、三年で返し終えたそうである。
 濾沽湖周辺で最も賑わう民族観光地に成長した落水村であるが、その過程で様々な問題が生じ対策を講じてきたことも事実である。なかでも最大の問題は、大量の観光客流入で引き起こされる「観光汚染」で、九〇年代後半から、顕在化し濾沽湖の水質は急激に悪化し始めた。濾沽湖を母なる湖と大事にしてきた落水村の摩梭人の対応は素早く、共同体意識が強いこともあって足並みも揃っていた。まずは村民委員会でリン系洗剤の使用を禁止して、観光客の絶えない里務比島のゴミ拾い・持ち帰り運動を展開した。続いて、民宿に限らず各家に汚水池の設置を義務付けて、生活排水を濾沽湖に直接垂れ流すことを禁じ、一部は未完成だが下水道の埋設工事も行った。雲南省政府が四〇〇万元を投資した汚水処理場が二〇〇一年三月にようやく完成し、今では落水村の生活排水のほとんどがそこで処理されている。雲南側濾沽湖では、水質悪化の要因となっていた魚の養殖も二〇〇〇年七月から全面的に禁止されている。エンジン付きの遊覧船なども水質汚染につながるとの理由で禁じられた。まだまだ根本的な問題解決には至っていないが、雲南省・寧政府側も環境保護政策を次々と打ち出しており、摩梭人の生態環境保護に対する意識も高い。
 ただし、濾沽湖の環境保護には四川側の協力が不可欠であり、濾沽湖全体の観光開発においても四川側との関係は極めて重要な課題となる。例えば、魚の養殖も、雲南側は禁止したが、四川側は禁止せず収入向上の手段としてむしろ奨励してきた。








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